第二章 視線の隙間
人の心は、ほんの小さなきっかけで揺れるものだと思う。
毎日同じ景色を見て、同じ道を歩き、同じ電車に乗る。そんな繰り返しの中にも、ふと何かが変わる瞬間がある。それは、偶然目が合ったことだったり、ほんの少し違った匂いだったり、聞き慣れた音がなぜか今日は胸に沁みることだったりする。
私は昔から「変化」が少し怖かった。決まった場所、決まった時間、決まった自分。そこにいれば、心が安らぐ気がしていた。でも、そんな私の中にも、何かが変わってほしいという小さな願いがあったのだと思う。
この物語は、そんな“変化の兆し”に気づいたある朝の記憶。
誰にも言えないけれど、確かに胸に残った一瞬。言葉にするには拙くて、でも心の奥では何度も繰り返し思い出してしまう、そんな「視線の隙間」のお話。
たとえば、初めて誰かを意識した瞬間。
たとえば、自分の心の輪郭を感じた瞬間。
それは特別なことのようでいて、誰の中にもある、ありふれた一日かもしれない。けれど、そういう「ささやかな揺らぎ」こそが、私たちを少しずつ変えていくのだと信じている。
どうか、この小さな一瞬の物語に、あなたの記憶のどこかがふれることがあったなら、嬉しい。
朝の電車は、いつもと同じリズムで動いている。 ホームのざわめき、降り立つ人の足音、発車ベルの音。すべてが決まりきった日常の一部だった。
けれど、わたしにとっては違った。 今日の朝は、少しだけ特別な気配を帯びていた。
駅の階段を降りながら、胸がどきどきしているのに気づいた。わたしはいつも通り、二両目のドアの前に立つ。そっと車内へ入って、いつもの席へ向かう。
彼はすでにそこにいた。制服は違うけれど、同じ高校生のはず。膝の上に置かれた本をじっと見つめ、指でページをゆっくりめくっている。
わたしは息を整えて、そっと隣に座った。いつもの距離。ほんの少しの空間。だけど、その空間が、今日はとても重く感じた。
彼の視線がわたしの存在を追う気配はなかった。相変わらず、真剣に本の文字を追っている。
わたしも窓の外を見つめるふりをして、彼の顔をちらっと見る。
その瞬間だった。
彼が突然顔を上げ、わたしと目が合った。
息が止まりそうだった。目の奥に、驚きと戸惑いが見えた。わたしの心も同じだった。
その一瞬、時間が止まったみたいに感じられた。 電車の揺れも音も、全部消えてしまったようだった。
「……」
お互いに何かを言いたそうで、でも言えなくて。目だけが、ぎこちなく絡まり合っていた。
彼はほんの少し微笑んで、すぐに目をそらした。わたしも窓の外を見て、心の乱れを隠そうとした。
けれど、胸の内はざわざわしていた。まるで、小さな爆弾が爆発したみたいに。
数秒の出来事だったけれど、その瞬間がわたしの中で何度も繰り返される。
どうして目が合ったのだろう。 わたしは何を感じているのだろう。 彼はわたしをどう思っているのだろう。
問いは増えていくばかりで、答えはまだ見つからない。
車内アナウンスが次の駅を告げる。 わたしは胸の高鳴りを抑えながら、そっと本を取り出した。読みたい気持ちと、彼のことを考えたい気持ちが入り混じって、視線は文字に定まらない。
彼も本を閉じ、立ち上がった。いつもと同じように、彼は電車を降りていく。
その後ろ姿を見送ると、わたしはそっとため息をついた。
「また、明日」
心の中でそうつぶやいた。
翌朝、また同じ時間、同じ場所で彼に会えることだけを願って。
「第二章 視線の隙間」を読んでくださり、ありがとうございます。
この章を書きながら、自分自身の高校時代を思い出していました。通学電車、静かに流れる時間、名前も知らない誰かの存在が、ある日ふと気になってしまう。声をかけたことも、言葉を交わしたこともないけれど、その人の存在が自分の心の一部になっていくような感覚。
それは恋だったのか、ただの憧れだったのか、今でもうまく説明できません。でも確かに、あのときの自分は、彼の存在によって少しずつ変わっていったのです。
人は、何かを好きになるとき、必ず「視線」が生まれると思います。相手の気配を感じ、目で追い、その視線が交わった瞬間に心が動く。言葉にしなくても、目と目だけで交わる会話がある。そんな繊細な“間”を大切に描きたいと思いました。
本章の主人公も、まだ自分の気持ちに名前をつけることができていません。ただ、彼の存在が自分の中で大きくなっていることに、少しずつ気づき始めた段階です。これから彼女の中で何が変わっていくのか、それは彼との関係の中でどんな色を持つのか。書きながら、私自身も彼女の未来を見守るような気持ちになっています。
「日常の中に潜む、ほんのわずかな心の揺れ」
そんな一瞬のきらめきが、読み手の心の奥にも残ってくれたら――。
この作品が、あなた自身の「大切な誰か」との記憶をそっと呼び起こす、そんな存在になれたなら、本当に幸せです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
また、物語の続きでお会いしましょう。