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獣の見た夢  作者: MAKI


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訪問者

 





 ロディア広場は混乱していた。

 まるっきり戦場。

 さっきまで勇ましい体を誇示させていた戦士が、今は地べたで冷たい骸になっている。

 普通の死に方ではない。

 人間らしい死に方からは最も離れた、悲惨な終わり。

 痩せ犬の死にざま。


 十傑将のロシャは恐怖と怒りで体が震えていた。

 あともう少しで俺は殺されていた……。

 襲撃者たちは信じられないような手練れ揃い。

 滅多にいないような達人ばかりだった。


 特に、二刀使いの奇妙な剣術と強力な魔術。

 見たこともないほど冴え切った殺人技術だった。

 そいつに大勢の側近ばかりでなくニケやピソルまで殺された。

 ピソルの魔法剣士としての腕は、間違いなく一流だった。

 ロシャはそれをよく知っている。それだけに驚きと衝撃は大きい。


 ロシャは混乱しそうになりながらも、まず金のことが頭をよぎる。

 ズマの金。失えばただでは済まない。

 生まれてきたことを後悔するような拷問の果てに殺されてしまう。


 焦燥しながら金貨や財宝の入った箱を守っているはずの手下たちを探す。

 襲ってきた奴らに反撃したときも、護衛だけは張り付けておいた。

 暗い広場では傭兵たちが大声を上げながら駆け回っている。


 松明が照らし出す夜の広場。

 刀で頭を斬り割られた死体、火魔術の爆発で内臓を派手に飛び散らせた手下たち。手の施しようのない重傷を負い、呻き声をあげて苦しんでいる顔見知りが、何の手当もされないまま転げまわっていた。

 戦場慣れしているロシャですら吐き気がしてくる。


 十傑将サルゴーダの手下たちが血眼になって敵を探していた。

 おそらく、襲撃者たちはあの強烈な氷結の嵐を創成した魔術に紛れて逃げ去っていることだろう。

 それでも複数方向から襲われたので、まだ広場に居残った敵がいるのではないかと疑っているのだった。


 血や肉片を踏みつけながらロシャは探し回る。

 やがて財宝の入った木箱を守っている手下たちを見つけたとき、ロシャは心から安堵した。

 おもわず目を閉じて溜息をついた。嫌な汗が全身を濡らしている。

 敵の追撃はサルゴーダに任せて、とにかく帰ろうかと思うが、ひとつ気が付く。

 もし帰り道にまた襲われたら……。


 生き残った手下で五体満足なのは十人に満たない。

 たらふく酒を飲み、娼婦に裸踊りをさせて楽しんでいた百人近い男たちは、今やほとんどが冷たい無残な死体になっていた。

 そうでなければ廃人確実の大怪我をしている。

 この頭数で金品を持って王都を移動する気になれなかった。


 ロシャは途方に暮れる。

 誰かを使いにやって宿舎に残っている手下たちを呼ぼうと考えていれば、声を掛けてくるものがあった。


「ロシャの兄貴。なんかお困りみたいですねぇ」


 見計らったように姿を現したのは十傑将のサルゴーダ。

 悪人面の多い傭兵のなかでも、ひときわ狡賢そうな顔をしている。

 細い目が、いやらしく、楽しげに歪んでいた。

 腐った性格が臭ってきそうな顔面ツラ

 兄貴と言いつつ嘲りの気配が隠れもしていない。

 十傑将は横並びの立場だ。たしかに上下関係ではない。

 それでも、十歳は若いサルゴーダから軽蔑されてロシャは止めどもなく怒りを感じる。

 このドブネズミを思わせる汚い顔を叩き潰したくなった。


「あれ。なんか怖い顔してますねぇ……。まぁ、かわいがっていた手下がほとんど全滅じゃそんな顔つきにもなるか。なに、金だけは無事みたいで良かったですよ。もし奪われたらズマ様の機嫌が悪くなるし、兄貴の顔も見られなくなっちまう。ひへへへ」

「てめぇ……。ずいぶん絶妙の時合(じあ)いで助けに来たな。襲撃を感づいていたんじゃないのか。知っていて黙っていやがったな」

「アヤつけんの止めてくださいや。ははっ。常在戦場。いつ襲われてもおかしくないでしょうに。そんなことも考えなかったのですか?」

「糞が……! そのわりには敵を逃しやがって。てめぇこそ手下を数十人も殺されているじゃねえか……討ち取ればズマ様から評価されたのによ。腰抜け野郎!」


 サルゴーダの狡猾そのものといった目がさらに細められる。

 陰険な鼠のような顔、口元には殴り殺したくなるほどの歪んだ笑みがある。

 互いに殺意が高まってきた。

 もともと殺人、暴力で成り上がってきた男同士である。

 最後は殺し合いしか無かった。

 特にメンツ、戦士の誇りに関わることなら何もかも投げ打つ。

 しかし、ロシャは金砕棒を握る掌から力を抜いた。


「サルゴーダ。お前の手下どもを貸せ。金をズマ様のもとまでこれから運ぶ。また襲われたらことだ」

「もう手配してありますよ……。じきに仲間たちが駆けつけて来るから、それまでここでビクビク怯えながら待っていてください。ロシャの兄貴、無駄にでかい体しているから目立つんで茂みにでも隠れていたらいいんじゃないですか」


 ロシャは金砕棒を石畳に叩きつけた。

 激しい金属音がする。

 岩を削ったような強面(こわもて)のロシャだ。怒りで歯を剥き出しにするとズマの幹部らしい迫力がある。

 だが、サルゴーダは人を見下した笑みを絶やさない。

 僅かに生き残った部下がロシャを宥める。


「あんたが死ぬとズマ様に報告する者がいなくなってしまうからなぁ」


 サルゴーダは勘に触る声で嘲笑い、そう言い捨てて立ち去る。

 見つかるとも思えないが、襲撃者たちへの追撃を再開するらしい。

 ロシャは地面に唾を吐いた。


 金だけが無事だった。それ以外……ピソルとニケ、約百人からの戦士が殺されたことを報告しなければならない。

 ズマは心臓と栄光に汚点を付けられたとして怒るだろう。

 もしかしたら制裁になるだろうか……。

 どこまでいっても糞壺に身を浸したような人生。

 ロシャは夢想する。

 こんなところで諦められるわけがない。

 いつか勝利に勝利を重ね、ついには広大な領地を任せられる。

 小さな王のような立場。数百人の奴隷に傅かれて何不自由ない人生を送るのだ。

 朝から酒を飲み、様々な遊戯に耽り、好きなだけ女を抱く……。


 ロシャは後からやってきた援軍二百人ほどに死体の片づけを命じて、重い足取りで歩む。

 既に夜明けだった。

 激しい戦いがあったロディア広場には野次馬が数えきれないほど集まってきた。数千人はいるのではないだろうか。


 群衆の顔には好奇と侮りばかりがあった。間違いない。

 我が物顔で王都を闊歩するズマの傭兵軍団は、ありとあらゆる地で恨みを買う非道を続けた。

 戦乱と飢えが頻発する世の中を、激しい暴力で突破してきたのだ。

 王都でも手向かうものを徹底的に叩き潰した。

 命乞いする相手の手足を切断して、往来に捨て置くようなことも数えきれないほどやった。


 そのズマの部隊が襲われて夥しい死者を出したのは、もはや娯楽であろう。

 ロシャはまるで見世物小屋の芸人に対する視線を感じながら移動した。

 威嚇して追い払おうにも、数があまりに多すぎた……。

 



 大商人エゼルフィルの邸宅に到着する。

 ズマに面会を求めた。

 ズマは応接間の中で、まるで王が座るような黄金仕立ての椅子に腰かけていた。細かい刺繍の施された華美なほどの衣を纏い、大きな宝石の嵌った装飾品をふんだんに身に着けている。

 まるで大貴族のような姿だが、化け物と呼んでも足りない醜怪な面相が決して貴族でないのを証明していた。


 部屋には十傑将のベルシオ、ヤッピ、ギニョールらがいた。

 騒ぎのことは耳に届いているらしくロシャを探るような視線があった。


 ロシャはまずズマの前で木箱を開けて中を見せる。

 金貨の枚数と工芸品の内訳を説明して、どこで何を手に入れたかが分かるように目録を差し出す。

 ズマの眼は財貨に注がれている。

 僅かの取りこぼし、誤魔化しも見逃さないという迫力があった。


「実はズマ様……昨夜、俺たちを襲ってきた輩がいやして」

「聞いている。ロディア広場で戦闘になったらしいな」

「それでニケとピソルの野郎が殺されました」

「お前は元気そうじゃねえか。さすが体だけは頑丈だな」

「いや。へへへ。手傷は負わされたんですが治療魔術師に治させました」

「それで? 襲って来たのはどこの者だ」

「……一人は殺したんですが、残りは……逃げられました」


 視界。激しく歪む。

 ロシャの大きな体が宙に飛んだ。

 顎が砕けたかと思うような衝撃。体が床に叩きつけられる。

 ズマの蹴りが全身を襲う。

 痛み、屈辱。

 ロシャは耐えるしかなかった。

 ここで抵抗する素振りでも見せたら……本当に終わりだ。


「俺に恥をかかせやがって……! 今日はな、ハーディア王女に会いに行くところだった。エイダリューエ家に居るのは分かっている。そのために手間暇かけて準備をしていた。ところが手下が百人以上も殺されて、敵は殺せてないだと……!」


 床に這いつくばるロシャの顔が、さらに変形する。

 ズマが踏みつけていた。

 ロシャは歯を食いしばる。

 咳。涙が滲む。

 これまでさんざん見てきた。

 失敗した幹部を、ズマが怒りに任せて惨殺するのを。

 十年来の顔なじみでも容赦しない。

 平気で殺して死体に放尿するのがズマという男だった。

 これが俺の最後なのか……。


 ふいに、圧力が止んだ。

 ロシャの頭上からズマの声がかかる。


「頑丈な野郎だ。まぁいい。金だけは守り通したからな」


 ロシャは跪いて感謝の言葉を口にした。

 羞恥心と屈辱感を飲み込む。


「ただし、今度しくじれば将から外す。早く金を集めにいけ!」


 追い立てられた犬のようにロシャは部屋を出る。

 ベルシオとヤッピは無表情。

 ギニョールは実に面白い見世物であるという顔をしていた。

 秀才らしい知的な表情をした男。黙っていればまともな魔術師に見えるが、やつの悪癖を知らない者はいない。

 年頃の娘を虐待した末に殺すのが生き甲斐の男。

 そんなギニョールのために娼館から逃げ出そうとした若い女がよくあてられた。


 一晩中続く女の悲鳴。

 臓器のいくつかを抜かれ、なお、もがき苦しむ女を眺め、至福の笑みを浮かべるギニョール。

 薄気味悪い、人でなしだが、魔術は本物だった。

 不意打ちを恐れているズマの身辺警護を主な仕事にしていた。

 表面的には礼儀正しい、学識のありそうなギニョールだったが、内実は殺人や残虐に淫する人間である。ズマの常軌を逸した暴力を見物するのも好んでいた。


 ロシャは少なくなった手勢を連れて王都に戻る。

 痛みで全身が燃えるように疼いた。

 爆発しそうな殺意。

 襲って来た奴らに向けるしかなかった。

 必ず見つけ出して殺す……。





 ~~~~~~





 アベルたちは貴族街を横切り、エイダリューエ家の門前に着く。

 オーツェルが門番たちを一時的に追い払い、王子王女が密かに戻ってきたことに気が付かせない徹底ぶりだった。

 邸内に入るなり、ワルトが毛むくじゃらの腹をさすり訴えてきた。腹が減ったと。

 無理もなかった。昨日から飲まず食わずだ。

 アベルは部屋で待っているように指示する。どこかで食べ物を手に入れないとならない。


 隣を歩くガイアケロンとハーディアが顔を隠していた布を解く。

 王女は何か重たい荷物を下ろしたような清々した表情をしている。

 ひと仕事を終えて、機嫌がよくなっているようだ。


 アベルの知るハーディアは王族として、あるいは軍団の最高責任者として、凛々しく覇気に満ちた姿をしていた。

 だが、仲間として認められてからは、優雅で知的な年頃の女性らしい態度を垣間見ている。


 アベルは昨夜の死闘を思い出す。バラバラに飛び散った手足や細長い大腸……。

 まだ体内に戦いの興奮が熾火のように残っていた。

 十傑将のニケとピソルを殺した。

 手下も七、八十人は確実に致命傷を与えたはずで、重傷者も数十人に及ぶはずだ。

 ズマに少なからず損害を負わせたが、金には手出しできなかった。やつの欲望の凝縮たる金品を奪ってこそ本当の成功といえるはずだったのだが……。


 大邸宅の玄関ではオーツェルの兄であり、エイダリューエ家を実質的に取り仕切っているギムリッドが仁王立ちしていた。

 その顔つきは厳しいが、ハーディアの顔を見ると切なげに緩んだ。それから走り寄ってくる。


「ハーディア姫。朝帰りとは随分と行儀の悪いこと。夜中のお忍びは楽しかったですかな」

「ギムリッド殿……」


 珍しくもハーディアが、すまなそうに体裁の悪い表情をしていた。

 ギムリッドには何も知らせないまま出て行ったのをアベルは気が付いた。

 考えてみれば当然だった。

 夜更けにズマの軍勢と戦うため、供もなく兄妹二人で王都に繰り出すなどギムリッドが承諾するはずもなかった。


「警備状況について詳細に報告したのは間違いでしたか……。僅かな隙を抜かれてしまうとは、私には言葉がありませぬよ」

「すみません。どうしても秘密裏にやらなくてはならないことがありました」

「詳しい話しを聞かせていただけますな」


 ギムリッドの物腰は丁寧であったが、有無を言わせない静かな迫力があった。

 さすがのハーディアも観念したらしく、ここでは憚られると小声で囁き、邸内へと姿を消した。

 慌てたオーツェルが血相を変え、事が荒立たないように仲介するべく二人についていく。

 どこまでいっても参謀は気の休まる時がない……。

 ガイアケロンは苦笑しつつその様子を眺めているだけだった。

 アベルは気になり、聞いた。


「ハーディア様を助けないのですか?」

「ここは下手に動かず妹に任せておくのがよかろう。うん、そのはずだ」


 なんだが厄介な仕事を押し付けたようで気の毒な感じがしたが、他ならぬ王子がそう言うのだから……。

 アベルには、あの途轍もなく誇り高そうなギムリッドをどうやって宥めるのか想像もつかない。

 もっとも逆にハーディアを責めるようなことだって、そうそう出来るわけもなかった。

 だから結局、いい勝負なのかもしれなかった。絶対に関わり合いになりたくない勝負だったが。


 朝食の前に用事があるとガイアケロンは言う。邸宅には戻らず、近くにある小屋へと向かう王子にアベル、カチェ、スターシャは付き従った。

 そこはシャーレの仕事ため貸してもらった場所だ。調薬の作業をするのにはある程度の場所が必要だった。

 軒先では質素な麻の頭巾と前掛けをして、忙しげに働いているシャーレの姿がある。

 薬師としてひたむきに働くその様子は陰湿な企みなどとは無縁で、何とも微笑ましさすら感じさせるのだった。


 シャーレは旅の間も王道国に到着してからも、多忙な毎日だった。

 常に様々な人から薬を求められている。

 特に胃腸薬や強壮剤の注文が多い。なにしろシャーレの調薬は確かで値段も良心的となれば欲しがる人は増える一方だった。

 行きずりの得体のしれない薬売りが扱っているものなど、どんな効果があるのか分かったものではない。

 不気味な薬売りよりもハーディア王女が重宝しているシャーレの方が比べものにならないほど信頼できるのである。


 実際のところアベルは、争いとは無縁であるべき幼馴染のシャーレをこんなところまで連れてきてしまったことに罪悪感があった。

 本当なら故郷のテナナに送り届けるべきだったのかもしれない。

 しかし、ハーディア王女が同行を希望したのとシャーレ自身が旅を熱望したことで、そうはしなかった。


 もし、イズファヤート王に謁見できる運びとなれば、安全な離れたところへ逃がしておくつもりだった。

 アベルは問い質してはいないが、ガイアケロンとハーディアはおそらく命懸けの反乱を狙っている。

 それでなくとも何が起きるか分からない。

 いかなる危害もシャーレに及ばせるわけにはいかなかった。


 ガイアケロンが小走り近寄り、シャーレへ親しげに挨拶をする。

 薬の材料を煎じるのに集中していたシャーレはそこで初めて王子に気が付いた。


「あっ。ガイアケロン様……」


 シャーレは嬉しそうに笑い、すぐに恭しく頭を垂れる。

 本来なら声を掛けられることも無いような身分差だったが、妹ハーディアのために確かな薬を提供する彼女をガイアケロンは気に入っているようだった。

 事あるごとに親しく話しかける姿をアベルは見ている。


 シャーレは喜びと動揺の混ざったような心持ちになる。

 ガイアケロン王子は、どうしたことか身分が激しく離れた自分に話しかけてくれた。

 恐れ多くもあるが、もちろん嬉しいことであった。

 なんと立派な男性なのかと感動に近い心境になる。

 かつては軍団を率いる英雄とあって、もっと(いか)めしい人物を想像していたものだ。

 だが、実際には端女(はしため)と変わらないような薬師である自分にも丁寧に接してくれる……。

 僅かばかりお情けをいただいているだけで、ふわふわと綿毛のように気持ちが浮ついてしまうのに恥ずかしさもあったが嬉しいものは嬉しい。


 ひとしきり会話した後、シャーレは作り終えていた安眠薬を王子に渡す。

 ハーディア王女は普段、完璧なほど王族としての振る舞いを崩すことは無いが、度重なる心労により不眠に悩まされているのであった。


 カチェはそれと悟られぬようシャーレの表情を窺った。

 エメラルドの色彩をした瞳は甘く揺れていた。

 女同士、気脈の通じるところもある。どうやらシャーレは王子に何らかの好意を抱いているようである。

 それが憧れ程度のものなのか恋心であるのか確信はないが……。


 ついでにスターシャの表情を見てみると彼女は濃く青い瞳に、嫉妬心を露わにさせていた。

 こういうところで表情を隠すような女性ではないのだ。

 勝気で、裏表の少ない性格。

 しかも、女官と違って本心を隠す必要もない。

 カチェはスターシャの耳元で囁いた。


「襲ったらだめよ……」

「そんなことするか!」


 スターシャは悔しそうにそっぽを向いた。

 考えていることを悟られて恥ずかしいのか、後ろを向いてしまう。

 意外と可愛いところもあるのだとカチェは微笑んだ。


 やがて王子はシャーレの仕事を邪魔するわけにはいかないと言って、別れを告げた。

 列柱廊の脇を歩いて玄関へと向かう。


「なぁ、アベル。シャーレ嬢とは幼馴染なのだろう」

「はい。物心ついたころからの付き合いです」

「ああやって仕事に専念している人間はいいなぁ」


 しみじみとガイアケロンは言ったものだった。

 悪意極まる陰謀などに晒される立場なので、ひたむきで素朴な者を好むのだろうとアベルは想像する。

 そういう感覚は理解できた。戦乱や政争から無縁の地で、人々のために薬を作る職業というのは欲望に塗れた自分の生き方よりも遥かに立派だと感じる。

 自分自身とて本当はどこかの平和な場所で、度し難い想念を封印してそんな生活を送れたかもしれないのに……。

 ふと、そんなことを考えたが、直ぐに打ち消した。

 そんなこと出来はしないのだから。


「アベル。何か子供時代の思い出とか無いのか? 教えてくれよ」

「そうですね。山野で茸や薬草を採取したりとか、家族で食事したり。別に変わったことはしていないですけれど。あとは一緒にお風呂に入ったこともあったかな」

「なにっ」

「いや。へへへ。子供のことだから厭らしいことなんか無いですよ」

「むう。そうだと思いたいな。幸せな奴め」


 不意にアベルは腕を掴まれた。

 かなりの握力で。

 攻撃的な紫の視線がアベルを貫く。


「初めて聞いたんだけれど? どうして隠していたの……?」

「べ、別に隠してない」

「楽しい思い出をお持ちですこと。嫌ねぇ、男って」


 カチェが渾身の力で二の腕を握ってくる。

 ぎりぎりと万力で締め上げられているようだ。

 最後は離してくれたけれど、これは痣になっているなとアベルは冷や汗を流す。

 鼻息の荒いカチェに今度はスターシャが笑顔で囁いた。


「襲っているのはそっちだろう。嫌だねぇ、狂暴女」

「うるさいわ!」


 ガイアケロンは機嫌が良さそうに、足取りも軽く歩んでいる。

 アベルは思わず聞く。


「なんで笑っているんですか?」

「はっはっは! 仲が良いのはいいことだな。さて、朝食でも食べさせてもらうことにしよう。今日はこれから会食があるのだ。人が大勢来る賑やかなやつさ。たまには食事ぐらい静かに摂りたいのだが、これも王族の勤めというもの。それにハーディアを助けてやらんとな」

「そういえばさっきギムリッド様が怖い顔をしていましたね」

「当り前さ。賓客が勝手に外出して朝帰りだ。いくら王族でも礼を欠くに過ぎる。ははは……」




 邸宅の玄関ではエイダリューエ家の執事や小間使いらがガイアケロンを待ち構えていた。

 慇懃な態度で会食の支度が出来ていると告げてくる。

 アベルは王子から同席を求められたので、断らずに付いていくことにする。


「それにしても僕の身分でいいのですか。この前も食事に同席させてもらって言うのも何ですが」

「人が多いほうがいい。私やハーディアだけで相手をするのは中々大変なのだぞ」


 隣を歩くカチェは無言であったが不服なのは明白だった。

 アベルは馬廻りということで、まだ辛うじて参席の理由も成り立つがカチェは侍女と偽っている。

 侍女では絶対に王族との同席は不可能だった。


 スターシャも会食に誘われたが、辞退してきた。

 王子から遠慮はいらないぞと念を押されたものの彼女の答えは変わらない。


「貴族の中には私を女戦士とみて低く扱う者もいますので。戦場では何人の男を捕まえて寝たのかだとか聞かれるとブン殴ってしまいそうですから」


 アベルは思わず吹き出しそうになるのを辛うじて抑えた。

 スターシャは千人将と同格の扱いなので、一介の戦士というわけではない。

 だが、スターシャは美人で同時にいかにも男好みする陽性の色気があるから、なおのことそうした言葉を掛けられるのだろう。ありそうなことだった。


「スターシャ。おまえに対する侮辱は我の侮辱だ。そんなことにならないよう配慮させる」

「ガイアケロン様……。お気持ちだけで充分です」


 スターシャが嬉しそうに笑った。

 やはりスターシャの性格を考えると、彼女の言う通りにするのが一番穏便だった。

 ガイアケロンはそれ以上、誘いはしなかった。


 ガイアケロンが邸内を歩いていると従僕、小間使いなどが頭を下げていく。

 アベルは供に見えるよう、王子の後ろをついて歩いた。

 警護の騎士などは先日、ガイアケロン王子とアベルが掛かり稽古をしたのを目にしている。

 不審に思う者は誰もいないようであった。


 会食は華やかな大理石のテラスで行われるようだった。

 明るい陽光が降り注ぎ、趣を凝らした庭園からは涼しい風が吹いてくる。

 広い長机がいくつも用意され、ハーディアやギムリッド、当主のセムなどエイダリューエ家の親族が揃っていた。

 老齢のセムは半ば隠居の身であるらしく、本格的に家政を取り仕切っているのはギムリッドであるのをアベルは理解した。

 そのギムリッドの表情は和らぎ、すっかり先ほど相貌に表れていた苛立ちは消えていた。

 むしろ上機嫌なほどの様子でハーディアと会話を楽しんでいる。

 ハーディアの手練手管であれば、機嫌を戻すのにさほど苦労もしなかったらしい。


「皆よ。待たせてしまったな」


 王子が颯爽とした姿を見せると席から立ち上がった人々が頭を垂れる。

 乾杯と共に賑やかな食事が始まった。

 王族兄妹が一同を見渡せる最上等の上座にいる。

 そこに一番近い次席がギムリッドとセムの親子。それにオーツェル。

 以下、一族郎党の力関係に従って下座へと移っていく。


 アベルは客側末端だった。

 隣席は千人長のアグリウス・コロブル。

 アグリウスは王道国貴族の嫡男で、年齢は三十歳ぐらい。

 闘犬なみに獰猛な顔つきだが愛嬌のある目をしている。意気盛んな男だった。

 みずからを下流のなかでは上の貴族と呼んでいた。要はあまり上等な家ではないと隠しもせず放言している。


 アベルはアグリウスとあまり話しをしたことは無いが、彼は戦列を最前線で指揮させると光るものがある武将だった。

 胆力があって陽気で、上品さはどこを探しても無いが丸っきり蛮骨というわけでもない。

 馬廻りのヴァンダルと共通した、いかにも武人という男。

 重要な点は愚かではないところだ。

 理解力を備えていてガイアケロンの命令を実行しつつ現状に合わせて柔軟に行動できる人間だった。

 そして、ガイアケロンとハーディアに対して、死も厭わない忠誠心がある。

 ガイアケロンの旗下にそうでない将など居なかった。


 先日の歓迎会よりもさらに人数は増え、顔触れも半分ぐらいは変わっている。

 ガイアケロンとハーディアには面会依頼が殺到しているので、こうして食事を共にできるのは極々名誉なことと思われていた。

 会食には親睦を深め、協力者を増やしていくという意味合いが強い。

 一種の政治活動だった。


 同席した四十人ばかりの者たちは皆、ガイアケロンとハーディアの話しを聞きたがる。

 特にせがまれるのは、やはり戦場のことだった。

 皇帝国の強大な軍団を破ったガイアケロンとハーディアの武勲は、王道国のあらゆる階級の人々にとって興味が尽きない。

 当然といえば当然すぎる。

 請われるまま王族兄妹は話し飽きたであろう事を、そんな内心を僅かも感じさせずに喋る。

 軽妙で魅力的な語り口は、誰にも好感を抱かせるに充分だった。

 事実、その場にいた者たちは早くも話に聞き入り、軽く興奮しながら笑ったり驚いたりしている。


 アベルは話しを聞いている素振りを見せつつ、料理を口にしていった。

 何種類かのパン、香辛料に漬け込んで焼かれた鶏肉、(うずら)のパテ、牡蠣と白身魚の蒸し焼きなどを従僕が取り分けて希望する者の前に配膳していく。

 殊に大きな海老の入ったスープが素晴らしく濃厚な味わいだった。

 新鮮な野菜と青豆の付け合せや甘い果実もあり、まさに贅を尽くしているとしか言いようがなかった。

 そんな料理を楽しんでいると、やがてガイアケロンがアベルの名を口にする。


「そこの馬廻りアベルなどは皇帝国の部隊を壊滅させたこともあるぞ。二百騎ばかりで倍以上の相手に攻撃を仕掛けてな。それゆえ、此度は父王様の謁見に供せないか御伺いしているところだ」


 エイダリューエ家の者たちがアベルを見て頷いたり、感嘆の溜息をつく。

 アベルは気恥ずかしさもあったが、軽く会釈した。

 王に謁見するにはそれなりの理由がいる。

 武功抜群の者にて引見願う、という建前が必要だったが戦果について偽りはない。

 冬季にコンラート軍団を相手として激しく戦った。

 出来ればあの戦いで欲深いわりに驚くほど臆病でもあるコンラート皇子を倒せれば良かったのだが、あと一歩というところで取り逃がしてしまった。

 アベルの斜め前に座っている娘が、興奮で青い碧玉のような瞳を輝かせ聞いてくる。


「アベルとやら。私の名はゼフィノア。当主セム様の又姪です。貴方はどうやって敵を倒したのですか。聞かせてちょうだい」

「簡単に言うと奇襲です」

「いきなり襲うのですね! なんて野蛮なのかしら。でも面白いわ」

「正々堂々、決闘のように戦うなどということは滅多にありません。戦場で混戦になれば背後から攻撃するのが上策です」


 アベルはゼフィノアという娘の様子を見る。

 まだ十六歳ぐらいだ。

 名門エイダリューエの一族だけあって素晴らしく上等な身なりをしている。

 長い茶褐色の髪は丁寧に洗われ、冠のように優雅に結えられていた。

 (ドレープ)が流れるような白の長衣、輝く金の装飾品。宝石の嵌った首飾り。

 日焼けもしていない顔は整っているが、いかにも上流貴族の子女らしく気位が高そうに感じる。

 年上であるのは明白なアベルのことを、あくまで身分はさして高くない現場指揮官の一人として見ているらしく、決して敬うような態度はしない。


 何故かゼフィノアはアベルに興味を持ったらしく、それからも色々と質問を重ねてきた。

 その内容というのは別に珍しくもない、よく聞かれるようなことだった。

 戦場では何を食べるのか。

 皇帝国とはどんな所なのか。

 怖くないのか……。


 ゼフィノアは好奇心が旺盛らしく、知りたいことが山ほどあるようだった。

 しかし、高貴な身分ゆえ外界に出られない環境に不満が溜まっているのが、ありありと察せられた。

 そういうところは少しカチェに似ている。

 だが、カチェと違って武術の心得は無さそうだった。

 話しをしていてもそうした素振りはない。体つきや手などを観察すれば、普段から鍛錬をしているかどうか分かる。

 どう見ても、剣など握ったこともないという印象しかない。


 しばらくアベルは聞かれたことに丁寧に答えていく。

 内心、やや面倒ではあったが……。

 周囲の貴族たちは、こうしたことを咎めはしなかった。

 素知らぬ振りをするか、むしろある種の余興として扱っていた。

 やはりガイアケロン王子の馬廻り、さらには戦功の者ということでの特別な待遇であった。

 それにアベルは王族兄妹から重用されていると見て、階級社会の例外として認められたらしい。

 アベルは素性を明らかにしていないが、どうやらエイダリューエ家では甚だしく没落した貴族の出身ではないかと想像している節があった。

 もちろん、それは完全な誤解なのだが……。

 いずれにせよ、王道国でも屈指の名門エイダリューエの少女と、身分すら定かでないアベルとでは戦争でもなければ本来、交わることもなかったはずだ。


 やがて会食は終わったが、ガイアケロンとハーディアは続けて活動をしなければならなかった。

 その内容のほとんどは方々から来た人と会って話しをすることである。

 いま、王道国の貴族たちの多くは次代の王として長兄イエルリングを有力視していた。

 だが、複雑な思惑、利権、恩讐、血縁関係などが影響して貴族たちはいくつもの派閥に割れている。

 不利な立場のガイアケロンとしては、その隙を狙って協力者を増やしたい考えがあった。

 ただ、どんな者でも構わないというわけではない。

 品性下劣な者とは取り引きしない潔白さがガイアケロンにはある。

 アベルは祖父バース公爵の言葉を思い出す。

 ガイアケロン王子は政治的に選り好みが強すぎ、それは明らかな欠点であると……。


 王族兄妹とギムリッド、オーツェルらは席を立ちどこかに姿を消した。

 館の中には盗み聞きをされないための特別な部屋があるようだった。

 まずはそこで相談をしてから、次の仕事に取り掛かるようだ。

 アベルはガイアケロンから何時(いつ)呼び出しがあっても応じられるように準備していると、さきほど会話をしたゼフィノアが近づいてくる。


「ねぇ、アベル。午後は暇でしょう。私がお茶を淹れてあげる。皇帝国のことなどもっと語って聞かせなさい」


 ゼフィノアは、いかにも魅力的な誘いだろうと言わんばかりであり、そこはかとなく高慢さを漂わせつつ言ったものだ。

 僅か齢十六歳程度でこうした態度を取れるあたり、やはり貴族の令嬢というのは何か別の種類の生き物かと思う。

 それにまだ小娘という年頃のわりに自分の姿に自信があるのか、色香を交えた女の交渉術らしきものを漂わせている。

 身に纏う長衣も肩から腕が全部出るようなデザインになっていた。立派にそういう効果を狙っているのかもしれない。


 アベルは面倒くさいことになったと慄きすら感じていた。

 貴族の我が儘さ、誇りから出てくる無分別な熱意、それでいて飽きた時の冷淡さなどは骨身に染みている。

 何か思いきり下品でくだらない冗談でも言って煙に巻き、逃げるのが上策だ……。


「お茶といえば戦場で飲み水がなかったら、代わりに馬の小便を飲むんですよ。僕は何回も飲みました」

「はぁ?!」

「下手な泥水を飲むより腹に良いんです。馬の尿は意外と粘り気があって薬効もあるという人がいますね」

「……うっ……」

「そんなわけで小便の味は分かってもお茶の味なんか分かる者ではないので。そんな勿体ないことしないでください。それでは」


 アベルは素早く踵を返して庭を歩く。

 清水生成が使えるから馬の小便なんか飲むはずないだろうと、ほくそ笑む。

 もっとも魔法が使えない兵士や、あるのか無いのか不明な薬効を期待して飲む人は本当にいるのだが。

 とりあえず、そこらをぶらついて時間を潰してから、また戻ればいい……。

 そんなことを考えていたら背後からゼフィノアが追ってきた。

 顔を真っ赤にさせている。


「待ちなさい! この……アベル!」


 ――ええっ! やばい子だな……。

   さすがに諦めると思ったのに。


「嘘を言って驚かせようという魂胆ですね。どういうつもりなの!」


 どういうつもりなんだというのはこっちの台詞だとアベルは口に出しそうになったが、それだけは辛うじて耐えた。

 

「すみませんがこれから任務があります。またの機会に」


 ゼフィノアは予想とは違った答えに途惑い、神経質に眉を動かしたが、すぐに取り繕って言う。


「……こういう時は無理をしてでも私の要求を聞くものです。貴方はなかなか賢いと思っていたのにがっかりさせないで。どうして私に頼まないのですか。任務を他の者にやってもらえるように口を利いてくれと。私が御爺様に依頼すればどうとでもなるのですよ」

「お気遣いに感謝します。ですが、僕には義務があります」

「貴方は勘違いしているわ。私はエイダリューエの血族ですよ? 私の願いを聞くのも義務のうちでしょう」

「武人の義務とは死ぬまで戦うことです。僕もガイアケロン様のために戦い、すみやかに死ぬことでしょう。それ以外のことはしたくないし、するつもりもありません。失礼します」


 絶句したゼフィノアを無視してアベルは離れた。

 これぐらい言っておけば、もう話し掛けてこないだろうと安心する。

 本当に小娘の相手どころではないのだ。

 出来れば、さらにズマへ襲撃を仕掛けたい。

 しかし、昨夜の襲撃で敵はすっかり警戒を強めてしまっただろう。

 機会の少なさに焦燥感が湧く。

 もう、まもなく第二王子リキメル、それから第四王子シラーズが王都に来着するはずだ。

 そうなったらイズファヤート王に謁見できるかもしれなかった。

 いったいどんな男だろうか……。




 ハーディアはギムリッドの機嫌を取り戻し、食事会では列席した全ての者と言葉を交わした。

 およそ計算と演技でしかない遣り取り。

 隠し扉から入る秘密の会議室で相談を終え、すぐさま面会へと移る。


 ハーディアは僅かな隙に鏡の前に立ち、身だしなみを整えた。

 もともと化粧はあまりしないが、薄く紅だけを引いた。

 微笑んでみる。

 顔に完璧な笑顔の仮面をつけたようなものだった。

 仮面は重要だ。

 微笑みは人を惹きつけ、油断させるための武器にすぎない。


 次々に現れる来客者。

 お世辞と愛想笑いの洪水。

 誰も彼も平伏し、有らん限り兄妹を褒め称え、忘れずに自分を売り込んできた。

 あるいは隙があれば兄の真意を探ろうとしてくる。


 そうした化かし合い、騙し合いの果てに数多くの男たちがハーディアに恋情を寄せてきた。

 渡される手紙はまるで同じ例文から書き写したのかと思うほど似ていて、誰がどの便りを送ってきたのか、注意しないと分からなくなる。

 いずれにしても結局はハーディアと交際し、思いを遂げたいというような内容ばかり。

 そのためならば金も命も捧げるという。

 飽き果てた言葉ばかりだった。


 ハーディアは、ふと我に返れば虚しさに行き着いてしまう

 幼少時代から暗殺と父親に怯える日々。

 本当に心から豊かだと感じた時は、いったいどれほどあっただろうか。

 存在していたとして、ほんの瞬時ではないだろうか。


 恋も知らないと言ってよかった。

 男をそういう意味で好きになった覚えがまるでない。

 強いて言えば兄ガイアケロンは男として、あまりにも完璧であった。

 もちろん兄だから恋慕とは違うものだが、常に憧れのようなものがあり、自然と比較してしまう。すると(おびただ)しくいるはずの男たちは例外なく霞んで見えてしまった。


 唯一の例外と感じるのは、どこか陰鬱な、それでいて奇妙な魅力のある視線をした青年アベル。

 説明不可能だが、どうにも気になって仕方がない。

 取り繕ってはいるが、彼から隠しきれずに滲み出ている狂気と紙一重の気配。

 何か途方もなく叛逆的な魂が現実ではなくて、およそ叶わない空想を追いかけているような……。

 それでいて兄には真実の誠意を見せていた。

 昨日は命がけでズマの手下どもを殺してくれた。

 やはり、あそこまでされれば助けたくなってしまう。

 危険を承知で広場まで行き、包囲されつつあるところで敵を斬り捨て、救出した。

 一体感を味わいつつ眺めた朝日。久しぶりの爽快感。


 もしかしたら恋自体に憧れているのかと、ハーディアは自分で考えなくもない。

 しかし、そうだとしても死ぬ前に一度ぐらい、空に舞う幻のようなものでも構わないから甘い恋を味わいたかった。

 死は遠くないどころか、むしろ間も無くやって来るのではないか……。

 そう思えば焦るような気持ちすら湧く。


 だが、恋を手に入れるには、かなりの我慢をしなければならないだろう。

 我慢……。

 そんなことをして手に入るものに価値はあるだろうか。

 とはいえ生きている限り自分の立場から逃げることはできない。

 運命を背負い、最後は月夜に散る花弁のごとく我が身は散ってしまう。

 恋は無理でも、せめて死ぬまで力を尽くして戦うべきだった。


 そうした闘志と情念を胸に滾らせたハーディアには、一種異様な危険なほどの色香が漂っている。

 結局、面会した者たちの心を激しく魅惑させ、どうしても協力しなければならないという気にさせる。

 また、いかにも命を王国に捧げる武将の気位もあるため、すっかり感化されて涙を流す者までいたほどだった。


 傍に控えていたギムリッドは石像のように体を固まらせ、耐えていた。

 昨夜は自分の知らぬ間に邸宅を抜け出して、ズマの部隊に奇襲を仕掛けたのだという。

 あの傲岸不遜な傭兵どもに対する牽制。それにしても身を捨てた危なすぎる行い。

 どうして相談してくれなかったのかとギムリッドは激しい屈辱に感じ、拳を握り締めた。

 ハーディア姫のためなら命も捧げると宣言しているにも関わらず、袖にされている。

 頼りにならないと見做されているのだろうか。

 これほど悔しいことは無かった。


 いまやギムリッドの願望はガイアケロン王子を王位に据えることに留まらなかった。

 ガイアケロンの側近として王道国の采配を振るう宰相になるというのは、言わば分かりやすい整った野心だった。

 それよりも、もっと自身の嗜好を満足させそうな欲求が浮かんでいる。

 ハーディアのために血を流す労苦をすれば、これまでの人生になかった激しい達成感があるに違いないと……。


 高貴極まる名門エイダリューエ家の嫡男が、まったく徒手空拳の従者のように振舞うのだ。

 空想的なほどの自己献身に、どうしたわけか官能を帯びた快楽すらあった。

 きっと多くの将兵が、こうした気持ちに似たものでハーディアに仕えているのではないか。

 そう思い至れば、ますます誰にも負けられないという気持ちが湧き出てくる。

 精神で負けてしまえば、例えば馬廻りとはいえ低い身分らしいアベルにすら及んでいないという証明になってしまうのだから。

 これまで遠距離からの支援であったものが至近距離からの力添えとなり、侵入事件や襲撃と相次いで、ギムリッドの燻っていた心に火がついていた。


 やがて十組の面会を終えたあたりで、ある貴族の使者が姿をみせた。

 それはリシュメネイ家の嫡男ナセリで、これはアベルからの依頼によりガイアケロンが呼んだものだった。

 旅の途中でリシュメネイ家の親族と出会い、便りを託されたのだという。

 その名をリシュメネイ・リアンとクアンという、双子の兄弟であったという……。


 リシュメネイ家は今のところイエルリングを支持する派閥に属しているため、最初は招きを断ってきた。

 だが、儀礼的な意味合いだけでよいので応じよと再度、ガイアケロンが頼むとやっとそれでこうして使者を遣わしたというわけだ。

 リシュメネイ家の当主は姿を見せていないので、しぶしぶ応じたという体であろうか。

 ガイアケロンは控えの間で待たせておいたアベルを呼ぶ。

 アベルは使者に一礼して手短に用件を伝えた。


「無理を承知で、お渡ししなければならないものがあります。御家におかれてはリアン様とクアン様という二人のご家族が行方不明になっていると思いますが」


 使者のナセリは口髭を生やした壮年で、王子を前にしても落ち着いた物腰だったが思わぬ名を聞き、表情に動揺とも驚きともつかない気色が現れた。


「その方は、かつてリシュメネイ家の長男と次男であられました。私も幼少のころ、可愛がっていただいた記憶があります。しかし、今から三十年近くも前から行方知れずでして……。どうしてお二人の名を出されるのか正直当惑の至りですな……」

「詳しい説明は御家の当主様にしたいのですが、お許し願えませんか? 実はそのお二方は遠く離れた地で生きていらして、この僕に便りを託されました。もし、王道国へ行くことがあればリシュメネイ家に届けてほしいと」          

「あ、あまりに唐突な話しですので……何と答えたものやら。今、便りとやらをここで渡していただくわけには参りませんか」

「当主にのみ直接手渡してほしいとの依頼です。かのリアン様とクアン様には魔術を教えていただくなどしていただき、まさに恩人であります。約束を違えたくはありません」


 ナセリは沈黙して視線を彷徨わせる。

 あまりにも想定外の問題を投げかけられて答えに窮していた。

 そこでハーディアが助け舟を出す。


「ナセリ殿よ。それほど難しいお話ではありません。これはリシュメネイ家に対する恩返しです。便りを渡したのなら、それで事は終わりです。このことは我らもそれきり忘れます」


 王女から諭されてナセリの態度は決まった。

 何はともあれアベルを伴い、自邸に戻ることになった。

 アベルは安堵し、胸を撫で下ろす。

 あの二人の老人には実に助けられた。託された短簡を届けて約束を果たし、楽になりたかったのだ。


 部屋を出たところでカチェが無言のまま後を付いてくる。

 見逃さないぞ、という顔をしていた。

 ほとんど猟犬並だった。

 本当なら猟犬はワルトの役割だが、あいつは会食の残り物をたらふく食べたあと昼寝のために何処かに行って姿を見せない。


 馬に乗り、エイダリューエ家から外へ出る。

 あまり遠いと厄介だとアベルは考えていたが、拍子抜けの結果になった。

 リシュメネイ家の敷地は、ほんの数メルテほどしか離れていなかった。

 規模はエイダリューエ家に比べてしまえば半分ほどだが、やはり歴史ある家柄らしく壁や建物に古色蒼然とした風格があった。


 ナセリは足早なほどせっかちに移動して、アベルとカチェは離されないように付いていった。

 警護の者や、執事らしき者も仕草で制すると、やがて屋敷の居間に通される。

 落ち着いた雰囲気の織物などで壁は飾られているが、どうにも陰気な空気が充満している。

 こうしたところに嫌でも家風が現れるものだった。


 ここでしばらく待っていてくれとナセリは言い残し、姿を消した。

 少しばかり奇異に感じつつも、アベルらは従うしかない。

 とにかく、ここまで漕ぎ着けたのは王族兄妹のおかげだ。

 階級社会において、貴族の家はそう簡単に面会や訪問を許さない。

 顔見知りでもなければ縁戚でもない貴族に会うためには紹介状などが必要だ。

 逆に言えば、伝手すら用意できない者に会う意味を認めていないわけでもある。


 しばらくアベルとカチェが待っていると、やがてナセリが人物を伴って現れる。

 老齢のその者こそリシュメネイ家の当主、ラバードだった。

 ラバードは既に老齢で、年齢は六十歳ぐらいだろうか。

 白い髭を蓄えていて、疑り深い視線を投げ掛けてくる。

 はっきりと歓迎されていないのをアベルは感じた。だが、とにかく約束だ。

 物入れから単簡を取り出す。それは麻縄に括られた木の板である。それを机の上に置いた。

 だが、遥か彼方から奇跡的に届いた便りをラバードは冷えた視線で見るのみ。手に取りもしない。

 堪りかねたアベルは聞く。


「どうしましたか。これがリアン様、クアン様の便りでございます」

「何の冗談ですかな? 封蝋も無く、紙ですらない。これは手紙とは言えませぬ。王子の側使えというからお会いしたのですが」

「お二方のいた地は魔獣界の奥地です。紙などありませんでした……。リアン様とクアン様は飛行魔道具の研究をしていたはずです。その事故で、もう二度と王道国へ戻れないほど遠くへ飛ばされてしまったのです」


 ラバードは思わず顔を引き攣らせた。

 あの二人が行方不明になってから数年後、隠されていた家屋を領地で発見した。そこに残された物品からリアンとクアンが魔学の研鑽に使っていた施設なのが判明している。

 調べると、どうやら飛行装置についての研究を行っていたらしい。これにより二人が不意に姿を消した理由がやっと推測できた。

 おそらく実験中にどこか人のいない地域に墜落したのだろうと……。


 そうした事実はリシュメネイ家の中でも、ほんの限られた者しか知らない。

 それを、この突然現れたガイアケロン王子の側仕えが口にした。

 信じられないが、事実だ。

 ラバードは強く警戒する。


 リアンとクアンが居なくなったことにより、従弟の自分に転がり込んできたリシュメネイ家の相続。本来ならばあり得ないことだった。

 今更、あの二人が生きていると言われては困る以上の出来事だった。

 ラバードは短簡を手に取る。縄をほどいて木に刻まれた文字を読んでいく。

 そこには一族の者しか知りえない事柄が書き連ねてあった。

 信じたくないが間違いなく本物だった。

 相続権についても記載されている……。

 眩暈がしてきそうだった。

 そこにはラバードとは別の人物にリシュメネイ家を相続させると記されてあった。

 怒りと動揺が噴き出す。

 今更こんなものを見せられたところで譲る気持ちなどあるはずがない。

 無効だ。

 しかし、重要なのはイエルリング王子と潜在的に争っているガイアケロン王子が、このことを知ってしまったということだった。


「これは脅しですかな」

「どういう意味ですか……?」

「封蝋がされていないので中は誰でも読める状態です。当然、王子は内容を知っているのでしょう」

「いいえ。それは私信です。無断で中を見たりはしません。それにこの事はこれっきり忘れます」

「……上手い言い方をなさる。貴族は言葉を額面通りに受け取ったりはせぬものです。そうでなくては生き残ることができませんので」


 アベルは沈黙した。

 どうやら何か勝手に疑っているらしい。

 こうなってしまえば説得不可能に思える。むしろ、言えば言うほど、さらに疑念を募らせる。

 最果ての島で出会ったリアンとクアンはあれほど親切だったというのに、親族らしきこの男の陰険さはどうしたことだろう……。


「さて、僕らの仕事は終わりました。便りは届けましたので、これにて失礼します」

「王子に伝えおかれてくだされ。しばらく考えさせてほしいと。イエルリング王子の一派から離脱するのは簡単なことではありません。抜ければ報復されます」

「誤解ですよ。言っても理解されないでしょうけれど」


 アベルは早々に席を立ち、部屋を出た。

 遠い約束を果たして、すっきりすると思ったのに全然違う結果となった。

 こんなもんさ……そう自分を納得させる。




 馬を早駆けにさせる。貴族街の景色が流れていく。

 隣を騎行するカチェも終始、無言であった。

 再びエイダリューエ家の門前まで戻るが、様子がおかしい。

 普通ではないほどの人数がいる。

 馬で前に進めなくなってしまった。

 おそらく二百人ほどはいるのだが、そのいずれもが武装している。

 磨かれた具足が陽光を受けて光っていた。

 旗が見える。


 アベルは小さく驚きの声を出してしまった。

 心臓と朝日を紋章にしたそれを見間違えるわけもない。

 ディド・ズマが率いる最強の傭兵団「心臓と栄光」の禍々しい戦旗だった。

 ハルバードを手にする男たちは、いずれもふてぶてしい容貌をした屈強の戦士。

 戦場の血生臭い風が吹いてくるような集団だった。

 アベルは馬をカチェに預けて、徒歩で進む。


「アベル!」

「カチェ様はそこにいるんだ。何かあったら壁を乗り越えて人に知らせてください」


 傭兵どもが穿つような視線を向けてくるが、臆さずに歩んだ。

 しばらく進むと行く手を四、五人の男たちに塞がれる。


「おい、お前。待て! 何の用だ」

「貴方たちこそ、どうしたんだ。ここは天下の往来。貴族街の通り道だぞ。しかも、エイダリューエ家の門前を騒がせるとは何ごとですか」

「……」


 アベルと剣呑な目つきの男たちは睨み合いの態勢になってしまった。

 アベルは固唾を飲み込む。緊張で喉がひりついた。もしかしたら、昨夜の襲撃にガイアケロン王子や自分が関わっていると露見してしまったのだろうか。

 だが、尾行者がいないことは何度も確認した。その点には自信がある。

 しかし、そうでなければ完全武装の戦士たちがこうして押し寄せる理由が分からない。

 もし本当にズマが襲撃者の正体を知ったとしたなら、逸早く王子たちに知らせなくてはならない。

 とにかく敵の目的をはっきりさせなくては……。


 アベルに注目が集まって来る。大勢の男たちが冷えた表情で探ってきた。

 こうしていても仕方ないのでアベルが門に近づこうとすると、やはり男たちが邪魔をしてくる。


「通せよ」

「お前はどこの者だ? 俺たちを誰だと思っている……。心臓と栄光の親衛部隊だぞ。ほら、何とか言えよ」


 下卑た男たちが、にやにやと笑っている。蠅でも見るような嘲りの視線。

 その名を口にすれば相手が怯むと確信して疑わないそれであった。

 だが、アベルは顔色一つ変えなかった。

 昨夜、この傲慢な荒くれたちの仲間を百人は下らない数で殺した。

 いまだ体の中に興奮と熱狂が渦を巻いている。


 動じないアベルに苛つきを押さえられなかった男が、胸倉を掴もうと前進してくる。

 掴んだ後は、利き手で殴るつもり。

 アベルは腰を据えて伸ばされた腕を逆に掴み取ると、捻り上げた。

 つかさず上半身を押しながら足払い。相手は仰向けに引っ繰り返る。

 倒れた男の冑が地面にぶつかって、派手な音を立てた。


 周囲の男たちが怒鳴り声を上げる。沸点の低い連中だった。

 戦争を生業としている男たちが殺し合いを始める切っ掛けは、いつでも些細だ。

 そんなことぐらいで……という理由で死体の山が生まれる。


 アベルはこのまま()し崩しで斬り合いになるだろうかと覚悟を決めつつ周囲を見渡せば、ある視線に絡めとられた。

 目と目が合い、金縛りのように体が強張る。

 我が目を疑う。

 勘違いであって欲しかったが……。

 剣聖ヒエラルク・ヘイカトンがそこにいた。

 イズファヤート王の直属にして、天才的な剣の使い手。

 だが、どうしてヒエラルクがズマの傭兵団に交じっているのだろうか。

 危険信号。

 頭の中で鳴り響いた。


 ――あいつは本当にやばい。一対一でも勝てる気がしない。

   だが、どうしてヒエラルクがここにいる?!

   もしかして戦闘になるのを見越してズマが連れてきた……。

  

 アベルの首筋に冷や汗が流れる。

 誰が相手でも、そう容易く負けるつもりはなかったがヒエラルクは想定外すぎる。

 奴の冴え冴えとした剣術はこの目で見てきた。特に機を察する能力に関しては剣聖と謳われるだけのものが確かにあった。


 アベルに気が付いたヒエラルクが、悠然と笑いながら歩み寄ってきた。

 その物腰には僅かの油断もない。

 挙動に無駄がなく、動作の「起こり」が捕え難いよう摺り足を怠らない。絶え間ない鍛錬で体に染みついた仕草だった。

 アベルは肩に重たい石でも乗っている気分に陥る。

 剣界に入った途端、斬り込んで来る様が見えるようだった。

 それは予測不能な斬撃だ。

 対抗するには……居合い抜きしかない。

 不自然にならないよう、無骨の柄に手をかける。だが、手は少し震えていた。

 王道国へ侵入した時から……、いや、ガイアケロンの望みに加担しようと決めた時から、はっきりと感じていた死の匂い。

 それが強烈に高ぶってくる。


 ―イース……。


 思わず心の中のイースに呼びかける。

 あと一歩で剣界に入る。

 全身に冷水と熱湯を同時にかけられたような感覚が走った。


「やあ。おぬしはガイアケロン王子の側仕えだったな。名は……アベルであろう」


 ヒエラルクの口元に、意外な笑み。

 濃褐色の瞳孔、奥底に殺し合いを楽しむ倒錯的な精神が垣間見える。

 引き締まった顔には逞しさ以上に、我の強さが滲んでいた。

 油断するなとアベルは自分に言い聞かせる。全身が硬直しそうになった。


「ふむ。おぬし、どうした。傭兵を転ばして……遊んでおるのか?」

「……何が起きているのか、図りかねています。ヒエラルク様」

「ちと面倒なことになっておってな。これ、傭兵ども。そこな青年はガイアケロン王子の配下だ。粗相いたせば私が諫めるぞ」


 ヒエラルクは鷹揚に笑っていたが、額には不気味な青筋が立っている。諫める、というのは殺すのと同義だった。

 穏やかに見えて、穏やかなまま人を斬殺するであろう。

 アベルの勘では、ヒエラルクという男は剣士として、ある一線を超越している。

 イース、ライカナ、ヨルグ、クンケル、ガイアケロンなど達人を間近で感じてきたからこそ間違いないと確信があった。


「そうだ! アベルよ。すまぬが館に滞在しているガイアケロン王子とハーディア王女に伝えてくれぬか」

「何を、ですか」

「エイダリューエ家の門番が融通を利かせなくてな。中に入れてくれぬのだ」

「失礼ながら無理のない対応かと。敷地の中は城も同然。七百年の名家の守りは安くありません」

「分からん理屈ではない。だが、この私はイズファヤート大王様の直属にして軍目付であるぞ。なにも狼藉をしにまいったのではないのだから、挨拶ぐらいはさせよと頼んでおる」


 アベルは抜け目なく観察する。

 騙し討ちの可能性。

 呼び出しておいて、襲う。

 構造の分からない邸内に入り込むより、よほど容易く戦闘を行える。

 そうした恐れが無いわけではなかった。

 やはり昨夜、ズマの手下を襲ったのがバレてしまったのか……。


「実は言うとな、ズマ殿の強い願いでもあるのだ」

「えっ」

「ほら。後ろに御座(おわ)すのが……かの頭領。戦場という戦場に勇名轟くディド・ズマ殿だ」


 アベルは息を、ゆっくり吐く。

 振り返るのに勇気が必要だった。ほんの少し体を動かすだけなのに。

 心臓が暴れていた。

 息を整えながら、そっと振り返る。

 すぐそこに、黄金仕立ての鎧を身に着けた男がいる。冑はしていない。


 酷い男だとは知っていた。

 醜い男だとは聞いていた。

 恐ろしい男だと噂されていた。


 実物を目の前にして、こいつは本当に人間なのかとアベルは疑う。

 汚穢という汚穢を搔き集めた不潔な洞穴に百年住み着いた怪物。奇形の蛙。

 これはあのハーディア王女が苦悩するわけだと、アベルは意識の中でやけに納得する。


 分厚い唇、醜怪な顔の造作、底なし沼のような瞳。剥き出しの欲望。

 果てしなく貪欲で、際限なく奪っても満足しない精神。

 どれほど卑しい人生を歩んできたのなら、ここまで悪相を蓄えることができるのだろうか。


 単に生まれながら容貌が醜いだけで、ここまで人間離れになるとは到底思えない。

 休むことなく他者を蔑み続け、妬み、いたぶり、残虐の果てに殺すことを繰り返した者。

 最も低劣で汚らわしいケダモノの生き方をしてきた男……。


 ディド・ズマがそこにいた。






ついに宿敵ディド・ズマとの出会い。


次回未定です。

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