予感
ガイアケロンとハーディアは颯爽と馬を操る。
二人の乗る馬は一級の名馬で、優美かつ強靭な馬体を飛ぶように躍動させた。
あっという間に小高い丘を登っていく。
背後からは軍目付けヒエラルク・ヘイカトンやサレム・モーガン、シラーズ王子、リキメル王子なども付いてくる。
一同は平原を見渡し、皇帝国の軍勢が一目散に逃げていく様子を眺めた。
落ち着いた声でガイアケロンはヒエラルクに説明する。
「コンラート皇子、いつもながら撤退が速い。それに遅滞作戦が巧妙だった。惜しくはあるが、これより先へ攻撃を仕掛けるのは勇み足というもの。ヒエラルク殿でしたらご理解いただけようが」
「真に残念至極にて。どれほどの勇壮な戦いになるかと期待しておったというのに……。この私も千人将の首ぐらいは狙ってござったが、相手が居なければ始まらないというもの」
ヒエラルクは心底不満そうに首を振る。
そんな態度を見せるものの彼は軍目付けという立場を利用して、たびたび前線に出張っては皇帝国の偵察隊を単独で襲い、そして血祭りを楽しんだものだった。
ガイアケロンはヒエラルクの実力を調べる意味で必ず戦果を見分させたが、凄まじいとしか言いようのない戦闘技術だという。
あまりに速く、また機を見るのに天才的で、魔法も弓矢も全て回避できる。
そうして剣界に相手を収めるや、神速の斬撃で敵を圧倒した。
後に残るのは屍のみであったという。
「こんな時、我にもっと戦力があればと……そう悔やまれるのだ」
珍しくも憂いた表情でガイアケロンがヒエラルクに伝えると、彼は自分のことのように頷くのだった。
これはガイアケロンにしてみれば本心とは言えない、ただの誘い水の台詞だった。
しかし、ヒエラルクの薄ら寒くなるような残忍さが滲み出た顔に、同情らしき色がある。
飢えたように戦闘を欲する男だけあって十全に戦えない悔しさというものへ強い共感があるらしい。
「このヒエラルク、畏れながら戦士としてガイアケロン王子と同じ気持ちでございますぞ。戦いたくてもよい相手がいない。もどかしいものです」
「そこでだ、かねてより考えていたのだが、我とハーディアは急ぎ本国へ帰還しようと思う。父王様に戦果の報告と献上品をお渡ししたい。それに移送したジブナル・オードラン公爵弟の身柄も気になる。さらなる戦力増強のため、貴族たちと相談もしたいのだ」
「……実に道理のある話ですなぁ」
「幸い我には信頼のおける将がいる。ドミティウスとナルバヤルに頼めば不在にも大事ないはずだ……。ヒエラルク殿も父王イズファヤート様に軍目付けとして言上するべきことがあるのではないか」
「いかにも、さようかと」
「勝利して帰るのだ。我やハーディア以上にヒエラルク殿こそ最大の称賛があろう。まさに王道国最強の剣士であると。我はもともと将としてではなく個人戦士として讃えられたい望みがあるから、本当は軍目付け殿が羨ましいのだ」
ヒエラルクは謙遜してみせたが、ガイアケロンから持ち上げられて嬉しくないはずが無かった。隠しようもなく驕慢に満ちた心根が表情に垣間見える。
それを取り繕いながらも彼は帰国に同意する。
これですっかり下準備は整った。
ガイアケロンはオーツェルら幕僚と話し合い、さっそく長い移動に備えることにした。
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ノルト・ミュラーが全身、泥だらけになって公爵勢に追いついたのはエメドレ伯爵領を移動すること五日目のことだった。
様々な疑念が渦巻く。
もしかして王子は皇帝親衛軍の残余を囮にして、時間を稼ぎたかっただけなのだろうか。
忠誠を誓った将兵に対して、どうしてそんな騙すようなことをするのか。
ガイアケロンを押し留める部隊が必要なら必要と素直に命じればいいものを。
軍服に汚れていない箇所などないような惨めな姿だったが、ミュラーはコンラート皇子に面会を求める。
しかし、侍従から冷たい返事が伝えられただけだった。
仔細の指示などない、という……。
いまや小勢の親衛軍は適当な地点でエメドレ伯爵領の防衛をするなり敵に反撃するなり好きにしろ。
そんな返答だった。
ミュラーは何やら楽しげな楽曲が聞こえる部屋の前で佇んだ。
中には皇子いるらしい。
一連の戦いで、何人かの良く知った百人隊長が行方不明になっている。
もう彼らとは二度と会うことが無いだろう。
弔いの言葉ぐらい貰いたかったが、それすら叶わないと知りミュラーは踵を返した。
コンラート皇子はエメドレ伯爵に提供させた館の一室に引き籠っていた。
帝都から引き連れてきた音楽師にお気に入りの曲を演奏させているが、ほとんど耳には入ってこない。
心は戦場の喧噪のように荒れ狂う。
テオとノアルトの顔が消えることは無い。
以前から抱いていた憎しみはますます深くなる。
あいつら、やはり殺さねば。
なんとしてでも息の根を止めてやる。
奴らに与しているハイワンドやリモン、ブロンデル、バルボア……。
全員、切り刻んで豚のように吊し上げてやろう。
今日、これほど苦しい思いをしているのは全部奴らの陰謀が原因なのだ。
あの許せない弟どもこそ、この私を殺そうとしている。
何ということなのだ。
許されるようなことではない。
神に皇帝となるよう運命づけられたこの私を、ここまで脅かすとは……。
部屋のなかにはエンリケウ・ドラージュ公爵と公爵継嗣のエリアスの他に貴族はいなかった。
音楽師たちは自らが演奏する楽器に集中していて、よほどの大声でなければ会話を聞き取ることは出来ない。
盗み聞きをされないための工夫でもあった。
「ドラージュ公爵。私は勝利できない真の原因を悟った。それはテオとノアルトじゃ。業腹な奴らが私に逆らうから兵力が整わぬ……。それ以外に理由などあるはずない!」
「お労しいや。コンラート様」
「以前、奴らが暗殺者に狙われたというな。誰の手筈か知らぬが……今となっては先見の妙があったとむしろ感心する。やはり奴らは殺さなくてはならない」
「……」
エンリケウ・ドラージュは主である皇子に真実を明かしたりなどしない。
本当のところ、たびたびゲラン公爵へ暗殺を唆せたのは自分であった。
暗殺が上手く行けばゲラン公爵はのちのち絶大な利権を手にするであろうと示唆していた。
やるのならもっと上手にやれば良いものを。
ゲラン公爵が暗殺を試みたという証拠など見つかっていないから追及できないが、下手を打ったものだと内心呆れていた。
エンリケウ・ドラージュは計算する。
王道国との戦争を盛り返すには、確かにコンラート皇子の言うように国内を一本化したほうがいい。
だが、先代ウェルス皇帝が死んでしまった今となって、並大抵のことではテオ派閥と和解などできはしない。
それこそコンラートが死にでもしなければ……。
自分の娘アデライドはコンラートとの間にトルマルクという名の息子を生んだ。
みずからの孫トルマルクは将来、皇帝国を統べる可能性が最も高い。
あらゆる策謀を駆使してそう仕向けた。野望の達成まであともう一歩だった。
コンラートにはまた占い師でも送り込んで、さらに、いくらでも操ってやればいい。
以前、利用していた女占い師はだんだん自分のやっていることが恐ろしくなったのか逃げる素振りを見せたので殺してしまった。
次の占い師はもっと慎重に選ばなくてはならない。
エンリケウ・ドラージュ公爵は息子エリアスを連れて部屋を出る。人気の無い所で相談というより命令をした。
「エリアス。コンラート様の意を汲もうではないか」
「親父殿。そう仰いますと?」
「どこかで……テオとノアルトを弑するほかあるまい」
「……皇族を殺害するのですか」
「前例のないことではない。目障りにならぬよう飾ってあっても皇帝国の歴史には血が流れておるぞ。貴い皇族の血もだ」
エリアスは途惑っているようであった。
実行するのは騎士団長である自分になるからだった。
「もしテオが皇帝になれば、我らは逆臣として処刑されるだろう。お前もアデライドも、儂の孫たちも……一族郎党すべてな」
「親父殿。方法が思いつきませぬ。私は毒殺になど詳しくありません」
「そうしたことに詳しい者はいる。金次第で何でもする輩もな。方法は何でも良いのだ」
「では……」
「機会を待てばいい。必ず時機がある。どれほどの善行だろうと悪事だろうと、正しい時機に行うのが政治というものだ」
エンリケウ・ドラージュは脂ぎった禿頭を撫でた。
この政争に必ず勝ってみせると思いを巡らす。
王道国の軍勢にも必ず勝てるはずだ。
いかな悪鬼ガイと言えども、長距離を遠征している内に必ず弱点を見せるだろう。
そこを狙って最後に止めを刺すのはドラージュ公爵家だ。
おのれこそが皇帝国の隅々まで自由に采配する。
今ですら半分は手にしていた。
だが欲しいのは、あらゆる権力の頂点である。
勝ち残ったドラージュ家は今後、数百年に渡って繁栄を築くだろう。
エンリケウ・ドラージュの名は皇帝にも劣らぬ不滅の名として歴史に残るのだ。
~~~~~~
アベルはガイアケロンらと共に、ポルトへ帰還した。
ようやく長引いた冬が弱まり、僅かに春の匂いがしてくる。
枯れた木々に新芽が芽吹き、農夫が畑に鍬を入れはじめていた。
ガイアケロンは軍団の大部分をリキメル王子が統治を任された地域に留め置いた。
ハイワンド領と接しているリモン公爵から本格的な反撃はないはずだった。
秘密同盟をテオ皇子と結んだ際、偽装の為の小競り合いは計画的に起こしても、大規模な攻撃はリモン領から決して行わない約束をした。
だから当面はコンラート軍団にだけ注意を払えばいい。
もっとも、それと悟られてはならないので、あらゆる偽の移動や攪乱行動を取り続けている。
例えば明日にでもガイアケロン軍団はテオ皇子を襲うという偽情報を流させもした。
皇帝国と王道国のぶつかりあう不安定な地域には、そういう噂が飛び交っていた。
情勢は誰の目から見ても全く、混沌としている。
ハーディアは少女の頃から、ある予感を持っていた。
それは眠りの最中、夢という形で現れた。
あるいは、ふとした瞬間に印象として脳裏に浮かんだこともある。
自分は父イズファヤートの前で、血に塗れて死ぬ。
数千の剣が自分を狙い、最後は肉体という肉体を切り刻まれ、血の海に沈むだろう。
予感といっても、必ず現実になると信じつつある。
それほど生々しい感覚であった。
ガイアケロンとハーディアの胸の底。
抑えつけられた殺意。
隠された憎悪。
父親を殺す。
今度の帰国で、決定的な機会があれば……ついに父王イズファヤートを殺してしまわないとならない。
あのバケモノを殺せるような瞬間に恵まれるかは分からない。
だが、いつ、その時が来ても迷わないように覚悟を決めておく。
ただ、もし殺害がなったとして……その後はどうなるだろうか。
反逆者として徹底的に攻撃され、そして、殺される。
そう思うべきだった。
ハーディアは兄ガイアケロンの優しげな瞳を見つめる。
兄から温かい親愛の心が伝わってきた。
父親に会うということ自体が、命懸けであった。
もしかしたら、思いもよらぬことで些細な疑念を父に抱かせ、そのまま想像できないほど、酷いことになるのではないか。
そんな疑念はどれほど拭っても湧き出てくる。
それだけのものを見てきた。
怖気の抑えられない残虐な方法で処刑された死体の数々。
捕えた魔獣に生餌として与えられた人たち。
あるいは娯楽として魔獣と戦わされ、死ぬまで抵抗した末に斃れた者ら。
地獄の底のような牢獄が王城の地下にはあって、そこへ閉じ込められた者の怨嗟の声。
彼らは罪人と呼ばれてはいたが、それは全て王から見ての罪である。
はたして、本当にそれほどの苦しみを味わなければならない者たちであったか……。
脅威は父王イズファヤートだけではない。
陰謀によって何度も暗殺されそうになった。
王道国はある意味、戦場以上に危険なのである。
ハーディアは祈るように手を組んだ。
どうか兄を守ってくれと。
ハーディアの琥珀色をした瞳に光が宿っていた。
王道国に旅立つ前に、様々な仕事を終えておかなくてはならなかった。
アベルとカチェは多岐の相談をするため、王族兄妹の執務室にほとんど一日中、居なければならない。
秘密の通路から出入りしているので、そのことを知っているのはごく一部の者だけだったが。
アベルはハーディアからハイワンド領について質問されたりもする。
いかに良い統治をするか……王女に余念ないのが窺い知れた。
春めいた日差しのなか、隣の部屋からオーツェルが歩いてくる。
もともと陽気な男ではないが、痩せぎすの彼はいつにも増して固い表情をしていた。
ハーディアに向かって、あえてそうするのか事務的に報告をはじめた。
「ハーディア様に悪い報せがございます。お気を確かに聞いてください。ディド・ズマの動向が掴めました。どうやら奴はイズファヤート王に結納金の前渡しをするそうです。王政金貨二十五万枚相当の財貨だとか。いよいよハーディア様との婚儀、推し進める政治工作を活発にしてきました。またイエルリング様の後押しも強いようです」
「……」
ハーディアの心臓が不快に鼓動を速めた。
万の敵を前にしても震えない心が軋みを上げる。
ディド・ズマの滑りを帯びた視線が、距離を無視して我が身に注がれているのを感じる。
醜怪なイボ蛙のごとき男。
その精神は汚れきっている。
側溝に溜まる汚泥以下の腐臭を放つ残忍非道は数え上げればきりがない。
なぜか、あの男の長大な舌が自分の体を這いずりまわる想像が湧き上がってきた。
その舌は酷く不潔で、それでいて体の隅々まで、太腿といい乳房といい、あらゆる箇所を舐め続ける。
冷汗が流れ、背筋に氷を当てられたような悪寒があった。
ハーディアは眩暈がしてきた。
何かに掴まって、支えが欲しいと思ったところ、アベルの体がすぐ傍にあった。
均整の取れた青年のしなやかな腕に、手を伸ばし捉まる。
頭をアベルの肩に押し付けた。
「大丈夫か、ハーディア」
兄の声がする。やけに遠くから響くようだった。
平衡感覚が狂ってしまったのだろうか、体が回転していると感じる。
しばらくアベルに身を預けていると次第に復調してきた。
俯いた顔を上げると、簡単に口付けできてしまうほど至近距離にアベルの顔があった。
心配そうにしている。
初めて会ったとき、少年従者だったアベルは抜身の刃のようであった。
あらゆる敵を殺してきた己をして空恐ろしくなるほどの視線。
なんと昏い魂の持ち主なのかと驚いたものだったが、真実は単純で自分と兄に似た者だったのだ。
ハーディアは今また深くアベルを理解した。
何か途方もない情念を燃やさずにはいられない同種の魂を持っている仲間なのだと。
アベルはディド・ズマを想像する。
会ったことは無いが奴隷市場での惨状、魔獣界や北方草原まで侵略する強欲さ。
ディド・ズマも、やはり殺して、二度と何もできなくさせてやる。
いつも完璧に王族の気品と美しさを保っているハーディアは、薔薇色をしているはずの頬を蒼ざめさせていた。
ガイアケロンが近づき、小声で口にした。
「ズマはそろそろ限度を超えて来たな」
「ガイアケロン様。あいつは惨たらしい死に様がお似合いの外道だ。僕が、始末しましょう」
ガイアケロンは思わず微笑する。アベルが口にすると絵空事とも感じないのだった。
ハーディアが感覚を取り戻し、アベルにしな垂れかかるのを止めて離れる。
それから感慨深げに言った。
「アベル。貴方の行儀のいいところも素敵ですけれど、悪いことを考えている時はもっと魅力的ですよ」
カチェは息を飲み、身を固くして二人を見ていることしかできない。
裏読みしなければ、単に気分の悪くなったハーディアをアベルが支えただけだった。
しかし、いま瞳と瞳を合わせている両者のなんと親密なことか。
女の勘で分かる。尋常ではない。
いつもならアベルを嗜めてそれで済むのだが、そんな冗談じみた、友情と愛情の間を揺らいでいる関係を壊さない程度のじゃれ合いで割って入れる代物ではなかった。
いったい何時の間にあれほど二人は仲を深めたのか。
自分の知らないところで何かがあったのではないかと、不安とも嫉妬とも区別のつかない気持ちがカチェのなかに噴き出してくる。
相手がハーディアほどの美しく尊貴な女性なら、自分は諦めるしかないのか……。
そんなはずはないと自分を叱咤したところで、どうすればいいのか分からなかった。
アベルは旅装を整え、鞍に荷物を括り付ける。
ガイアケロンらに付き従い、いよいよ王道国へと旅立つ。
未知の世界。
何か起こるか予測できなかった。
しかし、どこに行こうとも結局は自分自身と対峙しなければならない気がした。
手には刀、体には魔力が唸りを上げている。
今は身を焼くような欲望に任せて加速するだけだった。




