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獣の見た夢  作者: MAKI


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108/141

敵陣、奥深く

 



 アベルたちは渡し縄に掴まり、半ば水に浸かりながら渡河する。

 冬になりかけている季節。流れる水は冷たい。

 対岸に渡った後、熱温風の魔法で直ぐに体を乾かした。


 川沿いを苦労しながら移動する。

 やがて岩山に歩いて登れそうな場所を見つけたので、そこを進む。

 ぼやぼやしていると日が暮れてしまう。

 稜線を越えると背の低い雑草が生えた斜面、そこを下ったところに林がある。

 地形を読む限りでは、その先にポロプ原野の裾野が広がっていた。


 林の間を半ば走るように進む。

 先頭はワルト。亜人界の山岳地帯で生まれ育ったワルトは森などに高い適性を示した。

 かつて魔獣界の密林を移動したときも、イースに次いで危険生物の接近に敏感だった。

 こうして先頭を進んでもらうと警戒にもなって頼もしい。


 幸い林は直ぐに抜け出た。

 それと言うのも樹木が伐採された形跡があり、木材を運搬したと思われる道を見つけることができたからだ。

 リモン騎士団が砦や宿舎などの建設などに利用したものと思われた。


 さして広くない原野であるのでアベルたちが進んでいると、やがて柵に囲まれた軍営地がある。

 警戒兵が全周に配置されているので、アベルは手を振りながら堂々を接近した。

 兵士が声を上げて仲間を呼ぶ。

 たちまち小隊……、十五人ほどの者が槍や剣を手にして近づいてくる。

 

 魔法のあるこの世界。一見したところ丸腰でも、実は強力な使い手だったということもあり得る。

 ましてやアベルやカチェは刀で武装しているうえ、軽装的とはいえ鎧まで身につけていた。

 しかも、敵国の強大な軍団が接近している状況。

 これで警戒しない方がおかしい……。


 兵士を率いた小隊長は、四十歳ぐらいの口髭を生やした男で騎士階級のようだ。

 なんとなく、装備や雰囲気でそういうことが伝わってくる。

 長剣を抜いて、すでに脇構えにしていた。


「すいません。僕らはハイワンド公爵家の関係者です。リモン公爵家の三男リッシュ様か長男ファレーズ様にお取次ぎ願えませんか?」

「お前ら、なんだ? 馬にも乗らない使者などあるか! 謀るな!」


 アベルは首飾りにしてあるハイワンド家紋のメダルを取り出して小隊長に見せたが、効果はいまいちだった。

 メダルを凝視していたものの首を捻る。

 芳しい答えはない。

 やはり最前線にあって敵と対峙しているという状況では、容易に信用してもらえないらしい。


「分かりました。それなら手紙を今から書きますので、それをリモン騎士団の幹部に届けてください」

「いや、取りあえず武装を捨てて大人しくしろ」


 拘束され、尋問に応じたところで結果が良くなるとは思えななかった。

 徒に時間を無駄にしてしまう。

 アベルは高圧的に出ることにした。

 声を張り上げる。


「無礼を働くな! 僕はハイワンド家のアベル。こちらの女性はカチェ。もしリッシュ様に僕らが不当な扱いを受けたと申し出れば、お前の立場など無くなるぞ。いいから手紙を届けろ!」


 相手はアベルの勢いで、少したじろぐ。

 アベルは背負った雑嚢の中から油紙に包まれた紙と携帯式の筆記用具を取り出してカチェに渡す。

 子供のころからウォルターに字の教育を受けたし、スタルフォンからも本格的に指導をしてもらった。

 しかし、典雅な手紙の書き綴りに関しては英才教育を施されたカチェの方が上手だ。

 カチェは周りを囲む兵士の一人に声を掛ける。


「貴方、その楯を動かさないで」

「え……?」

「手紙を書くのに平らな物が必要なのです。字が乱れたら承知しませんからね」


 対応の仕方が分からずに困惑している兵士をカチェは気迫を込めて睨む。

 美しいカチェがそうすると天性備わった気品も相まって、大抵は呑まれてしまう。

 兵士は楯を揺れないように固定して沈黙した。

 そうして強引に即席の机を用意したカチェは皆の見ている前で手紙を認める。

 流れるように羽ペンを操り、あっという間に書き上げた手紙を小隊長に渡す。

 中年の小隊長は、顔つきを変えた。


「俺は字が読めるのだが……これは大変な達筆だ。なかなかここまでの字は書けるものではない」


 小隊長は乱暴なことはするなと命じて、部下一名を伴い走っていく。

 すぐに軍営地から馬に乗って、いずこかに騎行していった。

 後は結果を待つだけだ。

 考えてみれば衝動的にガイアケロンの軍陣で考えを述べて飛び出し、ここまで飲まず食わずだ。


「カチェ様、ワルト。ちょっと食べておこう」


 雑嚢から焼しめたパンと燻製肉を取り出す。

 保存の効くように固く焼かれたパンは、そのまま咀嚼するには歯応えがありすぎる。

 通常は汁物の中に入れて、溶かしたようにして食べる。

 今はないから革袋に入れた葡萄酒をぶっかけて口に入れた。

 兵士たちがつまならそうに、しかし文句を言っても仕方ないと思ってか、黙ったままアベルたちを見ている。


 そろそろ陽が傾き、空が緋色に染まりつつある頃になる。

 五騎ほどの集団が馬蹄もけたたましく接近してきた。

 先頭を進むのは、白鋼の鎧が鮮やかに光る騎士。

 馬にも華やかで立派な帯があつらえてあって、一目で相当な上級貴族なのが理解できる。

 目のいいアベルはそれがリモン公爵の三男リッシュなのを確信した。


 燻したような濃い金髪を伸ばしたリッシュは薄茶色の瞳に驚愕を色を浮かべていた。

 飛ぶように下馬するとアベルの肩を強く掴む。

 それから笑った。


「ははっ! 本当だ! アベルがいたぞ。それにカチェ殿まで」

「リッシュ。急ぐ。火急の件につき典礼無視でセドリック・リモン公爵様に面会願えないか」

「……分かった! ドニとウルヌは馬をお二人に貸せ!」


 アベルらはリッシュの先導に従い、原野を移動する。

 途中、兵士や物資を運ぶ従者の姿が目立つ。

 彼らはガイアケロン軍団が侵出してきているのを既に理解していて、緊張感を発散させていた。

 馬上、リッシュが話しかけてくる。


「アベル。私自身、祝賀会の数日後すぐに父上とリモン領に戻ったのだが……噂が絶えなかったぞ。武帝流の仲間たちは君とカチェ殿のことを心配していたんだ。突然、姿を消して別れの挨拶も無かったからな」

「すまない。秘密の任務だった」

「だろうな! きっと最前線か亜人界にでも行ったに違いないと察したものさ」

「だいたい正解。ところでウェルス陛下が崩御されたのは間違いないのか?」

「確かだ。我々は帝都から早馬で伝えられた。前線にいる貴族や将兵は戦時特例により葬儀には参加していないが、在帝都の貴族と言う貴族は墳墓への見送りをしたことだろう」

「次代皇帝について何も知らないんだけれど……まさかコンラートなんてことはないよね」

「それなんだがな……。信じられないことに後継者が指名されていない。今は皇帝陛下不在の異常事態だぞ」

「皇帝が決まらなかった」

「元々、仮に後継者がコンラート皇子になったとしてもテオ様を支援する貴族たちは公然と反対し服従しないことになっていたのだが……。ウェルス陛下は最後まで何もお決めにならない御方だったという……」


 リッシュは悲しそうな顔をしていた。

 やはり貴族を支配するはずの皇帝が決断できないというのは、臣下にとっても情けないことだろう。


「リッシュ。頼みがあるんだ」

「なんだ? 言ってみろ」

「僕はバース公爵様の命を受けて行動している。結果としてはリモン家のためにもなると思っている。リモン公爵様と面会の際には僕の立場に立ってほしい」

「味方しろってことか? 何を言うつもりだ」

「ガイアケロンとハーディアの軍団とは極力戦わないでくれ。戦えば……君も死ぬぞ。戦死の覚悟は出来ているのだろうけれど。なにも急いで死ぬことは無い」

「……いいだろう。アベルは共に鍛えた仲だ。それにこの狭くて忌々しい原っぱはな、実は言うと墓場としては不満だった。どうせならもっと大きな戦場で華々しく死にたい」


 リッシュは爽快さを感じさせるような笑顔。

 貴族や武人には時々、驚くほど命に執着せず、いかに満足して死ぬかを目指している者がいる。


「妻が妊娠している。来年、出産だ。義務は果たした」

「それなら……なおさら簡単に死んだらいけないのでは」

「理由にならんさ。子持ちの兵士なんかどれだけいる」

「……」

「アベルもさっさと子供を作っておけよ。貴族の……いや、人間の義務か。まぁ、なんだ。公爵家などと言ったところで三男が継げる物など僅かだ。せめて武人として自分を完成させたいのさ」

「死が人生の完成となるには……よく生きないとな。後悔ばかりで終わる人も大勢いるだろう」

「祝賀会の時、私の妹がいただろう。三女で年齢は十四歳。ちょうどいいよな……って! カチェ様。失礼しました。そんなに怖い顔で睨まないでください」

 

 リッシュは本気で驚いていた。

 アベルはどんな顔をしているのか確認しないでおくことにする……。



 アベルは馬に乗りながら距離を特に意識して測る。

 もちろん目測だが、大間違いしない自信はある。

 河から、およそ五メルテほどの位置にある高地に軍陣があった。

 警戒は厳しく、槍を持った兵士が全周囲を軍列によって防衛していた。

 アベルはそこがリモン騎士団の最前線司令部なのを直観する。


 近衛の騎士が守る軍陣の入り口。

 アベルとカチェは中に入るが、ワルトは制止される前に自分から歩みを止めた。

 奴隷の獣人が入れる場所ではなかった。


 幕内の、しかるべき上座の場に金箔で装飾された重厚な椅子があって、そこに腰を下ろしている人物こそリモン公爵自身であった。

 皇帝国貴族社会おいて帝室に次ぐ最高位の爵位だけあって、格式および威厳は本物だった。

 アベルは公爵の前で右手の拳を胸に当てて一礼。


「セドリック・リモン公爵様。祝賀会以来でございます。ハイワンド家のアベルです」


 年齢五十代後半と思しい公爵の顔は頬から顎にかけて、白髪混じり褐色の髭で覆われていた。

 風格を出すために髭を生やす男性は特に武人に多い。

 剃るのが面倒くさいという理由の者も大勢いるが……。


 リモン公爵は灰茶色の視線をアベルと脇に控えるカチェに向ける。

 岩石のごとく険しい表情に一抹の緩みを見せてくれた。

 貴族社会を生き抜いてきた百戦錬磨の風格を持つリモン公爵は、訪問を受け入れる姿勢を見せてくれている。

 祝賀会の際には大いに歓待したから、それが功を奏しているのかもしれない。

 それにハイワンド家とは境遇が近いこともあって以前から密接な関りがあると聞く。


「ハイワンドの若者が、突然どうされましたかな」

「このアベル。バース様の名代として参上しました。不躾でありますが重要事につき、お人払いを願います。我らと一族の方のみにしていただけませんか」


 リモン公爵は手で仕草をすると、近習の騎士や小姓は一人残らず陣幕から出て行った。

 残ったのは当主本人、リッシュ、それと三十五歳ぐらいの男性が一人。

 おそらくリモン家長男にして騎士団長のファレーズだろうと想像する。

 アベルは名乗り自己紹介すると相手は答える。やはり予想通りだった。


 顔はリッシュと全然似ていない。

 リッシュがどちらかといえば颯爽とした青年なのに対して、長男は猪首で角ばった顔の厳つい男だ。

 母親が違うのかもしれなかった。

 アベルはどう話しを展開させるか考える。


 ー名代というのは、ほとんど嘘だが仕方ない。

  さて、どんな風に説明するか?

  いかなる形であれリモン騎士団とガイアケロン軍団の正面衝突だけは避けたい。

  そこからだな。


「率直に申し上げます。このアベルとカチェ様は密かに越境を試み、ガイアケロン軍団の偵察をしてきました。彼の軍団は恐るべき精強さ。無論のことリモン騎士団も皇帝国にあって精鋭とは存じますが正面決戦をしては激しい損害を受けることは必定。ここは本城へ後退して助勢を待つのが唯一最上の策と具申するしだいです」


 アベルは一気に主張する。

 小出しにするよりも、いきなり大きく言い切ったほうが良いと判断した。

 リッシュは眉を動かし驚きを表した。

 ファレーズは、はっきり不快の感情を顔に浮かべる。

 リモン公爵の考えは読み取れない。

 表情は塑像のように動かなかった。

 沈黙を破ったのはファレーズだった。


「アベル殿とやら。ハイワンド公爵名代というが他家の軍事方針に口出しするとは無礼に過ぎるぞ。テオ様、直々の命令というのならいざしらず、君に何の権限がある」

「はい。ご無理ごもっともでございます。ただ、リモン公爵家ならびにテオ皇子様のためと、その一心です」

「この原野を防備すること一年以上。ここで王道国の攻勢を防ぐのだと騎士団一丸となってきた。簡単に放棄とは名誉に関わる。せめて一戦交え、悪鬼ガイアケロンとハーディアに一撃与えてやる。後退して籠城は最後の手だ」

「仰せのこと、立派な戦士の心意気と染み入るばかりですが……」


 どう説得したものかアベルは考える。

 それまで黙っていたリッシュが初めて口を開いた。


「我々の連絡要員や方々からもたらされる情報によればテオ皇子様とノアルト皇子様は、ここよりさらに南西の戦線に主力を振り向けている。主な相手はディド・ズマとイエルリングだ。逆にコンラート皇子の派閥はガイアケロンとハーディアを狙っているようだ。ウェルス陛下御臨終の間際、自分がまずガイアケロンを破って見せるとかそういう事をコンラート皇子は口走ったらしい」

「コンラートがここに向かっている!」


 好都合なのではないか。

 アベルは内心、激しく期待する。

 リッシュの説明は続いた。


「困ったあの長兄殿は手柄を上げて皇帝の座を手にするつもりさ。ところが、ここからあと四十メルテばかり西のところで足踏みしている。どうやらさらに南下して山地を迂回、旧レインハーグ領を占領している王道のリキメル王子を攻めようと方針を変えたみたいだ」

「……! どうして目標をリキメルに変えたのですか?」

「深読みすれば始めは真意を隠して、つまり元々ガイアケロンは目標ではなくて敵やテオ様を騙したと考えられるが……あの愚劣なコンラートにそんな器用なことができるとは思えない。誰かの注進があったのかも」

「なんとかしてコンラートの軍団をこちらに誘導できませんか!」

「さてね。来てくれてと頼んで来るかな? 奴らとは同じ皇帝国の軍勢とは言え、もはや完全な分裂状態だ。ウェルス皇帝陛下が亡くなられ箍が外れた今、協力どころか下手したら内乱になるだろう……」


 ーそこを無理やりにでも来させないとならないんだ!

  どうせ戦うのなら絶対にコンラートの軍団でなければならない。


 アベルはセドリック・リモンに目標を定める。

 リモン公爵家の頭領で、つまり鍵だ。

 この人物さえ動かすことが出来れば事態は転変する。


 貴族は貴族しか人間扱いしない……。

 その態度は爵位が高くても低くても似たようなものだ。

 中にはそうではない者もいるが、それはあくまで例外的少数者である。

 アベルは自分の立場を思い出し、自らを鼓舞する。

 公爵家の継承権持ち。これは世に稀と言える立派な地位だ。

 しかも、最後の手だがテオ皇子の内諾を得ているという嘘を吐くこともできる。

 もし、のちに発覚して問題となっても構わないのだ。

 別に皇帝国で出世しようという野心はないのだから。

 それどころか、もう戻る意志すらない……。

 嘘でも卑怯でも土下座してでも……あとは野となれ山となれ。


「リモン公爵様! このアベルはバース・ハイワンド公爵の孫として敵地となった旧領を偵察せよと命じられました。また、隣接するリモン様のために命懸けとなるように仰せつかりもしました」


 もちろんリモン公爵については嘘だ。

 そんなこと一言も命じられていない。

 秘密同盟の件はあまりの重大事につき幕僚で知っているのは立案者のバース公爵本人と、それにテオとノアルトの両皇子のみ。

 万が一、テオ皇子が皇帝となる前に露見し騒ぎとなり、言い逃れできなくなったときにはバース公爵の独断で仕出かしたことになる手筈だった。

 そうとなればバース公爵の失脚は確実。

 ハイワンド家は裏切り者として断罪される……。


「……」

「ガイアケロン軍団の将兵、まことに恐るべきとしか言い表しようなく。ここはコンラートを招きいれてガイアケロンに当たらせるのが最も上策です」

「私はアベルの物見を信じるよ。ファレーズ兄さん。ここを死守するよりも本城で決戦をしよう」

「反対だ。砦まで作ったのだ」

「それだって、所詮は急造の拠点だ。城の方が堅固だよ」


 これまで息子たちに論を出させて自身は沈黙していたリモン公爵が口を開いた。


「コンラート皇子は六万人以上の兵力を率いて東進してきた。一応、計画では十万人の動員を目指しているそうだ。それには準備も時間もかかるはずだが……。そして、我々の得た情報によればガイアケロン軍団の兵力は最大でも四万程度。だが、それはあくまで最大動員数であって、実際には多方面に兵力を割いておるはずだから歩兵は三万、騎兵は五千がいいところではないかと儂は考えている」

「はい」

「このポロフ原野は狭い。四方の裾野は林や岩場となっているから軍列がまともに動ける場ではない。河の上流と下流は共に峻嶮で大部隊は近づくことすらできぬ。つまり万を超える人数が展開できる場は原野の中央部のみと限られている。こういう場所では敵方を上回る大兵力を壁のように配置して力押しすれば、それで勝敗は決する」


 アベルは質問してみる。


「原野の中央部に南北へと流れる河がありますが……それは戦局に影響しませんか」

「我々は対岸に拠点を作っていない。下手に渡河すると背水の陣となってしまう。ならば相手の渡河を待ち構えていればよいと考えた。しかし、王道国側を圧倒するような軍勢がある場合は別だ。強硬渡河をすればよい。濡れるのを良しとすれば渡れぬことも無い。あるいは艀を使った仮設橋を作れば、それすら解決する」


 大規模な戦術の論理だった。

 アベルは取り合えず口出ししないでリモン公爵の聞き手になる。


「ガイアケロンは騎兵を上手く使うようだが、ポロフ原野はそれには不向き。現に以前の合戦ではテオ様とノアルト様が奴めの侵攻をここで防いだ」

「つまり……」

「この地ならばコンラートは自分でも勝利できると考えるのが妥当。また、実際にそうなるはずだ。それにも関わらず、どうしてリキメル王子を攻撃する素振りを見せているのか儂には分からない。リキメルに対する勝利では次代皇帝となる決定的な功績とは到底言えまい。もしかすると攻撃の意図を欺瞞する行動なのかもしれぬ」


 リモン公爵の言う通り本当に偽装なら、結局は何もしなくてもコンラート軍団はポロフ原野にやって来ることになる。

 しかし、放っておいて風任せとするわけにもいかない。アベルは真偽を確かめたかった。

 さらにリモン公爵は説明を続けた。


「実は言うと先日、コンラート皇子の使者がこの軍陣を訪れた。いわく、今からでもテオ様の支援を止めて、コンラート派閥に与すれば過去の不作法は忘れてやるとのこと。リモン領は安堵するばかりか、奪還したハイワンド領の半分をリモンに渡す意向があると……。逆に従わないのならば皇帝に就いたとき爵位を剥奪してやると脅してきた。だが、もう儂はあの愚かな皇子に従うわけにはいかない。よってリモンの選択肢は二つ。早期の内にガイアケロン軍団へ決戦を挑みコンラートの手柄となるのを防ぐか……あるいは静観に徹するか」


 長男ファレーズが、無論決戦だと力強く答える。

 アベルは同じ主張を繰り返して決戦に反対した。


「コンラートがどれほどの兵力を用意するのは分かりませんが、最終的にはガイアケロンが勝つはずです。ガイアケロン軍団と言えば騎兵という印象が強いのでしょう。中央平原では彼の騎馬軍団に敗北したとも聞いています。しかし、最下級の歩卒にしても恐るべき熟練兵たちです。手痛い損害はコンラートに支払わせるべきです」


 ファレーズはハイワンド当主の名代と主張するアベルを苦々しく見る。


「アベル殿とやら。貴殿、随分とガイアケロンを買っているようだが、そうならなかった場合はどうする。決戦せねばガイアケロンを前に怯懦の姿勢を見せたとリモンは笑い者にされる。仮にガイアケロンやハーディアの首をコンラートが獲れば、それこそテオ様に言い訳できぬのは我らぞ」

「……」


 アベルは再び黙考の態度に戻ってしまったリモン公爵の足元に跪いた。

 同格の公爵家同士は略礼で済ませるのが習慣なので、この態度は極端な謙りだった。


「もしリモン家の名誉が傷つけられたとなれば、このアベルが全身で償う覚悟です。何もかも、僕の具申が原因。煮るなり焼くなり好きにしてください。コンラートではガイアケロン軍団に勝利できるはずがありません。必ず負けます。リモン騎士団が傷つくのを止められなかったとなればテオ皇子様に会わせる顔がありません。どうか……」


 カチェも無言のままアベルの隣に立ち、優雅な仕種で片膝を着いた。

 真摯な態度にリッシュもファレーズも口を噤んだ。

 父親の判断を待つ……。

 しばらくしてリモン公爵は重たい口調で語りだした。


「先代ウェルス皇帝陛下は哀れな方だ。皇后様とは子に恵まれず、だいぶ後になってから迎えられた第二婦人との間にコンラート様が生まれ、第三婦人がテオ様とノアルト様をお産みになった。腹違い、しかも別々に育てられたせいで必然的に疎遠となった。御子息らと臣下どもが各々協力するようにと苦心の連続。異なる意見の間で身を苛まれ、ついに心臓まで患われてしまった。ハイワンド家に公爵位を授けられたのもコンラート様の失敗を穴埋めする意味があった。領地や利権の大部分を失ったハイワンドに皇領を裂いて与えもした……。

 陰で批判する者もいるが陛下には、そうしたお優しさがあったのだよ……。確かに優柔不断ではあったが残虐な人柄ではなかった。配下が失敗しても厳罰に処すことは無く、罵りもしなかった。平穏な世ならば、善き皇帝と呼ばれていたであろう。王道のイズファヤート僭称王めが対等な外交を求めなどしなければ……。そのように儂は思っておる」


 リモン公爵は顔に深い憂愁を浮かべていた。

 長い間、皇帝と崇められていた相手の実像を知る者の辛さが滲んでいる。


「……もう夕方だが、今からコンラート皇子に会いに行くとするか。皇子にはこう言うとする。リモンばかりでなく他の貴族の態度を変えたければ今度こそガイアケロンと戦って勝ってみせろと。味方を捨て置き、逃げ出す皇子の背中は見飽きておるとな」


 もし本当に言葉通り伝えるのなら、それは侮辱であり煽り文句でもあった。

 ファレーズが目を剥き、慌てて進言する。

 額には大汗を掻いていた。


「親父殿! もはやウェルス皇帝がいた頃とは訳が違うのですぞ! 単身コンラート皇子の元に行き、しかも批判まですれば命すら危ういかと……」

「ファレーズ。アベル殿の目を見てみよ。命を使って大仕事に取り組む男の瞳。儂らも決断のしどころというもの……。ガイアケロンの軍団は、よほど恐ろしいと見抜いたようだ。我が子のような騎士どもが、元は名もなき同然の原野で死に絶えるとは苦痛に過ぎる。それにコンラート皇子が心を入れ替えたかどうかも見ておきたい。そう簡単に胎に勇気が入るのならば誰も苦労はしないが……」


 リモン公爵は椅子から立ち上がり、陣幕の外へ大声で声を掛ける。

 近習の騎士が入幕してきた。


「馬を用意いたせ。二十騎ほど付いてまいれ」


 慌ただしく準備が始まる。

 素性を知らしめるためにリモン公爵家の紋章が刺繍された軍旗も用意された。

 旗は戦場で個人を特定するという重要な目的のためにあるので、派手な原色であることが珍しくない。

 リモン家のそれは緋色の猪が二対で向かい合っている柄だった。

 夕焼けに照らし出されて、いっそう赤く映えている。


 ファレーズはまだ何か言いたそうだったが、父親の意志が固いと見て黙った。

 アベルはリモン公爵について行こうと考える。

 コンラート皇子という男が、どういう面をしているのか確かめておきたかった。

 それに焚き付けておいて後はお任せというのも気が退けた。


「リモン公爵様。このアベルも連れて行って貰えますか。身分は明かせないので従者のような立場として……」

「好きにいたせ。ただし、何があっても保障しかねるが」


 アベルは頷いた。

 同じ皇帝国の勢力であるが、ほぼ敵陣と呼んでもいい場所だった。

 リモン公爵は特に選んだ騎士と魔術師を引き連れて、素早く西を目指していく。

 アベル、カチェ、ワルトもその馬群に従った。

 先導者が魔光を発動し、夜道を明るく照らし出す。

 馬群は疾駆する。

 上手く行けば真夜中になる前にコンラート軍団と接触できると思われた。



 


 ~~~~





 アベルらを加えたリモン公爵一行は、コンラート軍団の外縁部を警戒している部隊と接触した。

 千人ほどの軽装歩兵を率いているソベク男爵という人物と面会する。

 コンラート皇子が休んでいる軍陣の場所は極秘なので、末端の現場指揮官である男爵は詳細を知らなかった。


 敵対派閥とはいえ皇帝国公爵家の権威は絶大だ。

 ソベク男爵は丁重な態度でリモン公爵に応対して、とりあえず上部組織であるドラージュ公爵家の騎士団へと誘っていく。

 夜道を移動していると平野は無数の焚火で輝いていた。


 数千人規模の部隊が天幕を張って休んでいるようだ。

 なにしろ冬の足音が聞こえて来る時期。

 野外で睡眠など、暖をとる炎がなければ寒くてできない。

 六万人という途方もない大軍は村などで収容するのは不可能だ。

 かなり広範囲に分散して適宜、休んでいるように見える。

 これだけの軍勢を統率するのは、それだけでも難事であろうとアベルは想像した。


 ドラージュ騎士団に到着すると、当主のエンリケウ・ドラージュ公爵は不在だった。

 その代わり、公爵家長男にして騎士団長のエリアス・ドラージュが留守を務めている。

 コンラート皇子の正妻アデライドはドラージュ家の出自であるので、もっとも強烈な親コンラート派なのがドラージュ家と言える。

 エリアス・ドラージュは三十代後半ほどの容姿で、突然訪ねてきたリモン公爵に途惑っているようであった。

 ただ、門前払いするつもりはなく話しを聞く態度だ。


 リモン公爵は交渉を始めた。

 目的、権限、家柄など……様々な材料を持ち込んだ巧みな物言いだった。

 特にコンラート皇子からの内密の件につき……という臭わせが効果を示した。

 仕上げにリモン公爵が強硬に主張するとエリアスは折れた。

 取り合えずコンラート皇子の軍陣までは案内するという。

 ただし、面会するかどうかはコンラート皇子の考え次第のようだ。


 なかなか派閥以外の者と会おうとしないコンラート皇子に、あと一歩というところまで来た。

 アベルはリモン公爵の高い交渉能力に内心、静かに驚く。


 もう時間は深夜を過ぎた頃だ。

 エリアス・ドラージュが直接統率する部隊に囲まれつつ西へと移動していく。

 皇帝国主幹道路の分岐点にほど近い場のようだった。

 ここから東に行けばリモンやハイワンドといった皇帝国最東部に到達する。

 南下すればレインハーグやベルギンフォン領だ。

 もっとも、もはやそこは皇帝国が追われた地域であるが……。

 

 やがて軍営地に着く。天幕に案内されたが、椅子に座るのはリモン公爵ただ一人。

 残りの騎士や魔術師は、全く油断していない。

 粗野な殺気を放つようなことはないが、小さな物音も聞き逃さない緊張感を持っていた。

 もし、本気でコンラート派閥の者がリモン公爵を殺害なり拉致なりを狙って来れば、護衛の者たちは命懸けで戦う。

 数百人で攻め寄せようとも、魔力で身体強化をした手練れと魔法攻撃で死ぬまで抵抗すれば、恐ろしい損害が出るだろう。

 しかも、リモン公爵本人をいかにも乱暴に謀殺すれば、あらゆる方面から反感と敵意を買う。

 だから、簡単には手荒なことはできないはず……。


 アベルはそう結論してみるが、所詮は気休めかもしれなかった。

 ウェルス皇帝のいなくなったいま、権力闘争を抑えていた最後の堤防が崩壊しているのと同じことなのだから。


 やがて東の空が薄く白み、小鳥が囀りを始める。

 明け方は、やけに冷えた。

 広い天幕なので暖炉を作ることもできるはずなのだが、そうした配慮はなかった。

 外が騒がしい。

 アベルが見てみると、立派な服を着た貴族や完全武装の騎士が百人以上も集まっていた。

 周りはすっかり相手側の人間に囲まれている。


 やがて文官と思しき老人が一人、リモン公爵の元にやって来た。

 彼はコンラート皇子の侍従長だった。

 皇子は朝食に招く用意があるというのだが、公爵は用件簡素にてそれに及ばずと素っ気なく答える。

 ともかくリモン公爵は椅子を立ち、天幕の外へと歩く。

 侍従長に連れられてアベルたちも歩いていくと、やがて木柵に囲まれた警戒厳重な場に辿り着く。


 中には破格に豪華な天幕があった。

 通常、軍営に使う野外天幕は丈夫で簡素なものが用いられる。

 しかし、その幔幕は外側が黒い絹。内側の全てが最高級の絨毯だった。

 複雑で絢爛な文様が隙間なく施されている。


 二十人を超えるリモン公爵の一行が悠々と中に入れるだけの広さがあって、内部に進むと大きな卓があった。

 その最も奥、つまり上座に座っているのがコンラート皇子だった。

 天幕には多数の警護者もいて、防備は万全だ。

 隅には伺候した臣下どもが整然と列している。 


 アベルはその顔をよく見る。

 だいぶ離れているが、表情は良く見えた。

 若いのか老けているのか判然としない顔つき。

 以前、聞いた話しだと三十歳ぐらいのはずだが、少なくてもそんな年齢には見えなかった。


 腫れぼったい瞼に吊り上った目。

 灰茶色の濁った水晶のような瞳。

 頬は膨らんでいて口角は不機嫌な子供のように歪んでいた。

 顎は細い。

 面相に険阻な気配が揺らいでいる。

 疑い深く、欲深い。

 そういう人間の顔だった。


 頭には贅を尽くした冠を被っている。

 全体は黄金で造作された葉が重なるような意匠、所々に大きな金剛石や紅玉が散りばめられていた。

 アベルはあの冠と比肩するものを、かつて一度だけ見た憶えがある。

 魔女アスの神殿でのことだ。

 およそ、この世の装身具の粋ばかり全て集めたような一室があった。

 首飾りにしても腕輪にしても二流の物は、何一つとして無かった。


 コンラート皇子は食事をしていた。

 卓上には銀食器にスープやパン、切り分けられた複数の肉などが大量に並んでいる。

 アベルら供の者は前進を止められて、リモン公爵のみが食卓の手前まで進むことを許された。


 コンラート皇子の右隣には中年の男が座っていた。

 禿頭で眉だけは太く、やたらと精力的な顔をしている。

 目が大きく、唇も分厚い。

 脂ぎっていて、気迫が迸る男だ。


「コンラート皇子。ドラージュ公爵。久しいですな」


 リモン公爵のそうした呼びかけで、かの禿頭の人物がドラージュ公爵であるのをアベルは知った。

 コンラート皇子が肉を食べるのを止めて語りかける。


「リモン公爵。我が大軍団を見て考えが変わったか。疾く跪き、未来の皇帝に拝謁せよ」

「それには及ばす。皇子」

「……」

「かような大軍勢を用意して、ついに因縁深きガイアケロンとハーディアを滅ぼしに来たかと思えば、さらに南に行くらしいとのこと。真意、尋ねに参ったしだいにて」

「ああ。それか。ちと、考えがあってな。まず王道の僭称王族リキメルめを血祭りに上げる事とした」

「ほぅほぅ。なるほど。大騒ぎをしておる割には小物から片付ける作戦ですか。もはや冬の始まりと呼んでもいい季節。リキメルを敗退させたのちは春まで暖かい室内でお休みになられるがよいでしょう。テオ様でしたらその間にディド・ズマかイエルリングを敗退させまする。皇帝の座はそれで決まりとなりましょうぞ」


 いきなり、全力の挑発だった。

 天幕の中は騒めく。

 無礼であろうと大声で注意したのはドラージュ公爵。

 コンラート皇子は怯えと怒りを混ぜ合わせたような複雑な表情を浮かべた。

 アベルは皇子の指が忙しなく蠢くのを見逃さない。

 たったこれだけの揺さぶりで動揺し、果ては混乱に近い精神状態になったのが透けていた。


「リモン公爵家を傘下に組み込みたいとの要望ですが、忠誠誓った臣下どもを戦場へ置き去りする執軍官に飽き飽きしておりまする。どうやら、儂はまたしても貴方様の雄姿を見ることは叶わないようですな」

「あ、あれは致し方なしだったのだ! 下手をすれば包囲される恐れがあり、私が西に逃れることにより敵の意図を無にする効果があった。総大将を守るのは当然であろう!」


 リモン公爵は呆れた風に首を振る。

 反省もないまま再び軍を統率する者として戦いに臨もうというその傲慢。

 癒しがたい愚かさ……。


「……将らしい姿を見ることは、このまま永久にありませぬか」

「このコンラートには戦略があるのじゃ! 不心得ものめが!」

「戦略ですと! では……この白髪頭めに御教示を賜りたく」

「ええい! ミュラー子爵! ここに来てお前の考えを聞かせいっ」


 天幕の隅に居並ぶ人々の中から頭でっかちの、くたびれた感じのした中年が出てきた。

 アベルが薬師のふりをしてパティアの街で接触に成功した執軍官のノルト・ミュラーだった。

 胃痛を起こすほどの辛い激務に耐えて仕事をしているような、そういう男だった。


「では、失礼ながらリモン公爵様に我が作戦の一端をお伝えいたします。まず、ガイアケロン軍団と決戦をするのは来年。場所はポルト郊外が適切であります。来年の春までには八万もしくは十万人の兵員を編成することができるはずです。それだけの兵力があれば戦わずしてガイアケロンを旧ハイワンド領から駆逐できるものと確信します」

「それは、なぜかな」

「ガイアケロンは勇猛ですが、同時になかなかの智将でもあります。勝てないと踏んだのなら迷わず中央平原まで後退することでしょう。ただし、問題が一点。十万人の大軍が移動するのには平地の主幹道路が適切。北部山脈の山道は蛇のように曲がりくねり、大軍を動かすのには向いていません。遠回りでも南下して旧レインハーグ領を解放。しかるのち北上してガイアケロンに圧迫を加えるのです」


 リモン公爵は黙っていたが、やがて肩を震わせ大声で笑った。


「なんと欠伸がでるような悠長さ。戦略とまで言いなさるから、期待して耳を澄ましておったのですが……お嬢様の飯事(ままごと)でござったか」


 ミュラー子爵は眉を顰めて沈黙した。

 コンラート皇子の言う戦略とは、実質この男が立案しているものと思われた。


「武人とは飯が出されれば素早く食べるもの。ガイアケロンとハーディアは既にポロフ原野に進出しております。我が物見どもは将旗の翻りを確認しておりますれば、決戦も間近となりまする。こちらは準備万端。ガイの首でも獲ったればテオ様に献上させていただきましょうぞ。それにて次代皇帝は確定というもの」


 いよいよコンラート皇子の顔色が変わっていく。

 口を陸に打ち上げられた酸欠の魚のように動かし、目はすっかり落ち着きをなくした。

 何かに恐怖した小動物のごとき姿だった。


「ここよりポロプ原野まで、重装歩兵でも二日か三日の距離。そのような至近距離に王道の英雄、我らにとっての仇敵ガイアケロンとハーディアがいて見過ごすとは……! 驚くなり、男気までもが無いと呆れかえるばかりなり」


 列しているコンラートの臣下たちから怒声が上がる。

 前に踏み出した者までいた。

 理性のある者が同僚を宥め、押し留めている。

 コンラート皇子は痙攣に似た動きで顔を振っていた。

 それから衝動的に手元の肉料理が乗った銀の皿をリモン公爵に投げつけた。

 胸にあたって汁が衣装に飛び散るが、リモン公爵は意に返さない。


「さて。このリモンめは、伝えるべきは全て伝えましたぞ。あとは皇子、ご随意になされい。今は袂を別っているとはいえ、皇帝国の皇子へ敵の動向につき注進を奉ったまでのこと。それではこれにて」


 リモン公爵はコンラート皇子に背を向け天幕の出口に向かって迷いなく進む。

 アベルらはそれに付いて行く。

 誰も止める者はいなかった。

 木柵を出て、乗ってきた馬に乗ると早駆けでリモン公爵の領地に向かって進む。




 怒り狂ったコンラート皇子はドラージュ公爵に宥められて、ようやく落ち着きを取り戻していく。

 次にノルト・ミュラーに叫ぶ。


「ミュラー! 何をもたもたしておるのか! 今すぐ目標をポロフとかいう場所に変えい!」


 ミュラーは答えに窮する。

 実のところガイアケロンに動きがあったのは潜入させている間者からの報告で知っていた。

 しかし、ポロフ原野という地域はリモン公爵の担当戦域なので詳しく知らない。

 敵対派閥とはいえ子爵である自分を遥かに超える爵位のリモンへ、あれこれ要求できるはずもなく戦略構想から外さざるを得なかった。


 それよりもミュラーは王道国第二王子リキメルに着目した。

 ポルトの戦いで大損害を受けた彼は以降、活動を停滞させていた。

 それが一年ほど前から再び活発化させていたが、それでもあくまで決戦を回避する動きに終始していた。

 工作員を潜入させて調べたところリキメル王子の直参は一万人程度の軍勢で、残り二万人ほどは傭兵戦力であることが判明している。

 しかも、その質は低いと感じさせた。

 強大な兵力を有しているイエルリング、ディド・ズマに比べて勝利しやすい相手だった。


 コンラート派閥に賛同した皇帝親衛軍は約三万。

 ドラージュ公爵、オードラン公爵、ベルレアリ公爵、他伯爵勢からの兵力が合わせて約三万。

 最終的にはさらに数万人は集められるはずだが、それには時間がかかる。

 手持ち、約六万の兵力で戦うにはリキメルが適当だった。

 王道国も王族同士が強く連携しているわけではないが、リキメルが危急となれば援軍を派遣してくるかもしれない。

 それでも勝算はあった。

 だから進言した作戦だったのだ。


 いくらかの疑義は差し込まれたものの、大過なく執軍官をやり遂げていたミュラー子爵の必死の説得でなんとか軍勢は纏まっていたのだが。

 ここに来て風向きが一気におかしくなった。


 リモン公爵はどうして挑発するような物言いをしたのか分からない。

 リモンの守りが充分なら黙って戦えばいいはずだ。

 ガイアケロンを討ち取れないまでも撃退したとなれば、それはそれで立派な武勲である。

 己の領地を守るのは義務であり、戦力が足りないのなら派閥のテオ皇子に頼めばいい。

 まるでポロフ原野にコンラート軍を引き入れたいかのような……。

 何にせよ相手の意図に乗るというのは危険なこと。

 ミュラーは反対意見を述べるしかなかった。


「ガイアケロンはポロフ原野という場所で侵攻を停滞させております。強行突破を狙っているのかもしれませんが、リモン公爵に任せておけばよいかと……」

「ならん! ならん! ああとまで私を見縊った発言。許し難い。だいたい確かに好機である! 命令であるぞ。南下を取りやめ、東に軍団を進ませい」


 先ほどまでの動揺ぶりはドラージュ公爵に機嫌を取られてすっかり回復していた。

 このいとも簡単に気分を変え、そのたびに真逆の意見を口にする主にミュラーは苦悩している。

 帝都にいてくれた方がまだ良かったと内心で思うのだが、むろん口にはできない。

 なおも説得を試みるミュラー子爵の横から、一人歩み出たのは皇帝親衛軍の将軍ピラト子爵だった。


「それではこのピラトに先陣をお任せあれ」


 コンラート皇子は満足げに頷いた。

 触発された他の貴族などが同じような反応をする。

 誰しもが活躍し、コンラート皇子の歓心を買えば出世できると、そう考えているようだった。

 ミュラーはコンラート皇子に呼びかける。


「コンラート様。執軍官はこの私のはず……」

「お前の主は誰だ」

「……」

「私の軍団は私が動かす。もともと帝都から離れられなかった間、一時お前に預けていたにすぎん! 精勤したようだからこれまではお前の策を汲んでいたが、かかる事態に対応できない固辞な様子はなんだ? だいたい私は始めからガイとハーディアが狙いだった! ドラージュ公爵。急ぎ軍勢を向けよ。差配も頼む」


 ミュラーは取り残されて、軍陣は逆に活気に沸いた。

 巨大な機会が訪れたと、あらゆる貴族は意気揚々となる。

 執軍官ミュラーの陣立ては厳密で、役割りは整然と分担されているだけに、予想外の顕職に恵まれる可能性は低かった。

 脇役をやらされていると考えて不満を持っている者は多かった。

 それが一気に変わってしまった。

 僅かなミュラー子爵の手腕を認める者も沈黙するしかなかった。





 正午ごろ、リモン公爵の軍陣に戻った。

 アベルは礼を述べる。


「リモン公爵様。あそこまで言っていただけるとは思いませんでした」

「元からいつか言ってやろうと考えていたまでのこと。時機だったというだけだ。別にお主のためではない」


 リッシュが一瞬の躊躇いをしたあと口にした。


「アベル。僕にはマティウスという名の兄がいる。立派な武将だったよ。けれど中央平原でコンラート皇子の命令に従って……結果は敵中孤立することになった。脱出するときに幼い頃から共に育った近習の騎士たちは全員死んでしまった。マティウス兄上は命拾いをして逃げ戻ってきたが……頭がおかしくなってしまった。昼間は意味不明な言葉を叫び、夜は涙を流し震えている。コンラート皇子にはせめて、臣下がどうやって戦っているのか心から理解してもらいたい……するべきだ」


 リモン家にもコンラート皇子に対するわだかまりがあったという事だ。

 アベルは自分がほんの僅か後押ししただけなのを知った。


「リッシュ。コンラート軍団の動きを見届けたら僕たちはまたハイワンド領に戻る」

「なっ! いくら何でも、そりゃ危険すぎる」


 アベルは真実を口にできない苦しみを飲み込んだ。

 ガイアケロンとハーディアは父王イズファヤートの命令に従って戦争を遂行しているにすぎない。

 仮に二人の内どちらかが王道国の最高権力者になれば、戦争は終結する可能性が高い。


 イズファヤート王が寿命、老衰で死ぬことはないとアベルは念じるように思う。

 ガイアケロンの憎しみと殺意が結実する日。

 現実となる。

 必ずだ。

 そのために命懸けで力を貸してやらねばならない……。


 しばらく軍陣で休んでいると、報せの早馬がやってきた。

 コンラート軍団が街道を進んで近づいてきているという報告だった。

 アベルはカチェの顔を見る。

 何も言わずに頷き、荷物を手にした。

 リモン公爵家の人々と手短に無事を祈るという挨拶を交わして、アベルは軍陣を出る。

 表で待っていたワルトと合流し、走り始めた。





お読みいただきありがとうございます。

次話未定です。

それでは。

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