作品が作る著者的手法の文学および創作
ふつうでなくともいいが、ふつう作品を作るとき、こういうものを作ろうと決めてからその計画通りに完成させるだろう。ラブコメだったらこういうヒロインがいて主人公がいて、こういう風にくっつくみたいな、物語の大筋が完成していて、こういうところが面白いポイントで、つまり山でみたいな。仮に名前を付けるなら設計型(創作)。仮と言ったが、調べて出てきた名前です。
私はむしろこれとは逆の手法を考えたい。著者が作品の意味を決めるのではなく、作品が意味を決めるのである。おいおい、コイツ何言ってるんだ? たしかに。
創作をしているのに自分で何を作っているのかわからずにする。意味不明。でも私が言っているのは、完全に感覚を頼りにしたものじゃない。例えるならなろう系である。半分はそう。予感である。
なろう系とはいわばテンプレであるが、異能は違う(最初は)。つまりこの能力があったらどうなる? と期待させる効果がある。ないかもしれんが。こういう人間がいたらどうなる? こういう世界ならどうなる? ナーロッパに宮本武蔵がいたらどうなる? そんな感じの期待、予感。
これは大味であるが、もっと無味の、いわば意味である。こうなるとなろう系とは離れる。そういう世界があったとき、そこに何の意味があるのか。これを著者が知らずに、とにかく完成させる。そして完成した後にわかるかもしれない。著者の予感で進める、予感ないし疑問ないし、静かな好奇心である。
一言で言うならば私が言っている手法とは――白紙が文字(意味)を彫る文学――である。気がする。
とりあえず手法を書く。
まず世界観を決定し、物語を決定する。なお物語に著者の思いは入っていない。というか自分でよくわかっていない状態。物語は著者の提案とそれに伴う合理的であろう世界構造によって行われ、物語の発展するであろう予感によって進んでいく。予感とはなんとなくというより、こういう世界ならこうなるだろうといった感じである。そこには人間と社会の構造、そこにある普遍的な理論がある。合っているかは知らんが、合っていると思うものが入る。できれば専門的な知識があった方がいいが、多分ない方が刺激的でしょう、知らん。
そのあとに著者は則って書くだけである。主人公の心情の変化はそのときに含める。私はさらにそこに主人公の仮説を要求する。そして世界が動く中でその答えを勝手に得るだろう。知らん。
つまりこの物語に意味はあるのか? と思いつつ、とりあえず書いて完成させることで、検証するような感じである。全く意味がないかもしれないが、意味がないことがわかるのも結果である。
それでこういう手法を何というのがしっくりくるか考えたが、実験的といっても著者は仮定しないし、してるとしてもこれは無意味だろうという感じだ。違うだろうこれは。かといって反意図的だとか、予感的だとかでもしっくりこない。物語自体は決まっているのだから。
書いてきた人たちならわかるだろう。今から何か書くとして、設定を考えて、でもこういう風にしかならないな。こういう意味を込めよう、、ではなく、何が書かれるかわかっていれば書かずとも意味がわかる、そのときに書く意味がないという感覚。わからなくてもべつにいいけど、自分はよくこれがある。
誰かが読むためにとか、売る為なら関係ないが、自分が作品を求めるとき、書かずともわかるなら書く必要はない。疲れるし。さらに言うと特に客観的で、論理的で、そういう風にしかならない、主人公が運命を変えるような話ではないとき、なんのテーゼもない。
ほんとうにないのだろうか、、というのを完成させることで求める手法である。一見、何の意味もないだろう物語であっても、完成させれば何か意味を持つかもしれないという予感を頼りに、自分自身ではなく作品に任せるのである。
放任文学? なんか嫌だな。




