あやかしひとつ
現世ってのは面倒ごとにあふれた場所で、どうも俺はそういったもんに好かれちまう性分らしい。そんなとこに入り浸ったところで、いいことなんてありゃしねえ。
ってなことで、あとひと眠り。また夢路を楽しむとするか。
「――さっさと起きんか!」
まどろみの中、老女のだみ声がこだましてきやがる。いいや、老女なんて上品なもんじゃねえ。例えるならオニババだ。これで町医だってのは、もはや怪奇の類だろう。
「ああ、うるせえなあ。朝っぱらから騒いでんじゃねえよ」
「朝っぱらだあ? 窓の外のお天道さんをよく見てみな。もう昼前だよ!」
まさにオニババの剣幕で、勢いよく布団を引っぺがされたと思ったら――。
「この居候が。働かざる者、食うべからず!」
ものの見事に長屋の外へと追い出されちまった。
◇
「あのババア。本当にメシを抜きやがって……」
今が昼だとすれば、朝を含めてまるまる二食が抜けている。これで働けってのが無理な話だ。そう思って、食い物にありつこうとあちこち回ってはみたが、どこもツケが先だと追い返される始末。
「まったく都は景気の悪いことで」
こうなったらしょうがねえ。その辺を探せばツクシくらいは生えているだろう。いや、あれはそのまま食えたっけか。
「――おっちゃん」
どこかで火を拝借するか……それならいっそカエルでもとっ捕まえて――。
「おっちゃんっ!」
うるさくわめく何かが着物の袖口を引っ張ってくる。視線を下に落としてみると、貧相な身なりのガキと目が合った。
「あ、ああ? おっちゃんって…………そいつは俺のことか? 何だ、このしつけのなってねえガキは」
「おっちゃんはおっちゃんだろ?」
「なわけあるか!」
「何でもいいや」
おまえが言ってきて何だその態度は。
「で、おっちゃん。見回りの仕事をやってるのか?」
「違う違う。じゃあな」
誠実に答えて通り過ぎようとしたが、しつこく目の前に回り込んできやがった。
「何だよ。嘘はついてねえぞ」
「刀を持ってる」
「ああ、こいつか。こいつはまあ……相棒だからな。持ち歩くのは癖みたいなもんだ。言っとくが、許可はあるからな。仕事で使う」
その仕事をやってるかどうかは別なんだが。
「仕事……。強いのか?」
「ああ? へ、そりゃな」
「ふうん……」
「何だよ、その失礼な目は。おまえがきいてきたんだろ」
これ以上は無駄に腹が減るだけだ。さっさとまいてやるかと思ったところで、また「おっちゃん」と失礼に声をかけてきやがる。
「だから――」
「強いってんなら俺に刀を教えてくれよ」
そりゃまた唐突な話だ。
「そんならどっかの道場にでも入ればいいだろ。懇切丁寧に教えてくれるぞ。刀の免状だってもらえるしな。ま、俺は通ったことねえんだけど」
「……そんな金ない。それに道場で教えてるのは人と試合する方法だ。知りたいのはそれじゃない」
人が相手ではない?
そいつを聞いてピンときた。
「あやかしか?」
案の定、うなずいてきやがった。よりにもよってだな。
あやかしってのは現世の外に生きるもの。普段は見ることすらできねえが、何かの拍子で獣なんかについたりすると、途端に化け物へと変わっちまう。
「やめとけ。ありゃ子供の遊びでどうにかなるもんじゃねえ。命を捨てるだけだ。親御さんはいるんだろ。苦労かけてんじゃねえよ」
「……父ちゃんはいない。殺された」
こいつは失敗した。仕事でもなくあやかしを狙う理由なんて、身内や友人のカタキと相場が決まってる。
思い出したのか、目に涙を浮かべて震え出しやがった。我慢しようとしているところは根性あると言いたいが、こういうのは放っておくと無茶をやらかすもんだ。本当に面倒なのに引っかかっちまった。
「わかったわかった。それじゃあ、何か食うもんを持ってきてくれ。今は腹が減ってしょうがねえんだ。食い終わったら、ちょっとだけ見てやるよ」
「本当か? 持ってくる。そこで待ってろよ。約束だからな!」
「ああ……って、足速えな」
何のめぐり合わせか、あやかし退治のことならよく知っている。が、そんなもんを教えるつもりはねえ。ちょいとばかし胸は痛むが、適当にあしらっておくか。どんだけ力が足りてないかを知れば、あのガキもあきらめてくれるだろうよ。
◇
そんなこんなで不格好なにぎり飯を二つ平らげた後、ぼろっちい竹刀を受け取って、適当な草っ原で手合いをしてやっているのだが……はっきり言って子供の腕だ。おとっさんが仕事で刀を使ってたらしく、その見よう見まねで振っているだけ。こんなんじゃ人間相手の喧嘩にだって勝てやしねえ。
「適当に振り回せばいいってもんじゃねえぞ」
打ち込みを軽くいなし、逆に額へと一撃を当ててやる。怪我のないよう加減してやっても、勢い余って勝手に転ばれる分はどうしようもねえ。
「もう一回!」
これでもう何度目か。ずいぶんと息を切らしちゃいるが、まだまだ続きそうだな。
「いったん休憩だ」
「そんなのいらない。まだまだ続けるぞ」
「たくさんやりゃ強くなるってもんじゃねえよ。休みながらどこが駄目だったか考えろ。頭を使うのも大事だからな。ほら、座れ座れ」
「……わかったよ」
それっぽい言葉で休ませることはできたが、思ってた以上の執念だ。この分だと、なかなかあきらめてくれそうにねえな。さてどうしたもんか。
「なあ」
「何だよ、おっちゃん。今考えてるんだ」
「じゃあしゃべりながら考えろ。おとっさんのカタキ、おまえじゃなきゃ駄目なのか? あやかし相手に番してるやつらもいるんだ。そいつらに任せりゃいいじゃねえか。何だったら俺から言っといてやろうか? 知り合いはいるからな」
「……いいよ。別にカタキを取るとかじゃないし」
「違うのか? だったら何であやかしなんかと」
そうきいてみると、なぜか黙り込んじまった。まずかったかと思っていると、ぽつりと言葉が漏れてくる。
「母ちゃんが、おかしくなったんだ」
「おっかさんが?」
「うん。父ちゃんが殺されてから、今度は俺が殺されるって毎日ビクビクして、変な神札とかたくさん集めたりして。夜なんて、あやかしが出ないよう寝ずにおまじないしてる。昼だって働いてるのに。この間は倒れて、なのにまだ無理して。俺やご近所さんが何を言っても聞いてくれない」
よほど思うところがあるのか、だんだんと語気が荒くなってきた。
「だから、見せてやるんだ。俺はあやかしなんかに負けないって。そうしたら、きっと元の母ちゃんに戻ってくれる」
他人の事情に口を挟むつもりはねえが、こりゃあきらめねえなってのは理解した。
「母ちゃんのためにも、早く強くなってやる。あいつ、まだ隣町にいるみたいだし」
あいつ――例のあやかしか。
隣町ならガキの足には遠くても、あやかしにとっては大したことねえ距離だ。こっちに来ちまうこともあるかもな。……にしても、妙だな。ここまで噂が届くってのに、何で退治されてねえんだ?
――ま、考えてもしょうがねえか。
「よし。そろそろ休憩は終わりにするか」
「わかった。次こそは当ててやる。おっちゃんくらいには勝てないと」
「へ、やってみな」
渡りかけた橋だ。稽古は真面目につけてやる。
それでも一朝一夕でどうにかなる話じゃねえ。おっかさんの件はババアにでも話してみるとしてだ、隣町のあやかしか――。
◇
あれからにぎり飯を対価に、数日ほどガキの稽古に付き合っているが、世辞にも才能があるとは言えず、ちょいと形になりかけた程度。多少は頭を使えるようになったが、あやかし相手には危なっかしい。おまけにおっかさんをご近所任せにできねえってんで、時間もあまり取れねえときたもんだ。わかっちゃいたが、こりゃ前途多難だな。
夕刻にはまだ早い時間。
今日の稽古も終わり、ババアに言われてた買い付けでもするかと大通りを歩いていると、ふと前方が祭りのような賑わいなのに気づいた。
嫌な予感――と思ったときには遅かった。
数人の袴集団の中央に見知った顔。その若い男が俺に気づいて、「お久しぶりです」と微笑んでから会釈をしてきた。
「うげっ。嫌なやつに会った」
「嫌だなんて。相変わらずつれないお方だ。ここでお会いしたのも何かの縁。せっかくですので、世間話でも楽しみましょう」
勝手にそんなことを決めたかと思うと、連れの男たちに「先に戻ってください」と伝え、またにこやかな顔を向けてきた。
「嫌なやつと言っただろ」
「あはは」
こいつは笑えば何でも流せると思っている節がある。面倒ごとの筆頭候補。さっさと離れるに限る――ってか、ついて来んな。
「おまえ、さっき宮廷の方に歩いてただろ。さっさと戻れ」
「少しくらいなら大丈夫ですよ。優秀な隊員に恵まれていますので」
「ああ、そうかい。さすが優秀な隊長さんは余裕があるねえ」
宮廷守護隊長の紋付羽織、それと相変わらずの色男ぶり。こんなのが一緒だと目立ってしょうがねえ。実際、道行く女どもから甲高い声がやまないが、他人に向かう分にはキーキーうるせえだけだ。
「人気があっていいことで。女の一人くらい俺にも紹介してくれよ」
「僕の尊敬ではいけませんか?」
「駄目に決まってんだろ……」
「それは残念です」
本当に残念そうに笑うんじゃねえ。相変わらず食えねえやつだ。
「それで、まだこちらに戻るつもりはないのですか?」
やっぱりこの話か。もうこいつにとって挨拶みたいなもんだな。
「戻るも何もねえよ。言ったはずだ。俺は追い出されたんだって」
「追い出させた、ではなくて? あの上とのいざこざも、僕はわざと起こしたものと思っています」
「そりゃ考えすぎだ」
「あはは。でしたら、戻れるように僕の方で手を回しますよ。それくらいの権限はありますから。雑多な仕事がお嫌いなら、いっそ僕の隊ということでどうでしょう?」
「勘弁してくれ……」
「好待遇なのですけどね」
何を言われても、宮廷になんか戻れるわけがねえんだ。さっさと話題を変えるか。
「そういや、隣町にあやかしが出たって聞いたぞ。仕事が甘えんじゃねえか?」
「……ええ。その件ですね」
それまでの笑みがふっと消える。
何だ? やけに深刻そうにするじゃねえか。
「気になりますか?」
「いいや。ちょいと耳に入っただけだ。何か問題でもあったか?」
「元人間のあやかしつきですよ」
「そいつは――」
あやかしってのは案外抵抗に弱く、めったなことで人間につきはしねえ。疫病や飢饉でもあれば別だが、そういうのは数が多いだけで大した被害もなく鎮圧できる。
問題は、わざとつかれるやつらだ。大抵は何らかの念でもってあやかしの力を強くする。
「数は一体だけのようですが、被害は見回りなどを含めて数十名に及びます。活動は主に夕刻から夜半にかけて。どうやら腕試しが目的のようですが、偽物の力でよくやるものです」
「おまえが行ってくりゃ片付く話だろ」
「それは難しいですね。僕は宮廷が優先です。こんなときだからこそ、都を留守にはできない。相手の活動が不定期なのも厄介なところです。……ちょうど手薄なときに。ですが、じきに各地から調査隊が戻ります。それで解決はするでしょう」
調査隊……あやかし専門のあいつらのことか? わざわざ待つってことは、こりゃ相当なやつみてえだな。
まさかあのガキの言ってたあやかしってのは――。
「例の日以来、こういった報告が増えています。……繰り返しになりますが、戻ってきてはもらえませんか?」
思わずぞくりとしそうになる視線。久々だな。こいつが普段笑っているのは、この顔を隠すためだとも思ってる。
「……ああ。戻らねえよ」
その返事を聞いているのかどうか、今度は腰に下げた相棒へと目を落としてくる。
「その刀。御子様のことはお嫌いでないようだ」
「こんな業物の代わり、庶民には手を出せねえってだけだ。返せと言われても返すつもりはねえな」
「ふふ。それでいいと思いますよ」
そう言うなり、急にその足が止まる。何だと思って振り向くと、またいつもの笑みを浮かべながら、じっとこっちを見つめてやがった。
「後ほど、依頼を届けさせます。気が向いたらお願いします」
「気が向いたら、な」
◇
「――何だよ、さっきからジロジロ見て」
「何でもねえさ。悪い癖がねえか見てやってるだけだ。いいから気にせず打ち込んでこい」
「ふうん」
今日も稽古をつけてやってはいるが、やはりあやかしとやり合えるほどじゃねえ。
「なあ。おまえの言ってた隣町のあやかしってどんなやつだ?」
「何でだよ」
「いいから答えろって」
「俺も見たわけじゃないよ。熊みたいなやつだって聞いた。あと人間みたいに刀を使うのは知ってる。父ちゃんに、そんな傷があったから」
人間みたいに、か。こりゃ間違いねえな。
「そいつはあきらめな。もうじき退治される」
「何でわかるんだよ」
「そういう事情に詳しいのがいてな。そいつから聞いたんだよ。宮廷から人を出すってさ」
「そっか……」
「おっと油断してんじゃねえぞ」
そう言って竹刀をポンっと額に当てようとしたのだが――。
「お?」
命中する手前で受け止められた。
「やるじゃねえか」
「へへ。もう何回もやられたからな。でも、まだ一発も当たんないや……」
「そいつはしょうがねえ。言ったろ? 俺は強えんだって。その俺の一撃を止めたんだから満足しとけよ。きりもいいし、休憩にするか」
思ったよりは成長しているのかもな。そんな風に感心していると、「なあ、おっちゃん」と柄にもなく神妙な声を出してきやがる。
「……俺、まだ勝てないよな」
「ああ、無理だな。そんな数日で強くなれりゃ苦労はねえよ。でも、カタキはいいんだろ? じっくり鍛えて、別のやつを退治すりゃいいじゃねえか。おっかさんの方も、ちょっとは落ち着いてきたって話だしな」
ババアの怪しげな薬も役に立つもんだ。
「うん……そうだよな」
歯切れの悪い返事だな。口ではカタキじゃねえと言っても、完全には割り切れてねえってとこか。だが、こればかりはな。
励ましってわけじゃねえが、肩に手を置いてやる――と、いきなり顔を上げてきやがった。
「おっちゃん、頼みがある」
「頼み? 何だよ、言ってみな」
「隣町のあいつ、おっちゃんが退治してくれないか?」
「俺が?」
そりゃどういう風の吹き回しだ。
「さっき言っただろ。放っといても退治される」
「いいや。おっちゃんがいいんだ。たぶんだけど、おっちゃんって本当にすごく強いだろ。あやかしのこともいろいろ知ってるし。だから、絶対に勝ってくれるって思うんだ。で、俺はそのおっちゃんより強くなってやる」
へえ、そういうことかい。
それにしても――。
「俺よりねえ。面白えこと言ってくれるじゃねえか」
「おっちゃんだけじゃないよ。知ってるか? 父ちゃんから、宮廷にすごいのがいるって聞いたことがある。そいつはどんなあやかしが相手でも絶対に負けないんだ。前に真っ暗な昼が来たことあったろ? そのときにたくさんのあやかしが出たらしいけど、ほとんどそいつ一人でやっつけたんだってさ。俺、そんくらい強くなってみせる。だから、頼むよ!」
……心意気は大したもんだ。
あやかし、か。相棒もうずいてやがる。手を出すつもりはなかったんだがな。
「へ、そうだなあ。そのあやかしが隣町からこっちに来たってんなら考えてやるよ。それまでに俺より強くなれるってとこを見せてみな。あと、退治のときはメシも追加だ。それでいいか?」
「わかった。約束だからな」
「約束を守んのはおまえもだぞ」
「もちろんだ。……あとさ、おっちゃんのこと、師匠って呼んでいいか?」
さすがに面食らっちまった。
師匠とはまたくすぐってえ呼び方だ。
「そいつは勘弁してくれよ。せめて弟子って呼べるくらいの腕前になってからだ」
「そっか。じゃあ、やっぱりおっちゃんかあ」
「いや――他にもあんだろ」
そうは言ってみたが、もうこの呼ばれ方にも慣れた。当面はこのままでいいさ。
「そんじゃあ、もっと厳しくやってやる。覚悟しとけよ」
「望むところだ――」
◇
あれから数日。まだあやかしについての動きはねえ。
夕暮れどきの薄暗くなった長屋で、寝そべりながらぼんやり相棒を片手に眺めていると、すぐ横からババアが薬をすり潰しながら声をかけてきた。
「ずいぶんと入れ込んでいるみたいじゃないか」
「何がだよ」
「それに付き合っているあの子のことさ。あんたが子供好きとは意外だったよ」
「他にやることがねえってだけだ」
「おや、そうなのかい? だったら仕事を増やしてやろうかね」
「うへえ……」
行燈の灯に照らされて、ババアの笑みがより凶悪に見えてきやがる。
「何でもいいさ。一日中ぐーたらしているよりはずっとね。身体を動かして気分も上向いてきたんじゃないか? ここんとこ朝も起きられてるしね」
「どうだろうな。そんなことよりメシはまだなのかよ」
「もう少し待ちな。これが片付いたら用意してやるよ」
「へいへい」
と、そのときだった。急に表が騒がしくなったと思っていると――。
「大変だ! ババ様はいるか? すぐに来ておくれ!」
大声を上げながら男が長屋に飛び込んできた。
いったい何だと思って眺めていると、ババアもいぶかしげに作業の手を止めて、男の方へと近寄っていく。
「大の男がそんなに慌てて、どうしたってんだい」
「つじ斬りだ! 何人かやられて……とにかく来てくんなよ! 子供もいるんだ」
子供……?
ふと嫌な予感がした。そういうのは案外よく当たっちまうもんで、ババアと一緒に足を運んだ先で倒れていたのはあのガキだった。夕空が霞むほど地面が真っ赤に染まり、折れた竹刀まで浸してやがる。
「子供でも容赦なしかい。ひどいもんだねえ」
あやかしに関わっていれば、こういう場面は珍しくもねえ。だからなのか、妙なほどに心の中はだんまりで、現場がくっきりと見えてくる。
ガキのすぐ傍。ひざまずき、すがるように泣いているのはおっかさんだろう。荒れた髪や肌を見れば、どんな生き方をしているのかくらいはわかる。その背中でわめくのは、弟か妹かもわからないほどの赤ん坊。
なるほどな。こいつはどうにも頼りねえ。自分がと思っちまうわけだ。
「隣町のやつらしいぞ。人相書きの大男だって」
「あの噂の……。ま、まだ近くに?」
「それが暴れ終えたらどっかに消えたとか――」
ああ、そうかい。つい挑んじまったってわけか。
…………どうしてだよ。俺に任せるって話だったろ。一丁前に、俺も頼りなかったとでも言うつもりかよ。
何とも言えねえほど後味の悪い気分になったそのとき、ふと視界の端にひらひらとするものが入ってきた。
あれは――。
「ババア」
「何だい?」
「宮廷から仕事、来てなかったか?」
「おや。珍しくやる気だね。同情でもしたのかい?」
「そんなんじゃねえよ」
それだけ言ってから足を進め、地面から米粒のこびりついた包みを拾い上げた。
「断れなくなっちまっただけだ」
◇
真夜中ってのはあやかしの時間だ。水辺はあの世とつながって、つかれた虫どもが薄気味悪く鳴きやがる。
こんな真っ暗なのを好むとは何とも悪趣味なやつらだが、ちょうどいいことに今宵は満月。灯りを持たずとも勝手に視界を照らしてくれて、おかげで橋の向こう側から渡ってくる人影がよく見える。
ひたひたと足音が近づいて、すぐ目の前――ちょうど橋の真ん中に差し掛かったところで止まった。
「追いはぎか?」
余裕しゃくしゃくに問いかけてくるのは、中肉中背、見るからに青二才といった男。大小の刀や身なりのよさから、それなりの家の者だと見て取れる。人相書きとは似ても似つかねえが、本能を逆なでするような独特の気配に、血の臭い――。
「追いはぎ? そいつはおまえのことだろ。ずいぶんと暴れたみてえだな、このあやかしが」
「おや。はは、まいったな。見られていたか。うまく隠れたつもりだったが」
「認めるってわけだ」
「追いはぎはしておらんよ。追いはぎはな」
尊大で含みを持たせた物言いに不敵な笑い。半端に自信をつけたやつらによく見るもんだ。
「いいや、盗ったさ。ガキからにぎり飯をな」
「ああ、あれのことか。わけあって勘当された身でね、小腹が空いていたんだ。大してうまくはなかったが、腹の足しにはなってくれた」
「……なあ、一つきかせてくれよ。どうして斬った?」
「理由?」
くつくつと笑う声が、耳障りでしょうがねえ。
「さてなあ。何となくだ、何となく。弱かったのが悪い。けれども、毎度のように騒ぐ連中を眺めるのは愉快だった。それが見たかったのかもしれないな」
「わかった。もういいや。そんじゃ、そろそろ正体を見せてみやがれ」
「物好きなやつだ。急がずともよいものを――」
鼻で笑って着物をはだけた次の瞬間、その身体が色を濃くしながらみるみる膨らんで、見上げるほどの巨漢に変わった。全身は筋肉でひしめき、頭には角らしき二本の突起。おそらくは鬼の類か、何にしても人相書きとも一致した。
「へ、見た目は大層なもんだ。それでやることが弱い者いじめってのは情けねえ話だがな。性根は小物のままってわけか」
「……小物?」
野太くなった声がわずかに震えた。
「ふん、強がりにしては口が過ぎる。それに弱い者いじめとは心外だ。どいつもこいつもまるで相手にならない。この力、このわたしが強いのだ」
ニタリと誇らしげな笑みを見せつけてくるのはいいが、そういうところが小物っぽくてしょうがねえ。卑屈から力を求めたってとこだろうが、こんな挑発に乗っかるようじゃあ意味ねえだろ。
「ま、弱い者いじめに関しちゃ俺も人のことは言えねえよ。散々やったクチだからなあ。数百だったか、数千だったか、あやかしのことなんざ覚えちゃいねえや。……だがな、しっぺ返しってのはあるもんだ。つい斬りすぎちまってな、気づけば相棒がつかれちまった。うっかり人前で抜けやしねえ」
腰の鞘に手をかけ、ゆっくりと抜いた刀身が脈を打つ。
「満月でよかったな。こいつの機嫌は悪くねえ」
「その刀――つきものか」
「因果な人生。この手に残るはあやかしひとつ。まったく面倒なもんで困っちまうよ。かかってきな。黄泉の手向けに、思いっきり戦わせてやるよ。それとも小物らしく逃げるのか?」
「小物…………まだ言うかッ!」
どうやら相当カンに障ったらしく、巨体には不釣り合いとなった刀を抜いて、勢いよく斬りかかってきやがった。月の光を散らしながら、次から次へと風の音が鳴り響く。その剣筋に型らしきものは見られるが、あまりに稚拙だ。
「どうした? 振り回すだけじゃ当たんねえぞ」
「く……すばしっこいやつめ」
力任せに振り下ろされた刀が、勢い余って木造の欄干をへし折った。怪力だけは大したもんだが、それが通用するのは、あやかし慣れしてねえ連中までだ。
「は、はは。見ろ。当たればこうなる……こうなるのだ!」
「とんだ鳥頭だな。当たらねえと言ったんだ。少しは頭を使えねえのか」
「黙れ!」
「おっと」
大振りな一撃をかわして距離を取る。
「自慢の力ってやつを楽しめてるか?」
「見下しおって……おまえこそ、先ほどから刀を使えておらん。避けるのに精一杯ではないか!」
「へえ。仕舞いを望むってわけか」
「ああ、そうだ。おまえを斬って仕舞いにしてやる!」
「そりゃ無理だ。あきらめな」
「おのれ――」
どれだけ斬りかかろうが、当たらねえもんは当たらねえ。おまけに感情任せに動くもんだから、あちこち隙だらけだ。
「もう見えちまった」
「何が――ッ!?」
「おまえの死に方だ」
上体が下がったところに踏み込み、胸元へと一太刀。生臭い返り血が噴き出して、その先――心臓のあった場所にはぽっかりと穴が空いていた。食われちまったか。
「ご、がが…………」
「あの世へ行って斬られてこい」
それが聞こえているのかいないのか、声の代わりに血の泡を吐きながら、ドサッと倒れて動かなくなっちまった。
◇
「――いやあ、ご苦労様です。相変わらずの腕前のようで」
朝っぱらから、にこやかな声が長屋に飛び込んでくる。わざわざ袴集団まで引き連れやがって。こっちは寝てたってのに、表がうるさくてしょうがねえ。
「おや、どうかしましたか? そんなふてくされたみたいに。報酬にご不満でしたらお聞きしますよ」
「ねえよ、そんなもん。どうせツケで消えるんだ。ババアにでも渡しといてくれ。悪いが、今日は話す気分じゃねえ。用がねえなら帰れ帰れ」
そう言ってごろっと背を向けたのだが、「なるほど」とわざわざ近くに座ってきやがる。何がなるほど、だ。相変わらず人の話を聞きやしねえ。
「それでは不在のようですし、少し待たせてもらいましょう」
「今度でいいだろ……」
こいつ本当は暇なんじゃねえのか。
「それに、お聞きしたいこともありまして」
「ああ? 聞きたいこと? いったい何だよ」
「もう一体いませんでしたか?」
声色が変わった。振り向くまでもなく、どんな顔をしているかはわかる。
「……何がだよ」
「もちろんあやかしですよ。昨夜のあやかしは確かに依頼したもので間違いありません。ですが、その死骸に食い散らかされたような跡がありました」
「野犬にでも食われたんだろ。俺は見てねえよ」
「ふむ、そうですか。……まあ、見かけていたら退治しているでしょうしね」
「そういうことだ。さあ、終わったなら帰ってくれ」
「あはは。つれないお方だ」
「……おまえな」
と、そこにババアが外から戻ってきた。
「何だい、何だい。表も中も男ばかりでむさ苦しいねえ」
「枯れたオニババが何を言ってんだ」
「あはは。お邪魔しています」
そんな話を気にする様子もなく、ババアは風呂敷に包んだ荷物を床に下して肩やら叩き始めた。
「こんな朝っぱらから、どこへ行ってたんだよ」
「そりゃ仕事だよ。まったく忙しいったらありゃしないね」
「景気のいいことで」
そのままひと眠りしようとしたところで、ババアまでこっちに歩いてきやがった。起きろと怒鳴ってくるのかと思っていたら、「ほらよ」と何かを差し出してくる。
「こいつをもらったよ」
「何だそりゃ?」
「次の稽古代だとさ」
見覚えのある包みにはっとする。起き上がり、受け取ってから開いてみると、そこには不格好なにぎり飯が二つ並んでいた。
……そういや、面倒ごとには好かれるんだったな。
「ああ、もらっとくよ。ちょうど腹が減ってたところだ」