前哨戦
ガイアケロンとハーディアの前に、帰還したアベルとカチェが片膝を付いている。
アベルは強い執念を感じさせる眼差しを向け、成り行きの詳細な報告をしてきた。
リモン公爵を説得して、コンラート皇子の本陣に赴いたこと。
アベルの意図の通り、リモン公爵は挑発的な物言いをしてコンラート皇子を憤激させたこと。
これにより、コンラート軍団は攻撃目標をリキメル王子からガイアケロン、ハーディアへと変えたはずだと……。
アベルの口調は抑揚されたものだったが、間違いなく命懸けの働きだった。
政敵の本陣に乗り込むなど、捨て身である。
ハーディアは内心を隠して二人に語りかける。
もう戻ってこないのではないかとも考えていたからだ。
現に帰還したアベルとカチェを目にすると、思ってもみなかったほどの喜びが湧き上がる。
特に女の身でありながら強くあらねばならないカチェには友情めいた感情を持っていた。
「アベル。カチェ。二人ともよく難しい交渉を成功させました」
「まだ安心には程遠いです。コンラート軍団が本当にここへ来るまで、誘導が成功したのか分かりません」
「すぐにはっきりすることです。明日か、明後日にも判明することでしょう」
「まだまだ懸念があります。相手は六万もの軍勢だと自称しております。お二方の兵力を上回ったものではありませんか? 本当に誘導など仕掛けて良かったのでしょうか」
ガイアケロンは大らかに笑ってみせた。
緊張している様子はどこにもない。
「いずれは戦わなければならない相手だった。膨れ上がる前に叩ける絶好の機会だ。アベルの報告では、奴ら元々はリキメル王子を襲うつもりだったのだろう。それで、さらに準備を仕上げてから来年の春に我へ挑む狙いを持っていたと」
「はい。おそらく執軍官ノルト・ミューラーの考えではそうだったはずです」
「立派な戦略だ。それをやられるよりは、ここで戦った方がよい」
「リモン騎士団は参戦しないはずなので勘定には入れていませんが……しかし、それでも倍以上の兵力差になってしまうのでは?」
「まぁ、見ていることだ。ここからは我とハーディアの仕事だ。アベルの部隊は右翼後方に配置する。隣はスターシャの遊撃隊。自由に動いて構わないが、状況をよく読んでくれ。命令があれば伝令を送る」
多忙を極める二人に人払いをした上で面会できる時間は限られる。
あまり長々とした相談を繰り返すと誰かに不審に思われかねない。
アベルとカチェは短い報告を終えて、足早に本陣を後にした
時間は既に夜なので、魔光を出して部隊の場所まで戻ると晩飯の準備をしていた。
食料は携帯している分だけでは全く足りないので、基本的には毎日、一日分の食料が支給される。
それを部隊の者が適当に調理する仕組みだった。
かなり冷え込むこの時期、温かい物を食べると体力の温存に繋がるが、逆に冷たい粗食などを繰り返すと体調不良の原因となる。
そうした衣食住は軍隊の成立に欠かせない要素で、その部分をいかに手厚くするのかも強い軍団の成立には必須だった。
羊肉と野菜を煮たものにパンと葡萄酒が配られた。
まだ湯気を立てる肉を頬張り、固いパンを汁につけて食べる。
内臓も一緒に煮込まれていて、体が熱くなってくる料理だった。
味わいは北方草原でウルラウたちと生活したころに食べていたものとほとんど同じで、アベルは懐かしく思い出す。
狼のように野性的でありながら美しくもあった草原の少女ウルラウは忘れ難い人物だ。
黎明のような玻璃色の瞳に、聡明な人格の持ち主だった。
今頃、どうしているだろうか。
きっと弟のルゴジンと共に氏族を支えていることだろう……。
アベルたちはシュアットら強襲偵察隊の仲間たちと焚火に当たりながら食事を済ませる。
部隊には割り当てられた夜警の範囲があるので、人員を交代で送り込む。
夜間の見張り任務は厳格で、怠慢で寝ていたところなどを発見した場合は、激しい制裁を加える規則になっている。
同じ百人隊の全員から棒打ちされる罰で、場合によっては死んでしまうほどの厳しいものだ。
体へ風が直接当たらないように幕を張って、焚火に当たっていても、やはり夜は寒い。
もはや冬である。
アベルは隣に座るカチェの表情をそっと見てみた。
落ち着いていた。
どうも実感は薄いが、数万人の人間が死にもの狂いで戦う大合戦が始まろうとしているのだ。
「明日は戦闘になるかも」
「そうね」
「相手は皇帝国といっても政敵コンラートの軍団です。僕は手加減しないで、最前線で戦います」
「私もコンラート皇子は好きになれない。お爺様の支持するテオ様が皇帝陛下に相応しい」
「……」
「アベルは正しいことをしている。自信を持っていいわよ」
本当に正しいことをしているのか、アベルは自問してみる。
肉親殺しへの深い共感、個人的な欲望の成就。
暗い心の炎が己を突き動かしている。
正義など無くて構わない。
アベルは薪を焚火に放り込む。
寒風に逆らって火勢が増した。
翌朝。アベルとカチェは大規模な合戦を前に、全体を俯瞰して眺めるために急な斜面を登った。
ポロフ原野などと言っても、もとは名などあって無いような荒れ地である。
リモン領の東部にあって、北部山脈の嶽麓が間近まで迫っているため周辺の起伏が激しい。
ハイワンド領へ進むための道が原野の中央に一筋あるだけで、森林ぐらいしか利用価値はなかった。
ただし、今や軍事的な価値は計り知れない。
ガイアケロン軍団がこの狭隘地を突破するとリモン領の中心部まで、これといった要害がない。
よって皇帝国、王道国にとって重要な地域だった。
その原野へ皇子コンラートの軍勢が押し寄せていた。
正確な数は掴めない。
既に二万人を超えているのは間違いなさそうだった。
アベルは岩場に登りきったので、全体を見渡す。
手前にガイアケロン軍団が布陣していて、河の対岸に無数の人だかりがあった。
リモン騎士団の軍勢ではない。
旗の色は青。皇帝親衛軍のものだった。
その他にもドラージュ公爵家やベルレアリ公爵家、様々な皇帝国伯爵家の旗なども靡いていた。
アベルは誘導が本当に成功したのを確認する。
次にアベルはガイアケロンの軍団を見渡した。
すでに軍列を形成しているので、数が分かる。
大軍の数と内訳を正確に「物見」するというのは、実は簡単なことではない。
高いところから俯瞰できればいいのだが、まずそれができるとは限らない。
仮に出来たとしても時として数万人の人間を誤差少なく計るのは、熟練していないと無理だ。
だから偵察員は日ごろから味方の軍勢を離れた所から観察して、およそどれぐらいの兵力か見当をつける訓練を繰り返し行っている。
アベルはガイアケロン軍団の人数が意外と少ないのではないかと感じ、何度も数え直したが結果は同じだった。
重装歩兵が約二万人。軽装歩兵が約七千人。騎兵が三千。
それぐらいの人数しかいない。
しかも、よく見れば軍勢の中にはシラーズ王子の部隊も混ざっている。
はっきりとは分からないがシラーズ王子の配下は八千人ほどにもなりそうだった。
ということはガイアケロン軍団の実質的な人数は三万人を下回ってしまう。
コンラート軍団の半分以下という兵力だ。
重要な戦いなのだから、ガイアケロンは出し惜しみのない総力戦で臨むとアベルは考えていただけに、この状況は理解できない。
ガイアケロンは父王から冷遇され、生まれも遅かったために有力な支援者は少なく、他の兄たちに比べると小兵力しか有していないというのは長らく皇帝国でも把握していた事実である。
しかし、近年は支配領地も増え、名声が高まるたびに賛同者が増えた結果、四万を超える軍団を擁していると言われている。
それは巷で噂されて、当の兵士たちも否定しないのでそうだろうと言われているだけで、正確な兵力や構成は指揮官の中でも将軍などしか把握していない。
だからアベルも軍団の全容について事細かに知っているというわけではなかった。
重要な戦いなのに兵力が少ないのには何か深い理由があるのかもしれないとアベルは考えてみるが……答えは出なかった。
アベルは兵士たちの装備もよく調べてみようと思いつき、斜面を下りて馬で軍団に接近する。
まず、一般兵士と上流貴族とでは武器防具に差がある。それは皇帝国でも王道国でも事情は同じだった。
貴族が装着しているような全身を完全に覆う鎧は全て特注品でなければならない。
全身鎧は体と鎧の大きさが一致していないと、使い物にならないといってよい。
無理をして装着したところで、体を動かしている内に関節や踝を痛めることになる。
よって注文して腕の良い職人に作らせるしかないのだが、何回も体との具合を修正したうえで完成となるので数か月、時には年単位の時間がかかるうえ、必然的にとてつもなく高価だった。
だから、そうした一流の鎧は一部の上流貴族しか持っていない。
皇帝国の騎士でも、そうそう全身鎧など装着していなかったことをアベルは思いだす。
自身も高価であることと体の成長が原因で所持できなかった。
今日に至るまで防具は出来合い物の胸甲、籠手、脛当て、冑で押し通してきた。
ガイアケロン軍団の兵士たちは出自に拘りなく、志願者なら誰でも所属できた。
ただし、体力と精神を訓練によって鍛えられ、兵士に不向きな者は別の仕事に配属されるとアベルは聞いたことがある。
逆に皇帝親衛軍には出生による厳しい選別がある。
皇帝国に三代以上在籍した者で、かつ親族に軍役経験があり、家に財産があって不名誉除隊の際には賠償能力がある者のみが皇帝親衛軍に入隊できる。
不名誉除隊というのは逃亡や怠惰、窃盗などの素行不良があると行われる制裁処置だ。
支給した装備を持ったまま逃げるなどした場合は国家に損害が出るので、身元引受人や家族が賠償することになっている。
そういう事情があって入隊は難しいのだが、活躍して出世すれば平民でも爵位を授けられることもあり、時には皇帝とも交流できるとあって志願者は多い。
もっとも、ほとんどの者は男爵にすらなれずに除隊か戦死していくことになるが……。
アベルとカチェは馬に乗り、軍列の間を移動する。
アベルの冑には伝令騎兵の飾りが付いているので、見咎められることは無い。
河の近く、居並ぶ軍列の最前線を見た。
そこにいるのは重装歩兵だった。
軍列を作っている重装兵士は武器として長い槍を持っている。
それに加えて長方形の大きな盾を持ち、体に鎧兜を装着しているものだ。
攻撃と防御のための装備が悪いと軍団の強弱に関わる。
粗悪な槍などは盾を突いている内に刃が折れて、機能を著しく低下させることになる。
また鎧も着けていないと一撃で重傷を負ってしまうが、皮革に金属板を張ってある程度の防御でも、あれば無事に済む。
だから細かな違いはあっても、重装歩兵とは盾と鎧に冑を装備している者のことをいう。
逆にそれらが無いのは軽装歩兵と呼ばれる。
彼らは戦列を形成せずに、軽装の最大の利点である素早さを利用して、あちらこちらへと移動を続ける。
武器は多様で投槍や投石を使う場合も多い。
投石紐を使って尖らせた石を投げると、驚くほどの威力となるので決して馬鹿にできない戦力だ。
かりに傷を負わなくても、もの凄い勢いで飛来してくる石をぶつけられると心理的にはかなりの圧迫になる。
しかし、投石や矢だけで相手へ決定的な損害を与えることは、なかなか難しい。
軽装歩兵の飛び道具だけで勝利するには、やはり様々な条件が必要となる。
実際の戦場で重装歩兵の軍列が押し寄せて来た時には、軽装歩兵はひたすら逃げ散るしかない。
散兵といって、要はバラバラに行動している軽装歩兵がまともに敵軍列へ接近戦を挑めば、一方的に殺されてしまう。
この防御力の無さは軽装歩兵の弱点なのだが、重装歩兵と組み合わせることにより多様な戦術が行えるので普通はどの軍団にも編成されている。
ただし、そうした戦いは全て魔法を使わない兵士だけの場合のことで、現実には強力な火魔術など行使する魔法使いなどが兵士たちの中に混ざっている。
彼らは特に貴重な戦力なので、戦列の中で守られていることが多い。そして、ここぞというときに攻撃なり防御なりの魔法を繰り出す。
それにしても魔力というものが、なんとも厄介なものだった。
多対一では多が有利というのは、当たり前すぎるほどのことなのだが、強力な魔術や身体強化を発揮した個人が、時として数百人の人間を殺してしまう。
これは戦争という巨大事業にも激しい影響を与えていた。
均質化された兵士による軍列が、場合によっては一人の人間によって妨害され、部隊を敗走させられるに至る。
そうとなれば雑兵による多人数の部隊よりも、極めて優れた数名の戦士を何よりも尊ぶ風潮が、どこにでもあった。
神業としか思えない剣技怪力を駆使できる達人に対する人々の称賛、信頼感というものは実に巨大という状況を生み出している。
また、いたずらに兵を損なわないために両軍の強者同士が雌雄を決するという、まるで古代の風習のような決闘も、しばしば見られる。
しかし、もっと裏を勘繰れば兵の命を守るなどというのは建前に過ぎず、単に戦士願望、英雄への期待といった心理が働き、少数者による代表戦という形が発生するようにも思われた。
要は力自慢の戦士が戦いたいから戦うという、原始的な行動の現れ……。
それが証拠にアベルが歴史書を読めば、勇者による決闘で勝敗が決まった後も、結局は大軍同士の戦いに縺れ込んでしまった例は無数にあった。
ガイアケロンの軍団では五人一組が構成の最小単位だった。
これは王道国の軍制というわけではなくて、ガイアケロンとハーディアが様々に工夫した末の組織体制らしい。
五人組が二十個集まって百人となる。その百人が縦横に並び、ひとかたまりの方形を成していた。
軍列はただ一直線に人が並んでいるのではなくて、百人隊が方形をなし、盤上の駒のように整然と配置されることによって隙間のない戦列となる。
重装歩兵は左腕に盾を革帯で拘束している。
長方形をした盾は大きく、人の背丈の三分の二ほどの高さがある。
隣の者と盾を重ねることにより、まるで隙間のない壁のようになるわけだった。
攻撃は右手で持った槍で行う。
槍は三メートルほどの長さがあるので、最前列から後ろ二列ぐらいまでは人の間から槍を突き出して攻撃に加わることができる。
攻撃に参加できない後列の者は槍を垂直に掲げた姿勢をとる。
こうしておくと前列が負傷で後退したときに素早く攻撃へと転じられる他、立ち並ぶ槍の柱は飛んでくる石や矢をある程度、防御する効果がある。
対岸に来着したコンラート軍団は、まだ攻撃態勢を整えていない。
行軍は軽装の者や馬を利用した者の方が速い。
よって戦場に到達しているのは、そうした兵がほとんどだった。
重装歩兵の姿は見えない。しかし、明日にはそうした部隊も姿を現すのではないだろうか。
ガイアケロン軍団には妙な落ち着きがあるとアベルは感じた。
その理由は戦い慣れているということもあるが、なにより指揮官であるガイアケロンとハーディアへの絶大な信頼による。
相手が何であろうと戦ってやるという熱意が放射されていた。
しかし、それとはどうも様子の異なるのがシラーズ軍団だった。
隊列は乱れているうえに、いかにもやる気のなさそうな人間が数百人と座り込んでいる。
どことなく挙動のおかしな者もいて、そんな人間たちが数千人もいるのであった。
彼らは軍団の中央部にいて、勝手に逃げたりすることを防止するためなのか四周を全てガイアケロン軍団に囲まれていた。
―おいおい……。
こんな奴ら使い物になるのか?
アベルは懸念するが、どうすることもできない事態だった。
昼ごろ、敵に動きがある。
数千人の兵士が整列して、前進の準備をしていた。
ガイアケロン軍団が全員、臨戦態勢に着く。
号令が発せられ、河から五十メートルほど手前まで前進して、そこで一端、ガイアケロンの軍勢は停止した。
強襲偵察隊は右翼後方で状況を見守るが、アベルとカチェ、ワルトはさらに最前線へと近づいた。
喧噪がコンラート軍団から聞こえて来る。
弓や槍の音。鎧の立てるザワザワという波にも似た響き。
アベルの心臓が高鳴ってくる。
-いよいよ始まるな。
鬨の声。
原野が揺れる。
コンラート軍団から数千人の歩兵たちが接近してきた。
大型の盾を頭上に掲げて河の中に入って行く。
そして、盾に守られた別の兵士が水面下に設置されている杭や縄を破壊しはじめた。
それは元来、リモン騎士団が防御帯として設置したものなのだが、コンラート軍団にしてみれば渡河の障害でしかないため取り除くことにしたらしい。
当然、ガイアケロン軍団から弓矢よる攻撃が始まる。
相手も対岸に三千人規模の弓兵と大盾だけを持った盾兵の集団を進ませた。
空が黒くなるほどの弓矢の応酬がある。
アベルの近くにも流れ矢が飛んでくる。
鋭い音を立てて頭上を過ぎ去った。
河中で作業をしている兵士へ弓矢や火魔法が容赦なく襲い掛かる。
矢ぐらいならば何とか防いでいた盾も、さすがに爆発を伴う魔法は防ぎきれずに粉々に吹き飛ぶ。
使われている火魔法は「炎弾」とは違う。
威力は似たようなものだが、やや射程が長く、炎弾の亜種のような火魔法だ。
いずれにせよ飛翔速度は遅いので、普通なら見切って回避できてしまうような魔法だった。
ところが、流水に太腿まで浸かっているような状況では素早く動くことなどできはしない。
ましてや障害物を取り除く作業をしているから盾だけで防ぎきることも出来ず人体に命中することもしばしばだった。
小規模な爆発だが、手足に当たれば千切れるほどの威力。
河が流血で濁り、死体が下流に流れていく。
早くも血腥い争いになっていく。
コンラート軍団の魔法兵から反撃が始まった。
魔力の発生源を察知して、氷槍を放ってきた。
魔法は魔法で威力があるだが、弩や強弓の矢は数もあってより危険だった。
鏃が錐のように細く尖ったものは貫通力が高く、角度が悪いと冑すら貫く。
アベルは気象魔法「極暴風」で援護しようと考えたが、止めた。
大量の矢が行き交っているので、味方の矢の軌道を狂わせる恐れがあった。
それに現に、そうした突風を起こして防御する者がいない。
やはり集団戦には相応の魔法の使い方があるようだ……。
コンラート軍団は盾兵と作業兵を、絶え間なく送り込んできた。
やがてガイアケロン軍団の魔法兵は疲労のためか、それとも戦力温存のためか攻撃魔法の行使が減ってしまう。
アベルは爆閃飛で攻撃しようか考えたが、ワンパターンの攻撃はすぐに読まれて無効化されてしまう。
まだ手の内を晒したくない。
結局、見物に終始してしまった。
その日は、日没近くまでそんな戦いが続いた。
損害は圧倒的にコンラート軍団の方が大きい。
貴重な魔法兵を河の中にまで進ませて積極的に防御魔法を使わせるということをしなかった結果、作業をしている者たちは盾ぐらいでしか身を守れずに被害が拡大していった。
アベルの見たところ千人以上は重傷を負ったことだろう。
実際のところ何百人が死んだのか分からないような前哨戦だった。
しかし、犠牲を払っただけあって河の中に設置されていた杭だとか縄などは粗方、取り払われたようだった。
夕暮れのなか、両軍が後退していく。
小部隊による夜襲はお互いが警戒しているため、軍団の外縁部には松明を持った兵士たちが並ぶことになった。
闇夜の中でガイアケロン軍団の工兵部隊が、しきりに動き回っている。
木材などを木槌で打つ音がしていた。
何をしているのか分からないが建設作業をしているようであった。
アベルとカチェは負傷兵の集まる救護所へと移動する。
矢に射られたり、石をぶつけられた兵士が数百人もいた。
いくら盾に守られていても射線を確保するために、撃つの瞬間は身を晒す。
そこを狙われて傷を負わされたわけだった。
どこでもそうだが、治療魔法の使い手は貴重の上にも貴重。
確実に意味のある場合にのみ使われて、そうではない場合は縫合や薬草を塗りつけるだけで済ませてしまう。
数百人の人間が集っていた。
中には歩けないため担架に乗せられて運ばれてきた者もいる。
残念ながら死んでしまった人が隅の方で横たえられていた。
「暴れないように押さえていろ!」
「内臓の酷い傷だけに治療魔法を使え」
「ぎやゃああぁあ!」
ここだけ、まだ戦場だった。
医療部隊の長らしい男がいる。
まだ若い人物で、せいぜい三十歳ぐらいに見えた。
おそろしく知的な顔立ちに怜悧な視線。冴えた薄青色の瞳をした医者だ。
アベルは一瞬の隙を見計らって声を掛ける
「あの~。僕、治療魔法が使えるので手伝いましょうか」
「なに!」
驚くほどの凄味を効かせた勢いで返事をしてくる。
鋭い視線がアベルを値踏みしていた。
「医術の経験はあるのか」
「父親が医者、母親が看護婦を兼ねた薬師でした。まぁ、手伝いぐらいはやってきたので。ガイアケロン様の兵士が一人でも助かればと……」
「では、お前は只今から私の指揮下だ。助手にしてやる。名前は」
「え? 助手?」
「お前は名前も言えないウスノロなのか!」
「ア、アベルです」
「私はセジャン・ロマヌスカ。兵士たちからは斬れる医者なる二つ名を頂戴している。理由は手足の切断が上手いこととゴロツキを何人か決闘でぶった斬ったことがあるからだ。さぁ、治療を始めようか」
アベルは完全に雰囲気に呑まれたまま、これはしくじったかと気づいたが、かといって今更やめますとも言い出せずに、ほぼ言いなりになって手伝いを始める。
まず水で手を洗わされて、つぎに蒸留酒でさらに洗浄する。
「あ、あの。知っているんですね。不潔な手や道具で手術すると傷が化膿しやすいの」
「アベル。お前は医者を馬鹿にしているのか! 経験を積んだ賢い医者ならそれぐらい知っている。百年前の医学書にも書いてあるのだ。最近でもミラーボという医者が論文にして王都の大学で発表している」
「……」
アベルは羞恥心と余計なことを口にした感で黙らざるを得なかった。
もはや議論より行動の時だった。
縫合だけでは手に負えない急所に矢が突き刺さった重傷者の処置に入る。
服の上から矢が突き刺さっているのだが、脱がすことは出来ないので鋏で患部の周辺を切る。
服は貴重品なので、あとで縫い直せるように丁寧に切ってやると良心的だ。
それからヤットコで矢を強引に抜いて、アベルが尽かさず治療魔法で傷を治す。
一人、処置の難しい負傷者がいる。
四十歳ぐらいの屈強な男なのだが、顎に矢が突き刺さり、鏃の先端は歯を砕いた後さらに喉にまで達していた。
運悪く鏃には返しが付けられていたため、無理に引き抜こうとしてもできない状態である。
そこで外科医セジャンと協力して、傷口を刃物で切開してから鏃を抜き去り、即座にアベルが傷を塞ぐことになった。
屈強な同僚たちが負傷者の四肢を抑えつける。
傷口をセジャンが鮮やかな手つきで切開していく。
頭を固定するために二人の男が抑えるものの、激痛に逆らって患者が体を震わせた。
「我慢しろ!」
セジャンが驚くほどの大喝を与える。
最悪、頭をなぐって失神させてから手術しなければならない。
うるさいほどの悲鳴。
見かねたカチェが助けに入った。
魔力を滾らせて体を押えつけに入る。
「男の子でしょ! 我慢しなさい」
相手はどう見ても男の子という年齢ではなかった。そして説得の結果というよりカチェの強力な腕力が効果覿面で震えていた体が固定される。
寒さにもかかわらず誰しも汗だくになりながら、まるで取っ組み合いのごとく働く。
広げた傷口から血が溢れ出てきた。
切開作業が終わり、即座にヤットコで矢を掴むと、大根でも引っこ抜くように力を入れて一気に抜き取る。
「アベル。まだ塞ぐな!」
セジャンは鏃を確かめ、一部分が折れたりして在留物が体内に残っていないか調べて、それからアベルに合図した。
アベルは急いで治癒魔法を発動。傷口は一瞬にして回復した……。
あとには激痛に打ちのめされ、それが瞬時に消えたために放心状態の男が残った。
アベルは声を掛ける。
「なぁ。あんた、大丈夫か。口は利けるか」
「治った……のか」
「多分、無事だろう」
「アベル。このセジャンの治療にケチをつけるつもりか。多分ではない。確実に治っている」
ぎらりと斬れる医者なる男の青い瞳が光った。
手には極めて切れ味のよいメスが握られている。
アベルは顔を引き攣らせて謝罪した。
あんたは剃刀みたいな刃物で傷口を広げただけだろうとアベルは思わなくもないが、そういうことは言うだけ無駄というか、むしろ百害あって一利なしである。
だいたい確かに斬る技術は素晴らしかった。
愛想笑いをして誤魔化す……。
助けた男は弓箭部隊の百卒長で、体を押えていた六人の男たちは部下だった。
彼らはアベルとセジャンに激しく感謝している。
カチェのことは怪力お嬢さんと呼んで本気で恐れていた。
その後も何人か助けて、頃合いかと思ったアベルは部隊に戻ろうとしたがセジャンや他の医師、看護婦たちに引き留められてしまった。
「おいおい。助っ人! おねんねの時間じゃないぞ!」
「そうよ! まだ、重傷者が大勢いるのが見えないの!」
可愛い顔をした看護婦も目を血走らせて訴えてきた。
ここはここで、やっぱり戦場だった。看護婦も戦っている。
セジャンは言う。
「アベル。私は治療魔術を使えない。つまり、ただの医者だ。だが、少しも自分を恥じていない。なぜなら魔力の関係でどんな治療魔術師も重篤な怪我人は数名しか助けられないからだ。魔力が回復した翌日には患者は死んでしまっている。しかし、手早い手術でならば十人助けられるかもしれない。だから私の方が良い医者だ。分かるか?」
「僕の父親に近い考え方です。治療魔法は最後の手段としておき、小さな傷は薬で対処しました」
「……まだ体力、魔力に余裕はあるな」
「はい。あります」
「では、頼む」
結局、命に関わるような重傷者を一人残らず処置するのに夜更けまでかかってしまった。
一段落したところで夜食が出た。
飲まず食わずで働いていたから腹が減っている。
牛肉のごった煮に小麦の団子、それから酒も出る。
アベルとカチェは口にすると、とても美味い。
良く煮込まれていて濃厚な味わいだった。
酒は香りのいい葡萄の蒸留酒で、飲むと体が熱くなってくる。
セジャンがアベルに話しかけて来る。
「おい。アベル。明日は大規模な戦いになるかもしれない。いや、きっとなるだろう。今日以上に忙しくなるから覚悟しておけ」
「僕、強襲偵察隊に所属しているんです。悪いですけれど手伝えるのは今日だけかも」
「なに! お前ほどの治療技術の持ち主が戦闘員とは惜しい。私はハーディア様とも懇意だ。救護部隊に転属させる」
「お断りします。僕は戦ってガイアケロン様の役に立つのが目的です」
セジャンは怖いぐらいの視線を向けている。
知的な美男子がそんな顔をしていると凄味があった。
「この私がせっかく助手にしてやると言うのに。私の元で三年も鍛えれば立派な医者になれるぞ」
「こればっかりはどうにもなりません」
「アベル。お前みたいな顔をした奴が二度と姿を現さなかったことは数えきれない。どいつもこいつも死に急ぐからな……」
名前を知らない若い看護婦たちなどは何か痛ましい者を見るような顔つきをしていた。
アベルとカチェは食事の礼を言い、部隊に帰った。
やはり軍団というのは社会の縮図だ。
様々な役割の人間が必要とされていて、相応の働きをしている。
それぞれが個性や願望を持っていつつも、巨大な戦争という目的のために全力を尽くしていた。
百万文字になるようです。
こんなに長い話しを読んでいただき、ありがとうございます。




