貴族の教養
家庭教師をつけて間もない頃の話。ここしばらく雨が続いていて、道路が渋滞してオフィスに向かうのに時間がかかるという理由で、珀は家で仕事をしている。珀曰く、雨の日は鬱々とした気分にはなるが、琴葉と一緒にいられるだけでそんな気分も吹き飛んでしまうとのこと。相変わらず琴葉には甘い。
その琴葉はというと、珀の執務室で珀にコーヒーを淹れたり、自室で貴族教育のテキストを読んだり、ピアノを弾いたりして過ごしている。
ある日、朝食の時、珀が急にこんなことを言い出した。
「琴葉、お前が弾くピアノを聴いてみたいんだが、今日防音室に行ってもいいか?」
琴葉はあたふたしてしまう。これまで、人に聴かせる目的で練習をしたことはなかったからだ。ただ、玄と鈴葉の気を逆撫でることがないように弾くことだけを考えてきた。それを聴かせてくれ、と言われて、どうしたらいいかわからない。
「で、ですが、人に聴かせるようなものでは……。ましてや、貴族の方は教養として音楽を学ぶのですよね?ならば、私のピアノなどお耳汚しでしか……。」
「教養とはいえ、基本だけだ。俺は琴葉の音が聴きたいんだ、だめだろうか。」
困った顔でそう言われてしまうと、琴葉も断れない。この人は本当に、琴葉にだけは表情豊かだ。
※ ※ ※
そんなこんなで、今、防音室には珀と琴葉と……なぜか隼人がいる。珀が防音室から閉め出そうとしたが、秘書だからついていくと言って聞かなかった。秘書とピアノに何の関係があるというのだろう。
緊張で心臓が口から出そうだ。いつも珀の言葉や表情がきっかけで感じる胸の昂りとは違う、失望されたらどうしよう、失敗してはいけない、というネガティブな緊張だ。
でも、不思議と嫌な気持ちはしない。フラッシュバックも起きなさそうだ。きっと、珀の雰囲気がそうさせるのだろう。
昨日練習していた曲の楽譜がそのまま置いてある。最初に弾くにしては運指が細やかな曲だが、昨日の感覚が残っていることだし、その曲を弾くことにした。
琴葉は深呼吸をして指をそっと鍵盤の上に乗せ、右足をペダルの上に置いた。
左手のスタッカート。右手の16部音符。小節の最後にやってくる力強い8部音符二つ。切なく儚いメロディと繊細な和音。ベートーヴェンが慕っていた女性に送ったとされる曲。
そう、「月光 第3楽章」である。
「月光」という題名は後からつけられたものだそうだが、確かにメロディから黒と青紫の中間の夜空に浮かぶ月のような印象を受ける。きっとベートーヴェンにとってはその女性が月のような存在だったのだろう。
珀のような存在だと、なんとなく思った。珀は琴葉を救ってくれたヒーローであることは間違いない。だが、だからといって太陽とは少し違う気がする。もっと、こう静寂の中に佇む美しい光のようなイメージ。
フラッシュバックは起こらなかった。背景を考えつつ、そこに自分の珀へのイメージを乗せて弾くうちに、夢中になって気づいたら終止線に辿り着いていた。
達成感に包まれて手を鍵盤から離すと、2人の拍手が聞こえてきた。
「すごいな。ミスタッチが全くなかった。それなのに、機械的なわけじゃなく、感情がこもっている。」
「ええ。コンサートに来ている気分です。」
「そ、そんな……。私の演奏にそこまでの価値などございません!」
珀がこちらに近づいてきて、さらりと琴葉の指に触れる。
「この小さな手であれだけの曲を弾きこなすとは……。俺の愛する人はどこまでも魅力的なのだな。」
褒められて照れてしまう。八重樫先生に褒められた時とはまた違う、舞い上がってしまいそうな喜びを感じた。
しばらく珀が琴葉の手を弄ぶ。端正な顔が目の前にあって、どうしてもドキドキしてしまう。何度見ても慣れないものは慣れない。
「珀、琴葉ちゃんに珀の演奏も聴かせてあげなよ!」
いちゃつく2人を見かねてか、隼人が揶揄うように言う。
「俺が弾いても意味ないだろう。」
琴葉は興味を惹かれて弾かれたように顔を上げた。
「弾いてくださるのですか?私、珀様の音を聴いてみたいです!」
朝の珀の言葉を踏襲する。珀が驚いたような顔をして、固まった。
「お、お前……。わかった、弾こう。」
観念したようにそう言う珀。琴葉が少し我儘を言い過ぎただろうか、と縮こまると、珀は困ったように微笑んだ。
「そんな顔するな。少し、照れくさかっただけだ。」
珀は棚から楽譜を取ると、ピアノ椅子に腰かける。琴葉と比べてだいぶ身長が高いため、高さが合わずしばらく調整していた。琴葉は隼人の近くへ向かおうとしたが、珀に譜めくりをやってくれと言われ、ピアノの横に残る。
少し溜めてから、珀が音を紡ぎ始めた。4分の3拍子に堂々としたメロディが乗る。右手が右に動くごとに左に広がっていく左手。珀の存在感が大きく感じられる。長めの音符に力を乗せる姿は真剣で、かっこよかった。
ショパンの「軍隊ポロネーズ」である。
琴葉は呆けて、譜めくりを忘れそうになるくらい珀に見惚れた。一体どこまで完璧なのだろうか。珀が外でピアノを弾いたら、その場にいる女性が全員、いや男性までもが当てられて失神してしまうのではないか。
一方で隼人はニヤニヤしながら頷いている。
最初のメロディに戻る。堂々と、でも落ち着きを保ちながら弾き終えて、珀が鍵盤から手を離した。
「か、かっこいいです……。これでは、私が下手なのが露呈しただけではございませんか… …。」
「「それは絶対にない。」ありません。」
珀と隼人がハモる。珀はかっこいいと言われてさも嬉しそうに口角を上げた。
琴葉がしばらく珀の音の余韻に浸っていると、珀が隼人の方に視線を向ける。何かを察した隼人が、では私はこれで、なんて言って防音室を出ていこうとした。が、しかし、珀に止められる。
「おい、お前、人に弾かせておいて自分が弾かないとか言わないよな?」
ニヤリとする珀に、げ!と声が出てしまう隼人。
「いやいや、私のピアノなんてそれこそお耳汚しですから……。」
「弾け。」
「……はい。」
いつも通りのやり取りに、琴葉は思わずクスクスと笑った。珀と交代で隼人がピアノ椅子に座る。珀より少しだけ身長が低いので、高さを少し調整を入れた。中性的で整った顔立ちは、ピアノの前に座るとより儚く、美しく見える。
隼人は、少しの間目を閉じてから、弾き始めた。左手が6連符を奏でる。そこに右手の16分音符が入ってくる。繊細で儚い音の連なりに、普段とのギャップを感じる。
珀のピアノは力強く、かつ繊細さを残した音を鳴らすが、隼人はどこまでも繊細一筋という感じだ。滑らかで透明感のある、触れたら壊れてしまいそうな音。
曲が終わると、しばらく余韻に浸ってしまった。隼人が反応がないことに少し悲しそうな顔をし始める。
「あ、あの!とっても繊細で美しい音色でした。隼人様もお上手なのですね!意外です。」
隼人がドヤ顔をしたところで、珀が琴葉を後ろから抱きしめる。
「隼人なんか褒めるな。俺だけ見ていろ。」
嫉妬した珀は隼人を押しのけてもう一度ピアノの前に向かった。勢いをつけて弾き始める。最初の力強い左手の音にピンとくる。
またショパンの、今度は「英雄ポロネーズ」だ。2人してショパンが好きなのだろうか。琴葉も、ピアニストではショパンが最も尊敬できる。そのうえ、中でも「英雄ポロネーズ」が一番好きな曲であるため、思わず顔が綻ぶ。
相当難易度の高い曲だが、平然と弾きこなす珀。左手のオクターブ連打も何のそのといった感じで。華麗に鍵盤の上を踊る大きな手。血管が浮き出ていて、細かい動きをするたびに腕の筋肉に力が入るのが見える。
思わず見惚れてしまう。珀だけ別の次元に生きているかのような、そんな感覚になる。
最後の和音の余韻が消える。
「貴族の教養ってこのレベルなのですか……?貴族はみな、英雄ポロネーズが弾けるのでしょうか……?」
「琴葉様、珀様は特別な存在です。基本、貴族は教養として音楽の基礎を学びますが、ピアノをまともに弾ける人などそこまで多くはございません。コンサートなどで感想を述べられるように、多少勉強するくらいが一般的です。」
「で、ですが、隼人様も難しい曲を弾いていたではありませんか!」
「珀様にお仕えする身として、当然のことでございます。」
「バカ言え。お前は一番貴族教養の中で音楽が一番得意だったから、今日も自慢したくてここに来たんだろう。さっきは帰りたがる演技までしやがって。それに、琴葉に近づくな。」
珀が割り込んできた。嫉妬が顔に出ている。切長の赤い瞳は鋭く隼人を睨んでいた。琴葉はくすりと笑って感想を述べる。
「珀様。本当にお上手でした……。もう、どう言葉にすればいいか……。私、『英雄ポロネーズ』が一番好きなのです。その曲を、あんな風に堂々と、でも繊細に弾いていただいて、それを聴けた私は世界一幸せです。」
「お前にそう言ってもらえると嬉しいな。ありがとう。お前は音楽が好きなんだな。」
少し照れたように笑う珀。音楽が好き、という言葉に驚いて琴葉は固まってしまった。これまで、音楽のレッスンは地獄だった。でも、それでも、自分は音楽を愛している。このとき初めて、琴葉はレッスンと音楽そのものを切り離すことができたのだった。
「ええ、そのようです。」
それ以降、珀はたまに琴葉の練習を聴きに来ては、自分もたまにピアノを弾くようになった。どうやら、宝条家次期当主も、婚約者にはベタ褒めされたいらしい。