夏の忘れもの
僕があの町に引っ越してきたのは、中学三年の夏だった。
海と山に囲まれた、小さな港町。
夜にはカエルの声が合唱のように響き、朝になると蝉の鳴き声が空気を震わせていた。
引っ越しは、これで四度目だった。慣れたふりをすることには、もう慣れていた。
新しい学校、新しい制服、新しいクラスメイト──すべてがいつものことのように感じられた。
だから、僕はその夏、「誰とも話さない」と決めていた。
またすぐどこかへ行く。だったら誰かと仲良くなっても意味なんてない。
名前を覚える必要も、思い出を作る意味も、ない。
でも、あの子の名前だけは、なぜか、忘れられない。
ユラ。
最初に名前を聞いたのは、登校初日だった。
教室の片隅の窓際、転校生の席。僕は黙って教科書を開いていた。
隣の席の子がちらちらと見てくるのがわかっていたけれど、無視することにした。
なのに彼女は、迷いもなく僕に話しかけてきた。
「ねえ、きみ、幽霊って信じる?」
唐突すぎて、思わず顔を上げてしまった。
彼女はにやっと笑って、麦わら帽子をくいっと持ち上げた。
帽子の下から覗いた大きな瞳は、まっすぐに僕を見ていた。
笑った顔なのに、どこか寂しげだった。
制服のスカートは少し短く、片方の靴の紐はほどけていた。
陽に焼けた頬が赤くて、まるで真夏の林檎のようだった。
「この町にはね、夏になるその間だけ現れる人間がいるって噂があるの。生きてるのか、死んでるのか、誰もわからないんだって」
彼女の声はどこか遠くから聞こえてくるようで、僕は思わず聞き返した。
「……なんだそれ」
でも、その言葉に、なぜか背筋がぞくりとした。
暑いはずなのに、腕の内側が鳥肌だった。
その人は、夏の間だけ町にいて、誰かと会い、何かを残し、そして夏が終わるとなにもかも消えてしまうのだという。
名前も、姿も、記録には残らない。
なのに、会った人は「たしかに会った」とだけ覚えている。
不思議で、どこか哀しい話だった。
「じゃあ、そいつに会ったら、どうなるんだよ?」
僕がそう聞くと、ユラは少し首をかしげて、言った。
「たぶん、忘れられちゃうんだと思う」
その一言に、胸がふっと締めつけられた。
忘れられることは、死ぬよりも寂しいことなんじゃないか、と思った。
それからの夏は、なぜかユラと一緒にいる時間が多くなった。
放課後の海岸。神社の石段。山へ続く細いトンネル。
夏休みに入っても、ユラは町のあちこちを案内してくれた。彼女の話す不思議な噂は、どれも荒唐無稽で、それでいて妙に本当のような気がした。
「この神社、夜中に来ると鳥居が反対側にあるんだよ」
「ここのお地蔵さん、毎日ひとつずつ場所が変わるの」
「港の灯台にはね、見えない郵便箱があるの。手紙を入れても、返事が届くって」
僕は次第に、この町が好きになっていった。
海の匂い。濃い緑の山。夕暮れの浜辺に伸びる影。
それ以上に、ユラのことを考える時間が増えていった。
彼女の声を聞くと、なぜか心が落ち着いた。
何気ない話でも、いままでのどの転校先より、深く胸に残った。
僕は、ユラが好きだった。
でも、それを伝えようとは思わなかった。
どうせ夏が終われば、僕はまたどこかへ行く。
だからせめて、この夏の間だけは、何も言わずにそばにいよう。
そう、決めていた。
八月の終わりが近づいたある日、ふと尋ねた。
「……この町から引っ越しても、連絡していい?」
ユラは少しだけ黙って、空を見上げ、それから僕の目を見た。
「私ね、たぶん、この夏が終わったら、いなくなるんだ」
僕の胸に、何か冷たいものが流れ込んだ。
「……どういう意味?」
彼女ははぐらかすように笑った。けれど、目だけは笑っていなかった。
「もし、来年の夏にまたこの町に来ることがあったら……灯台の上で待ってるね」
そう言って、彼女は走っていった。麦わら帽子が風に飛ばされそうになりながら、夕焼けの中に消えていった。
僕は、彼女の背中を、最後まで目で追っていた。
夏は終わった。
引っ越しの日、僕は校舎の裏でユラを探した。名前を呼んで、教室も覗いた。
けれど、どこにもいなかった。
出席簿には、ユラという名前はなかった。
担任に聞いても、そんな生徒は初めからいなかったと言われた。
だけど僕は、確かに彼女と過ごした。話して、笑って、歩いた。
ユラがくれた貝殻のネックレスだけが、手元に残っていた。
一年後。
僕は高校生になっていた。新しい制服、新しい友人、新しい日々。
それでも、あの夏のことは忘れられなかった。
どうしても、忘れたくなかった。
だから、僕はあの町へ戻った。
灯台の階段をのぼり、潮風が吹きつける高台のその場所に立った。
ユラはいなかった。
風だけが、僕の耳元でささやくように吹いていた。
やっぱり、幽霊だったのだろうか。幻だったのだろうか。
それとも、世界のほうが、彼女を“忘れて”しまったのか。
でも、灯台の手すりには、ひとつのものが置かれていた。
貝殻のネックレス。
僕がもらったものと、まったく同じ。
手に取ると、その貝殻の裏に、小さな文字が彫られていた。
「また、来年の夏に」
僕はそっとネックレスを握りしめた。
風が吹き抜ける。遠くで蝉の声がする。潮の香りが胸を満たす。
空は、どこまでも青く澄んでいた。
僕は、そっとつぶやいた。
「……うん。また、来年」
ユラは、たしかにこの夏を生きていた。
たとえ世界が忘れても、僕は、ずっと覚えている。