表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

諦めろよ、ロックンローラー


 1


 ヘイヴとジークは都市の一角に建つ、築五十年のボロアパートで酒を交わしていた。

「お前さ、もうそろそろ『ジーク』なんて名前で呼ぶのをやめろよ。もう三十だぞ?」

 ジークがヘイヴに向けて言った。自分より二十年も先に生まれたこのアパートは、ひっきりなしにネズミが現れている。それこそまるで、有名メタルバンドが路上ライブを決行した時のように。それに呆れて、ジークは溜息をついた。

「しかもまだボロアパートにまだ住んでやがる。そろそろ就職してマシな家に住んだらどうだ」

 ジークの右手には『大塚彰浩』と書かれた封筒が握られていた。「『ヘイヴ』。いや、大塚彰浩。もうそろそろ、夢をあきらめるときが来たんじゃないか」

 彼の後ろには埃のかぶってない大きなギターとアンプが置かれていた。そしてその前で、彼は土曜日の昼間から缶ビールを煽って威勢よく声を荒らげている。

「うるせえ、俺はまだ機会が訪れてないだけなんだよ。まだ諦めるときじゃない。俺は絶対、バンドを成功させて一発逆転を狙うのさ」

 彼は六畳にも満たない部屋で夢を語った。蜘蛛とネズミがオーディエンスとして現れ、彼の周りに集まっていた。大塚彰浩もといヘイヴは、ネズミを見てもなにも反応しなかった。


   2


 ジークは大きなため息をついた。

「お前さ、十八からバンドやるって言いだして、それで鳴かず飛ばずで三十まできたじゃねえか。親泣いてるぞ?」

 ヘイヴは大きな舌打ちをしながら、空になった缶ビールをゴミ箱めがけて投げつけた。

「うるせえな。親なんか知らねえよ。俺は絶対売れる。それがロックンローラーだからだ。夢を諦めて社会の歯車となったジークには分からないだろうね。社会に順応した家畜さん」

「親もお前のことを忘れたいだろうさ、ロックンローラー。俺たち人間様は、お前みたいな蟻ん子の威嚇なんぞ眼中にすらないのさ」

「何とでも言うがいいさ。社会の犬。俺は生きている限り、この魂が尽きぬ限り、この鬱屈とした社会に反抗の狼煙を上げるのさ。そして、いつか俺の時代が来るんだ」

煙草を吸いながら、ロックンローラーは言った。じっと彼の言葉を聞いていたジークは、ふっと息を零した。ぽつり、こんな言葉を添えて。

「時代は俺に遅れてるって言うが、時代はお前を必要としていないがな」

 時が止まる。ヘイヴは呼吸を忘れて立ち尽くす。ジークは、その顔に静かにニヤツいた。


   3


 家の畳は貧相なくせに、ヘイヴは缶ビールだけは一丁前に揃えていた。どんどんと缶を開けるヘイヴを横に、ジークは口を開いた。

「そういえば、ロックンローラー。最近新曲は書いたのか?」

 新曲。その香ばしい二文字に、ヘイヴは餌を与えられたハイエナのように喰らいついた。

「当たり前だぜ、社会の歯車。俺の魂籠ったベスト・マイ・ソング。ぜひ初めてはおまえに聞かせてやりたいさ」

「そうかい」ジークが呆れてる横で、彼は突然立ち上がり後ろにあるギターを手に取った。

「さあ、聴いてくれ。『ラスト・マイ・ソング』」

 大学生のように眩い茶髪をなびかせながら、ヘイヴは懸命に歌った。

「俺の心に火が付いた~零れ落ちた君のソウルに共鳴する~『何がしたい?』『何もしたくない』そんな言葉じゃ~誰も、この世は、救ってくれない~なんて哀れな世界なんだ、絶望に溢れて涙する~」

 歌い終わってロックンローラーは汗を流し、それをジークはぼうっと見ていた。

「お前とバンドを組まなかった当時の俺を褒めてやりたいよ」

「うるさい、いつかは日の目を浴びるときが来るんだ。この曲はな」


   4


 ヘイヴは毛玉だらけの座椅子に威勢よく座ると、安物の机を拳で叩いた。

「俺は絶対諦めねえ。どれだけ無名でいようとも、社会に、この世界に、俺は反抗し続ける。そして、いつか有名になって見せる。それがロックンローラーの生き様ってもんだ」

 彼がそう口にした瞬間、ジークは聞く人全てを不機嫌にさせる溜息をついた。

「お前、本当すぐそう言うよな。『社会が嫌いだ』『世界は敵だ』ってうだうだ言うくせに、自分は有名になって社会に認められたいもんな。言ってることとやってること、全く正反対だぜ」

 彼の言葉が、静寂な部屋にむなしく響いた。

「……やってみなきゃ、分からないだろ」彼の夢の規模とは反対に、その声は小さかった。

「分かるさ。それで売れなかったから、お前はこの歳になってもこんなボロアパートに住み続けているんだろ。諦めろよ、ロックンローラー」

 ジークの厳しい追及がぽつぽつと続く。ヘイヴは顔を背け、苛立ちを机にこめた。

「……俺は、絶対諦めないさ。それが、ロックンローラーなんだから……!」

 煙草のケースを握りつぶしながら、苦虫を食いつぶすように唇を嚙みしめた。


   5


 昼飯を目の前で取り上げられた犬のような悲しそうな顔をしているヘイヴを見て、さすがのジークも同情心というものが湧いて出た。

「なんだ、すまんな。強く言って。ジュースでも奢ってやるよ」

 ヘイヴはそれにつられたのか、下がりきった口角をほんの少しだけ上げて答えた。

「すまないな……ありがとう。炭酸飲料が飲みたい」

「少し待ってろ、今すぐに買ってくるからさ」

 ジークは机の上にある財布を手に取ると、元気よく玄関へ突き進んだ。ヘイヴは彼が家を出る寸前までを見送った後、蜘蛛の巣が張り巡らされている天井を仰いだ。

「俺だって、いつか絶対売れてやるんだ。俺には絶対に表現の才能があるんだ! 諦めないさ、ロックンローラー。俺が俺である限り、音楽をやめるつもりはないのさ」

 彼の崇拝しているバンドには一つ、名言があった。「努力をする奴は必ず報われる」苦労があれば必ず、ヘイヴはその言葉に縋りついていた。俺は絶対成功する。ヘイヴは自分を励ますようにその言葉を口にしながら、自分の家に住まう蜘蛛を睨みつけていた。


   6


「ライブをするぞ」

 あくる日、ヘイヴはジークを呼ぶと高らかにそう宣言した。

「頭がおかしいのか?」

 ジークは得意の溜息をつきながら、彼の思いつきに返事をした。集合場所は居酒屋でもライブスタジオでもなんでもなく、地震のたびに柱がきしむ築五十年のアパートだった。

「ライブをして、スカウトの目に留まる。俺の才能があるなら、きっと余裕なはずだ」

「果たして本当にそう上手くいくだろうか」

「今の俺には、これしかないんだ……逆転の狼煙を上げる方法はな」

 ジークがどう何を口にしようとも、思いついた彼を止めることはできなかった。ヘイヴの目には自分がライブをして成功し、スカウトの目に留まってメジャーデビューを果たすまでの道のりが浮かんでいた。

「俺ならきっと、ライブを成功に導ける」

 座っていられなくなって、ヘイヴはエアーでギターを弾き始めた。

「お前も来てくれ。俺のターニングポイントを」

 ジークは彼の言葉を黙って聞いていた。そして、当日を迎えた。


   7


 ライブ当日、ヘイヴは緊張のあまり、貧乏ゆすりを激しくしていた。

「なあ、ジーク」ヘイヴは気分を紛らわそうと、彼に声をかけた。

「どうしたんだ?」

 結局ジークはライブチケットを買わされ、上司に頭を下げて有給休暇を取ってから楽屋に立っていた。次の出勤で叱られることを考えると、憂鬱で仕方なかった。

「きっと伝説のライブになるぜ。なぜなら、ここからプロデビューするのだから」

 ジークは溜息をつき観客席へ戻った。それと同時に、開演の時刻がきた。

 結果は、失敗だった。

 ギターの音と共にステージに現れたヘイヴの視界には、ジークたった一人しか映っていなかった。三十路のライブで観客一人。スカウトなんているはずもなかった。ヘイヴは必死になって探したが、スーツを着てメモを取る人間などいるはずもなかった。

 空虚なライブハウスに、形だけの音楽が鳴り響く。

「これが俺の、ロックンロールなのか……?」

 ヘイヴは足元が崩れ落ちるような不安を抱いた。膝が泣き叫んでいた。ポケットに入れっぱなしの煙草が義務的な演奏に合わせて上下に揺れていた。聴く人もいない、感動する人もいない。それがヘイヴのロックンロールで、魂を込めた曲の数々だった。

 ライブ終了後、たった一人の観客がうなだれているヘイヴに話しかけた。

「これで分かっただろう? まともに練習してない奴がいきなり成果を上げることなんてできねえんだよ。それをできるのは天才だけだって言うけどな、そういうやつに限って基礎がガチガチに固まってるんだよ。自分は行ける、と勘違いして基礎を疎かに成果を狙うやつは天才じゃねえ。それは怠惰っていうヤツなのさ」

 ヘイヴは必死になって反論の言葉を探したが、見つかったのはポケットに入った煙草ケースだけだった。もう残り二本となったケースから、一本を抜いて火をつけた。

「だが、諦めない。いつかはチャンスをつかむのさ。こうしてライブを続けていれば、いつかはスカウトがやってきて俺を適切に評価してくれる」

 彼がそう呟いた言葉を、ジークは遮るようにして断ち切った。

「お前、努力と他力本願を間違えるなよ。それは努力じゃない。他力本願って言うんだ」

 ライブハウスに低く鋭い声が飛ぶ。それは豆腐にレイピアが突き刺さるように、ヘイヴの柔らかくなった精神に深く刺さった。

「うるさいな、俺はロックンローラー。何があっても諦めないのさ……!」

 力が無い。まるでヘイヴの社会的立場のように、それは弱弱しく流れた……。


   8


 次にジークが彼の家の扉を開くと、たちまちギターが鳴り響く音に包まれた。

「どうしたんだ、この騒音は。救急車にカラスが乗っているのか?」

 ジークの尋ねた質問に、ヘイヴはさぞ褒めてほしそうな顔をして言った。

「新曲を作っているのさ」

 つい先日の衝撃を忘れているような平和な声だった。昔から、ヘイヴは一度寝たらどんな屈辱も挫折も忘れてしまう男だった。それが良い方向に働くこともあったが、たいていの場合悪い方向へと進んでしまうものだった。

「ギターの練習はどうしたんだ?」

「たまにはしてるさ、今はロックンロールの神が舞い降りてきたんだ。『作曲をしろ』とな」

 ヘイヴは動画サイトで聴いたことがあるようなメロディーを歌い、それを楽譜に書いていた。

「よし、オリジナリティにあふれたサウンドが出来上がったぞ。ジーク、今から俺のゴッド・メロディーを耳にするか? これで次こそ注目を浴びて、俺は世界的な人間になってやるのさ」

 ジークは黙ってその話を聞きながら、適当なリズムを口ずさんだ。「ラララ、ラ、ララ」何も考えずに出たメロディーは、うろ覚えで昨日聴いた曲を奏でていた。そして同時に、やっぱり彼の新曲はヒットしないだろうな、と直感した。


   9


「そもそもだ」作曲を続けるヘイヴに、彼は素朴な疑問を投げかけた。

「どうしてそんなに、お前はロックンローラーに憧れてるんだ」

 突然の直球な質問に、ヘイヴはきょとんとした顔で彼の方を見た。そして、首を傾げた。

「そんなに不思議に思わないでくれ、気になったんだよ」

 ヘイヴは首を傾げたまま、ズボンから煙草のケースを取り出して開いた。

「そんなもの決まってるだろ。カッコイイからだよ。そして、諦められないからだよ」

 ヘイヴはそう言い放つと煙草をふかして部屋に煙を充満させる。

 なるほどな、ジークは心の内で納得しながら、頭に浮かんだものとは別の言葉を口にする。

「動機が中学生だな」

「仕方ないだろ、中学の時に志したのだから。それを言うならジーク、お前もじゃないのか?」

「さあ、どうだったかな」彼は窓を見ながら適当なことを言った。「だが、バンドやってるからってそれを使って女をたぶらかしてはないぜ」

「うるせえな、俺の悪口はそこまでだ」


   ⒑


 ジークが黒歴史を発表すると、彼は慌てて席を立ってジークの口を押えようとした。

「それは口にしないって約束だったじゃないか」

「高校卒業して一年後のことな。五歳年上の女に『自分バンドやっててメジャーデビュー寸前』と嘘ついて付き合った……そうだっけ?」

「そうだよ、馬鹿野郎。忌々しいことに鮮明に思い出しやがる」

 ヘイヴは吸っていた煙草を手に持つと、テーブルの上に置いた灰皿にいつも以上に力を込めて擦りつき、火を消していた。

「そいつとはもう別れたのか?」

 恋愛話に興味が湧いたのか、彼の部屋に住む蜘蛛とネズミが部屋の中へと現れた。「クソのお出ましだ」ヘイヴはネズミからそっぽを向きながら、力任せにギターを弾いた。

「ああ、別れたさ。『これ以上バンドの夢を追い続ける人とは付き合えない』だとさ」

「確かに夢を追いすぎている。もう三十超えたもんな、お前な」

「ロックンロールに年齢は関係ないんだよ」

 彼はジークに言い返すと、二本目の煙草を吸い始めた。安物のせいか味はとてもまずかった。


  ⒒


「なあジーク、俺がこれから売れるにはどうしたらいい?」

「突然のことだな、あと俺をもうジークと呼ばないでくれ」

「それはいいじゃないか……そんなことはおいといてだな、俺の質問に答えてくれよ」

 いつものように突然な質問に、ジークは窓を呆然と見ながら思考を整理する。

「まず、ギターの練習をすることじゃないか。それと、動画サイトに自分の曲を投稿するんだ」

「あんな文明の権化みたいなサイトに俺も投稿しろと言うのか」

「お前だって飯食ってるときに見てるだろ」

 ジークは再びギターに視線をやった。

「ヘイヴ、お前だって理解しているはずさ。もう円盤が売れる時代じゃないってな。時代はデジタルの世界、ゼロとイチの二進数でできているのさ」

 ヘイヴの正面にはアナログなコンパクト・ディスクが山積みで置かれていた。

「それとヘイヴ、ギターの練習をするべきだ。お前のギターは、はっきり言ってへたくそさ」

「そんなわけない。俺は上手いさ。これからどうやって上手くなればいいのか分からない」

「分かったよ、俺がお前の面倒を見てやるさ。社会に反抗するロックンローラーさん」


   ⒔


 それからしばらく、週二日のギター練習が始まった。最初こそ嫌々で練習に従っていたヘイヴも、彼の圧倒的なギターテクニックを目の当たりにすると徐々に思考を和らげていった。

「それにしてもお前、ギターがすこぶる上手いな」

「まあ、普通十年近くやってたらこれくらいは上手くなれるさ」

「そんな上手いのに、どうして音楽をやめちまったんだ?」

 ヘイヴが小学生のように純粋な目で疑問を口にすると、彼は襟元を正しながら言った。

「じゃあ、ギターの続きを始めようか」

 しかし彼の練習のおかげで、ヘイヴのギターテクニックが上達しているのは間違いなかった。おぼつかなかった手元の動きも、数週間の特訓の末自由自在に操れるようになった。流行の曲をギターでカバーしたものを動画サイトに投稿すると、一定の再生数を取れた。ヘイヴはそれを嬉しく思いながらも、しかし魂のようなものがうずうずしているのを感じていた。

 彼は安物の煙草を吸いながら、ジークの正面を向いた。

「ジーク、ありがとな。お前がいなかったら、俺はここまで来れていなかった」

「安っぽい挨拶は使わないでくれ。歌詞を書く人間ならな」


   ⒕


 それから一週間が経ち、久々の休みを得たジークは彼の家へ訪問することにした。いつものように開きっぱなしの扉を開けて、成長を感じるギターの音を聞きながら居間を覗く。

「よお、来てたのか。ジーク」

 彼の手元を見ると、やはり楽譜に音符を書き込んでいるようだった。

「少し暇になったんでな。お前の様子が気になったのさ、ロックンローラー」

「それは嬉しいことだな」彼は言った。

「あれから少しは上手くなっただろう」

 自慢げに語るヘイヴに、ジークもすっかり気分を良くしていた。

「ああ、上手くなったさ」

 彼の言葉にヘイヴは頷くと、一度改まって彼の方を向いた。

「だから、ちょっと新曲を書いてみることにしたのさ」

「いいんじゃないか」ジークは何も考えず言った。そして、銀色のビール缶を開けた。

「少しくらい聴かせてくれよ。お前のロックンロールを」

「じゃあ、いくぜ」彼の合図を共に、そして演奏が始まった。


   ⒖


 演奏が終わった。

「聴いてくれてありがとう」ギターの音が鳴った。

 ジークはビール缶を持ったまま、曲が終わるまで硬直していた。

「どうだった?」

ヘイヴが言った。恐る恐る、入試問題の解答速報を見るように慎重な目つきだった。

 意図的にも感じられる空白があった。言葉を選ぶようにして、ジークは重々しく口を開いた。

「微妙すぎる」

 今度はヘイヴの方から大きなため息が聞こえた。

「これほどまでに力を込めたのに、か?」

「確かにギターは上手かった。だが、他の作曲作詞パフォーマンス全ての要素が悪かった。特に作詞、これをアリーナに聴かせたら暴動が起きるんじゃないかと思うレベルにな」

「ありえない、俺はギターが上手くなったんだ。進化したんだ。これで感動しないわけがない」

 顔に陰りを見せている彼に対して、ジークはぼそりと呟いた。

「……あと一つ言いたいんだが、いくらお前が力を込めたからって俺たちにとって最高のものになるとは限らないぞ。豚肉はいくら焼こうが、生焼けの特上牛肉には勝てないのさ」


   ⒗


 ジークは自分の発言で、ヘイヴが「じゃあ、俺の曲の一体どこが足りなかったんだ?」と質問してくれるだろうと期待していた。しかし、ヘイヴは怒りをにじませて言った。

「おかしい……なぜ俺の曲が認められないんだ」

 アルバイトの給料で買った、タール数がいつもより高い高級な煙草を吸って吐く。

「俺はギターが上手くなった。嫌だったがお前の言う通り動画サイトに投稿した。ギターで有名な曲をカバーして、それをネットの大海に放り投げた。再生数もついた。なのに、どうして」

「曲が響かないからだよ」

 ジークはそう言ったが、彼の耳に届くことはなかった。

「なんで俺の曲が響かないんだ?」

「そんなことを言う前にまず、有名曲の研究をしろよ。それを弾いて再生数でも稼いでろ」

「嫌だ。俺だって好きな曲を書きたい。あんなつまらない曲を演奏して何が楽しいんだよ」

「お前が楽しくなるのは勝手にしろ、ただ、俺たちにそれを同調させるな。人間の屑」

「……ライブだ。ライブでオーディエンスに、俺の歌を聴いてもらうんだ」

「それが無駄だったから、今のお前があるんだろうが」

 ヘイヴの態度に、ジークは徐々に業を煮やしていった。数週間前のヘイヴの態度が彼の脳裏にフラッシュバックする。彼は徐々に身体が温まるのを感じた。ジークは今、とても不愉快な感情に押しやられていた。

「『それが無駄だったから、今のお前があるんだろうが』? うるせえな、社会の負け犬。その時の俺と、今の俺は違うのさ。今の俺にはギターがある。実力がある。この技術を武器にもう一度ライブをすれば、きっと今度こそスカウトが来るんだ」

「来ない。来るわけがない。お前に音楽の才能は欠片もないんだ」

 その言葉がきっかけになった。

「うるせえな!」

 ヘイヴの突然の大声に、ジークは思わず持っていた缶ビールを落としてしまった。

「俺は歌で人を感動させる。そして、この腐りきった社会に反抗する。だから俺はライブで一発逆転するんだ。俺は諦めない。それがロックンローラーなんだ!」

 ヘイヴは激昂し、立ち上がって声を荒らげた。それをじっとジークは見ていた。

 畳の上で、ビールが悲しく転がっていた。その上で、ジークはぼそりと呟いた。

「諦めろよ、ロックンローラー。お前の薄っぺらい人生で人様全員を感動させることができると思うなよ。お前がせいぜいできるのは、どこかで見たような他人の言葉を引っ張ってカッコつけることだけさ」

 彼の冷静な口調に煽られるように、ヘイヴはさらに顔を赤くした。

「いいや、そんなわけがない! 俺の言葉は、リリックは、絶対に観客に響いているんだ!」

「お前、なんで自分の言葉だけが周りに響くと思ってるんだよ。中学校の時に校長先生の話、一度も聞いてなかっただろ」

 頭に血が上っているのはヘイヴだけではなかった。「そうだ」ジークはそんな言葉を呟いて、ヘイヴの方へニヤツいた。

「良いことを教えてやろう、ロックンローラー。お前はお前の人生と能力、特別なものだと勘違いしてそうだけどよ、実はお前は特別でもなんでもねえんだよ。そこら辺のスーツを着たサラリーマンと変わらない、才能がなくて至って平凡な人生なのさ」

 その瞬間、ジークの頬に強い衝撃が走った。

 ジークが頬に手をやって彼を見上げると、ヘイヴは右手を振り下ろしていた。

「……ビンタは卑怯だろう」

「お前にイライラしたんでな。俺にだって、限度はあるのさ」

 それ以降、言葉を交わすことはなかった。

 数分後、ジークは痛みが引いたのを確認すると荷物をまとめて立ち上がった。

「じゃあな、家に帰らせてもらう」

「ああ、好きにするがいいさ。社会の犬」

 その言葉に自分も殴ろうかと思ったが、ジークはすんのところで思いとどまった。

 代わりに舌打ちを残してボロアパートの扉を開けた。やけに大きな音を立てて扉が閉まった。

「勝手にやってろよ」そう言いながらも、ジークの階段を下りる足は重かった。


   ⒘


 ジークとヘイヴが喧嘩別れしてから、二か月ほどが経った。無職のヘイヴはどうか知らないが、会社勤めのジークにとってはあっという間の二か月だった。朝起きて会社に行って疲れて寝る。その単調なリズムの中にいると、ふと、自分がロックンローラーだったことを忘れそうになる。ジークは慌てて自分を思い出そうとして、今度は首を横に振る。そして、自虐する。

「思い出そうが忘れようが、どうだっていいんだ。俺はロックンロールをやめたのだから」

 そう言いながら、煙草を久しぶりに吸ってむせていた。

 ある金曜日の晩のことだった。肩をぐるぐると回しながら会社から出たジークは、開放感のあまりスーツ姿で街を目的もなく歩いていた。様々な店が立ち並んでいた。飲み屋、スーパー、中華屋、そして歓楽街……あらゆる誘惑がジークを襲ったが、彼は興味を示さず街を歩いた。

 歩くこと三十分。ふと、彼の足が一瞬にして止まった。

 彼の視線の先には、ポスターが至る所に張られたボロボロのライブハウスがあった。

 ライブハウス、と彼はその単語を復唱する。最後に行ったのはいつだっけ。あぁ、そうだな。あの三十を過ぎた夢追い人のライブに行ったのが最後か。ジークは記憶を振り返り、懐かしい感情に浸っていた。腕時計を確認する。まだ帰宅までには二時間少々あった。「まあ、退屈だったら帰ればいいさ」彼はそう呟きながら、ライブハウスの扉を開けた。


   ⒙


 ジークがライブハウスの扉を開けた時、すでに他のバンドが演奏しているらしかった。とりあえず時間の許す限りのチケットを買うと、彼は飲み物を片手に壁にもたれて曲を聴いていた。刺々しいギターの音がオーディエンスの鼓膜を搔き乱し、ライブは盛況を見せている。しかしジークは何か物足りなさを感じていた。


あんまりつまんねえな。特にこのバンドはドラムが弱い。ああ、次のバンドはドラムはいいけどボーカルが走りすぎてる。こいつらなんて全てが酷い。どれもつまんねえな。……あれ? どうして俺、こんなに本気になって見ているんだ?


 彼は周囲に聞こえない声で独り言を呟きながら、同時に微かな疑問を抱いていた。これなら自分がステージに立ってやろうかと思うことさえあった。

 結局、満たされることなく四つ目のバンドが終わった。まばらな拍手と共に去っていくバンド。演奏が終わり、突然観客が帰り始めた。最終的にはジーク一人だけがライブハウスの中に立っていた。だが、チケットは一枚残っている。不思議な違和感があった。まるで不人気なバンドを見ているかのような……そんなことを考えていると、ステージにギターを抱えた一人の男が現れた。その姿を見るなり、ジークは大きく目を見開いた。

 彼は、ジークはかすれた声でその名を呼んだ。

「……ヘイヴ」

 ヘイヴは、ステージに独りで、観客がいないライブハウスに立っていた。


   ⒚


 薄寂れたライブハウスに、三十歳を過ぎたロックンローラーと既にその道を諦めたサラリーマンが対峙している。豆電球のように小さいスポットライトに当たったヘイヴは、暗闇にもたれるジークへ向けてマイクを取った。

「どうして、ここにいるんだ」

 まるで信じられないものを見るような目で、彼は言った。

「それはお前のセリフだよ。どうしてお前が、ここにいるんだ」

 腕組みをしたまま、表情を何一つとして変えず彼は言った。

 数秒の間、睨み合いが続いた。痺れを切らしたのはジークだった。

「結局、ギターの練習も新曲も書かなかったんだな」

「余計なお世話だね。俺の魂を、俺の言葉を、ここから広めているのさ。そこに格差は無い」

「飾り付けた言葉で怠惰をごまかすんじゃない。お前は社会に貢献しないくせに、ただ基礎も固めず楽しいことばかりをしている人間の屑、家畜に等しい存在なのさ」

「いいや、違うさ。俺の言葉は五線譜に書かれた音符では伝わらない。俺の魂は、この場限りの音楽にしか乗せられないのさ」

「訳が分からない。さっさと諦めろ、そして普通に戻れ」

 ジークが起き上がり、ステージ上の彼を睨みつけると、ヘイヴは満足そうにふっと笑った。

「話し合いは平行線、パラレルラインってか。仕方ない」

 彼が話し終えると共に、激しく響く弦の音が聞こえた。

「じゃあ、俺の魂をお前に届けるしかないな」

 その掛け声とともに、彼はボロボロのズボンを引きずり、目の色を変えて叫び始めた。

「聴いてくれ! 『マイ・ソウル』!」

 それは有名バンドに比べると遥かにヘタクソなギターだった。超大物オペラ歌手と比べると遥かにヘタクソなボーカルだった。夕暮れの河川敷で三秒くらいかけて書いたようなリリックに、スタジオの外で酔っぱらって書いたような醜いメロディー。

 しかし、彼の、ヘイヴの気持ちはどんなバンドよりも籠っていた。

 少なくともヘイヴは、そう思っていた。

 数分後、演奏が終わり、ジークは口を開いた。

「それで人を感動させた気にでもなったつもりか?」

 ヘイヴの頭が真っ白になった。

「なに一つとして伝わってこないぞ。なに一つとして感情が動かないぞ。十数年やってきた結果がこれかよ、ロックンローラ―」

 未だ亀裂は生まれ続ける。ヘイヴはショックを隠せなかった。まさか俺の歌が通用しないとは! 彼らは数週間前のように、ステージ越しに喧嘩をしていた。

「お前には分からないだけだ! 社会の犬。お前以外の奴には魂を震わせている、お前以外の奴とは心を通わせているんだ!」

「そんなに俺以外の奴が大事なのか! 今ここには来ていない、声も音楽も届いていない名前も知らない誰かのことが!」

「ああ大事さ。何事にも感動しない可哀想な心を持つお前なんかよりよっぽどな」

「目の前のたった一人を大切にせずに、何が『有名になる』だ。有名になりたいんだったら、まず俺たちの願う通りに作品を作るべきだ」

「うるせえ! これが俺の芸術、これが俺のロックンロールなんだ!」

「知らねえよ、お前の芸術なんか。さっさと俺を気持ちよくさせてみろ、ロックンローラー!」

 壊れかけの照明に当たっている男は、底が潰れたスニーカーを踏みつけて溢れ出る汗をほとばしらせる。そして、切れかかった天井の照明を睨みつけて、首を激しく振り下ろした。

「聴け! これが俺の想い、本当の魂だ!」

 彼は感情のままに弦をかき鳴らし、本能のままにマイクへ叫び続ける。曲名もイメージもない。十数年かけて練ってきた曲の数々は意味を成さず、たったこの瞬間の感情に身を任せて叫んでいる。そこにテクニックは何も存在しなかった。彼は、ただ訪れる一秒一秒で全力を込めて奏でている。

ふと、ヘイヴの脳裏には様々な記憶が浮かび上がった。中学の時にバンドの世界に誘ってくれたジーク。高校生で文化祭で溢れんばかりの汗を走らせながら、自分の隣でギターを鳴らしていたジーク。そして、高校の屋上で彼と共に誓った「これから絶対、俺たち売れような」という言葉。その思いはとうに変わってしまって、今や彼は夢を諦め、スーツを着て毎日会社へ出勤している。そしてもう片方は、こうして未だに夢を追ってしまっている。交わっていた二人、交わらなくなった二人。次々と切り替わる記憶のスライドショーに、ヘイヴは目頭が熱くなるのを感じた。あぁ、この音楽が終わろうとしている。かき鳴らす。終わりを告げる音。ヘイヴは彼から教えてもらったギターを弾きながら、最後に大きく息を吸った。

「お前のギターを隣で聴き続けて、俺は幸せだったよ!」

 歌詞にならない叫びをあげて、彼は目をつむった。

 両手を下ろし、ギターの重さが肩にのしかかる。ヘイヴは目を閉じたまま、顔を上げてライブハウスの天井を想像した。汗が頬から滴り落ちる。ポケットには残り少なくなった煙草のケースが入っている。荒い呼吸を整えて、彼はぼそりと呟いた。

「これが、本当の俺の気持ちなんだ」

 そこに今まで感じていた不平不満は、一切無かった。


   ⒛


「すまなかった」

 演奏が終わると、ジークはステージに向かって頭を下げた。

「思い出したよ。お前の演奏で全部。俺たち、あの時は楽しかったんだな」

「いいんだ。俺もこれがきっかけで思い出したのだから。さあ、早く顔を上げてくれよ。相棒」

 真っ白だった目元をすっかり赤く染めて、ジークは顔を上げた。

「お前、すっかり泣いてるじゃねえか」

 ヘイヴの笑いながらの指摘に、ジークは恥ずかしそうに顔を綻ばせる。

「お前の演奏をまともに聴いたのは高校ぶりだったな、ってな」

「少しは上手くなっただろう?」

「ほんの少しだけな」

 音楽で出会った二人のわだかまりは、音楽によって解消された。

「手伝うよ」

 しばらくして、ジークはおもむろに話を切り出した。

「何をだ?」と質問するヘイヴ。

「決まってるだろ。お前が売れるための作戦だよ。『これから絶対、俺たち売れような』。そうじゃなかったっけ?」

 それが当然のことのように言うジークに、ヘイヴは目を点にして聞いた。

「なんだそれ……お前は本当にいいのか?」

「ああ、決まってる。ただ、俺はもう会社に勤めてしまって表舞台には立てない。だから、今度はお前が一人で表舞台に立て。俺はそれを、陰からひっそり支えてやるからさ」

 ヘイヴは口までも大きく開いた。信じられない、彼は幸福よりも先にそう感じていた。

「……本当にいいんだな。お前の上手なギターも、もう見られなくなってしまうんだぞ」

「いいさ。もとより俺は、ギターはそんな上手くないしな」

 彼は言った。十数年前の高校時代のように爽やかな笑顔で。

「お前が俺の分まで、きっちり日の目を浴びてこい」そして、話す。

「今度は俺たちが、音楽で反撃の狼煙を上げる番だ」

 ジークはヘイヴの背中をポンと押す。前に背負っていたギターの重みが、半分になったかと思うほど軽くなっていた。


  21


「こうして二人で音楽に向き合うのも、何年ぶりくらいかな」

 ライブハウスでの和解から数日後、ヘイヴは久しぶりに彼を招き入れていた。

「お前の家に入り浸っていた時も、俺はなんだかんだお前に就職をしろとうるさかったからな」

「確かに」彼らは笑った。

「だから、もう覚悟を決めたさ。俺はお前を信じる。だからお前も、俺を信じてくれ」

「当たり前だな」ジークは煙草も吸わず、彼の顔を見た。

 彼らは正対するような形で座り、そして間には五線譜とギターが置かれている。

「それにしても、売れるってどうすればいいんだ?」

 ヘイヴがもっともらしい問いを立てる。

「それが分かったら苦労なんてしないよな」

 九十円くらいの安いペットボトル飲料を飲みながら、ジークは呟いた。

「とりあえず、一度自分たちの曲を振り返るか」


  22


 それから彼らは、二人で作曲したものも含め合計七十曲ほどを聴きとおした。最後の曲を聴き終わり、ジークはヘッドホンを肩に落とす。早朝から始まった決起集会も、気が付けば日が傾き始めていた。

「なんか似たような曲調が多いな。歌詞もそうだ。他のバンドから影響でも受けているのかと思うくらいにな」

「そうか? 俺にとってはオリジナリティ―溢れる曲たちに思えるぜ……こんな感じの曲調が最高なんだと思うんだが」

 ヘイヴは我慢の限界に達したのか、「すまん」とだけ声をかけて安物の煙草に火をつけた。白に近い灰色の煙がもくもくと部屋を充満させている。「すまん、一つ俺にも分けてくれ」「分かったぜ、相棒」ジークはライターを取り出した。

「だが、思うに……ここは正直に言うんだが、大衆はそう思っていないんだ」

 話のしにくさを煙草の煙でカバーする。こういう時、煙草はとても心強い。ジークはそんなことを考えながら、もはや味のしないシガレットを吸っていた。

「どういうことだよ」ヘイヴは前のめりになって、彼の話に耳を傾けた。


   23


「これから俺が話すことはお前を傷つける内容になるのかもしれない。もう音楽を奏でることを諦めてしまうのかもしれない。それでも、お前は聞きたいか?」

 身体を近づけるヘイヴの前で、ジークは苦々しく切り出した。もしかしたら、俺はここでまた嫌われるかもしれない。今度こそ絶交になるのかもしれない。そんな不安で胸が一杯だった。しかし、ヘイヴはその不安を鼻で一蹴した。

「俺を心配してくれているのか? 俺は売れないロックンローラー。その事実は、他でもない自分がよく分かっているのさ。だから、何でも言ってくれ。俺が皆に受け入れてもらうために」

 その時、ジークは様々な感情で溢れてしまいそうになり、思わず目頭を押さえた。

「なに変な顔してんだよ、ジーク。俺の顔にライス・ケーキでも付いてるのか?」

「意味が分からない」ジークはそう言いながらも、でも嬉しそうだった。ヘイヴは続ける。

「なあ、ジーク。俺は未だに売れないくせに、こうして売れる機会をずっと窺い続けている。それは、狩りをしたことがないハイエナが極寒の北極で獲物を狙い続けるのと同じことさ。だから、これからも間違いを犯すかもしれない。……その時は、お前が訂正してくれ」

「分かったよ」ジークは顔を伏せたまま頷いた。「分かったよ、相棒」


   24


「まず聞いていて思ったのは」

 ジークは袖で顔を拭くと、彼の方を向き直る。

「歌詞と曲が時代に沿わない」

 ジークの指摘は毒矢のように鋭く心臓に突き刺さったが、ヘイヴはなんとか喰いついていた。

「どういうことだ」

「歌詞が漠然としすぎている。『愛』だとか『宿命』だとか、聴いていて何一つとして情景が浮かび上がらない。優れた歌詞というものは、聴くだけで情景が浮かび上がるものなのさ」

 ヘイヴは彼の指摘にじっと耳を傾けながら、腕組みをして考える。

「……あまり受け入れがたい話だな。景色だけ浮かび上がらせても無駄だろう。人の琴線に触れるのはいつだって魂の籠った、熱いソングなのさ」

「他人の情熱ほど鬱陶しいものはない」

 彼の言葉が冷たく響く。

「少なくとも今の時代はそうなんだ。客はクリエイターの情熱が見たいんじゃない。自分が楽しめる作品を見たいんだ。『俺だったらこうするのに』なんて、一度は思っただろう?」

 ジークは手持無沙汰にギターを手に取った。気ままな音楽が部屋に漂う。

「これだってそうだ。ただ自由に弾いているわけじゃない。曲調やお前の好みを考えた上で、自分が弾けるテクニックと照らし合わせてやってるのさ」

 ヘイヴは納得したか微妙な、眉間にシワを寄せて数学の解説を見ているような表情を見せた。

「ヘイヴ。お前に足りないのはそこだ」

 ジークの瞳はこれまでにないほど純粋なものだった。真っすぐに目標を見つめる彼に対して、ヘイヴは煙草を一本吸った。

「分かった……分かったが、それでも俺はロックンロールをやめることができない」

 それが俺の人生だからだ、と彼は付け加えた。

「それでいい。ただ、見方を変えるだけさ。ロックンローラー。お前だけのロックンロールから、お前と俺のロックンロールにな。人と関わるということは、そういうことさ」

 初めてヘイヴがアドバイスを聞き入れた。その事実だけでジークは秘かに握りこぶしを作り、口角を少し上げた。これならヘイヴの夢が叶う。そんな希望と煙草の煙で部屋は充満しきっていた。ふと見上げる夕陽の色でさえ、彼らを祝福しているものに思えた。

 そしてなにより、彼はあの頃の光景を思い出す。

 二人でもう一度文化祭の続きを見れたのは、どんなことよりも幸福だった。二人で交わした約束を振り返る。遅すぎた反逆劇に、ジークはわずかな期待と大きな夢を託していた。


   25


 ヘイヴはその夜、ギターを片手にベランダで月を見上げていた。

 俺のロックンロールはまだ終わっていない。

 そんなことを考えていた。俺とジークが久しぶりに組んだんだ。

 だったら、売れないわけがないよな。

 思い出すのは十三年前、体育館ステージの歓声だった。

 あいつもこいつも、どいつも俺の演奏に狂喜乱舞してやがる。

 静かで暗い星空が、まるで演奏が始まる三秒前に思えた。あの白く光る三等星も、数秒後には声を出して瞳を輝かせるような気がした。

 さあ、俺たちは売れるさ。

 そんなことを考えて、ヘイヴはボロアパートの部屋へと入った。

 これから、反逆の時間さ。彼は社会への復讐を胸に誓う。


   26


「新曲を書ききった」

 ヘイヴはジークを部屋に呼び寄せ、正座をして彼に告げた。二人の間にはびっしりと書き込まれた楽譜、そして何年もの間お世話になったギター、最後に一本しか入っていない煙草のケースが置かれている。

「聴いてくれ。この曲を」

 ジークは言われるがままにヘッドフォンを手に取ると、スマホの再生ボタンを押した。この部屋でそのまま撮ったのか、隣の部屋の生活音が聞えてきた。音声ファイルに刻まれた心電図のような模様を目にしていると、音楽が流れだし、ジークは目を閉じて集中した。

 その間、ヘイヴは自分の心臓が激しく乱れていることに気付いた。

 もしかして俺、ジークに聴いてもらうだけで緊張しているのか?

 数か月前に新曲を書いて彼に馬鹿にされたことを思い出す。憂鬱な感情に襲われて、時々ジークのヘッドフォンを外したくなる衝動に駆られた。しかし、我慢した。これは俺が売れるために乗り越えなければならない試練だと。自分を奮い立たせた。

 三分後、ジークはヘッドフォンを静かに外した。ヘイヴの心臓が激しく響く。短い間隔で揺れている。ジークは顎に手を当てて言葉を選ぶと、ゆっくりと口を開いた。

「いいじゃん!」

 彼は曲を聴き終えるなり、ヘイヴに向かって親指を立てた。「これで売れるな!」

 ヘイヴはその瞬間安心して、ダムが決壊するように感情があふれ出た。

俺、やればできるんだ!


   27


 曲を聴き終えたジークは頬を赤くしてヘイヴに迫った。

「この曲、俺は感動したぜ。……確かに足りないと思うところはあるが、それでもこれは及第点だ。早くスタジオを予約して、さっさとこれを発表しようぜ」

 ヘイヴはその言葉に喜びを隠せないまま、落ち着くためにギターを触った。

「そうだ、仕事の関係で知り合ったプロデューサーに掛け合ってみるぞ。そいつに新曲を持ち込もう。運がよかったら俺たちは晴れてプロデビューだ」

 段取りも早く、ジークは立ち上がるとテキパキとスマホから電話をかけた。プロデューサーらしき人物と話し合いながら玄関へ向かう。その後ろ姿を見ながら、彼は描いた五線譜を恥ずかしそうになぞっていた。

「決まったそうだ。再来週の日曜日。そこでプロデューサーは空いているらしい。スタジオは俺たちが高校の時よくお世話になっていた、あのスタジオだ」

 俺たち最大の戦いが、今始まる。二人は無言で頷いた。


   28


「緊張しているのか?」

 レコーディング本番、スタジオに向かう道中でジークは話しかけた。

「こんなシチュエーションで緊張しないというのがおかしい」

「まあ、俺は歌わないからな」そんな会話を交わしていると、スタジオの前へ到着した。

「準備はいいか」ジークが言った。「大丈夫だ」

 重たい音を立てて扉が開くと、そこにはスーツ姿の男が立っていた。彼を見るなり、ジークは中腰になって男の方へと近づいていった。

「ああ、ハッタさん。よく来てくれましたね」ハッタと呼ばれた男はジークの方を振り向き、彼と同じくらいの中腰になって挨拶をした。

「ええ、こちらこそ。ええっと……」こめかみを押え、苦虫を潰すような表情をする。

「ここでは『ジーク』としてやらせてもらってます」

「あぁ、ジークさんでした。失敬」一連のやり取りを、ヘイヴは遠巻きから見ていた。彼が仲間外れになっていたのに気づいたのか、ジークはヘイヴを巻き込むと紹介を始めた。

「ヘイヴ。この人が俺が前に言ってたプロデューサーって人。ハッタさん。……ああ、そしてハッタさん、彼がヘイヴというロックンローラーです」

 第一印象ではそこまで悪い人間のようには思えなかった。物腰も柔らかく、臨機応変に言動を変えることができる柔和なイメージがあった。社会人経験のないヘイヴにとっては、それがとても意外だった。社会人は性格の悪い奴の集まりだと思っていたからだ。

「こ、こんにちは」

「そんなに緊張なさらないでください」ハッタが笑う。

「有名スターになるためには、これくらいの緊張は跳ね返さないと」

 有名スター、ヘイヴはそのフレーズを繰り返す。彼の口から出た言葉は、一気に現実味が溢れて緊張感が増した。

「さあ、早くレコーディングを開始しましょう。オーディションの準備もあって忙しいんだ」

 ハッタの掛け声をきっかけに、ヘイヴはギターを取り出した。


   29


 久々のレコーディングは順調だった。声もギターも調子は良く、楽しんで収録をすることができた。ガラスの向こうにはハッタがヘイヴを査定するように見回して、ジークは手を組んで彼のことを注視していた。

 思えば、人の視線を一挙に背負って歌うのは高校生以来だった。

 しばらくが経った。

「これでレコーディングは終了となります。これが音声ファイルになるんで、しっかりと管理してください」その言葉と共にヘイヴのもとにUSBが手渡された。それを見届けてからハッタがヘイヴの方へ近づいた。

「お疲れ様です。レコーディング、見させていただきました。かなり真剣に音楽と向き合っているようで、とても感銘を受けました」

 プロデューサーが自分を認めてくれた。その言葉に胸が張り裂けそうだった。

「いえいえ、そんな」震える声で謙遜をした。

「今まで様々なバンドを見てきましたが、あなたは別格の情熱をお持ちのようです。あなたの情熱はジークさんより聞いてはいましたが……想像以上のものですね。まだまだ伸びしろを感じさせられます」

 ジークもヘイヴも、目を輝かせて彼の発言を聞いていた。その先の言葉を想像した。

「では、それでは……」

 ヘイヴは結論を待った。期待が膨らみ、希望が溢れた。しかし、ハッタは咳払いをした。

「ですが、それだけ。プロデビューの話は却下ということでお願いします」

 却下。すべての音が失われていくような感覚が、身体を貫いた。


   30


「どうしてですか!」

 先に異議を唱えたのはジークだった。

「彼の音楽はよかったはず! メロディーラインも歌詞もボーカルも! それなのにどうして」

 ヘイヴの前に出て、ジークはかばうようにハッタの前に詰め寄る。胸ぐらをつかみそうな勢いの彼に、ハッタは口に人差し指を当てて制止させた。

「年齢です」

 引き戻されるように落ち着いて、あれほど特別だったスタジオが普通の部屋に見えた。

「君たちはもう三十歳。音楽界ではもう高齢の部類です。最近は十代でメジャーデビューするのも珍しくはありません。それなのに三十を過ぎるようであれば、不安材料になりえます」

「でも、音楽に年齢は関係ないだろう!」

 三十歳。その言葉にヘイヴは強く引っかかった。立ったままではいられなくなり、彼もハッタの眼前へ飛び込んだ。その勢いにハッタは驚くこともなく、ただ溜息をついた。

「年齢は関係ない。音楽で売り出すんだ」それに対して、ハッタは一字一句強調して答えた。

「三十歳の新人が作る歌を、誰も好き好んで買おうとはしません」

 そして続けた。

「芸術も音楽も、所詮はビジネス数字の世界です。人に認められた芸術が勝利、名誉を手にします。それを判断するのは一体何でしょう。答えは簡単、数字。どれだけ売れたかが勝負の世界です。だから、大衆に共感される歌を作らねばならない。芸術性は作者に存在するのではありません。消費者に存在するのです」

「そんなもの……」ヘイヴは俯き、苦々しく呟いた。「そんなもの……」舌打ちをした。

「俺は絶対、認めない。ロックンロールは屈さない。俺は、夢を与えるロックンローラーになるんだ。高校の時、そう誓った。だから、そんな大衆主義には屈さない。自分を貫くんだ」

 ハッタの大きなため息が聞こえた。

「ロックンローラーは夢を与えていますよ。会社の下で作られた、商業的な夢をね」

 今にも殴ってやろうかと、ヘイヴは思った。

「ロックンローラーになる……頑張ってください。ただ、言っておきますよ。あれは夢でも理想でもなんでもなく、レーベルの下で働く現場仕事です。忌み嫌っていた社会の犬に数字で管理されながら『自由はこうだ』と語ってるだけなんですよ」

 つまりね、ハッタは言葉をつなげた。

「あなたの自由、他人の数字でできてるんですよ」

 前言撤回、ハッタは最低最悪の人間だ。あと芸術を理解しないバカ者だ。人の心を大切にせず、目の前の数字だけを気にする悪の権化だ。ヘイヴは狡猾な狐のごときハッタを睨みつけ、唾を吐き捨てるように舌打ちをした。

「そんなわけがない! ロックンローラーに豪邸はいらない。あるのは魂の渇きと叫びの二つだけなんだ。カネよりも大事なものがあるだろう。地位よりも大切なものがあるだろう。それが分からないのなら、お前はロックンロールに携わる資格はない」

 顔を赤くしてまくし立てるヘイヴを、ハッタは黙って見つめていた。そして、呆れたように溜息をついた。「バカバカしい」興奮したヘイヴの鼓膜に、かろうじて届いた小さな声だった。

 だから……、ハッタは最後に彼へ告げた。

「諦めろよ、ロックンローラー」


   31


 外にまで聞こえそうなほどの大喧嘩を終えて、ジークとヘイヴは苛立ちを隠せないまま帰路に就いた。「なんなんだ、あいつらは」ヘイヴは頭が火山のように燃え上がるのを感じた。

「すまなかった。俺があんな奴を呼んだばっかりに、こんな羽目になっちまった」

 ヘイヴはポケットに忍ばせていた煙草を二本無理矢理抜き去ると、そのままジークの口に一本ねじ込んだ。「お前が謝ることじゃない。謝らなきゃいけないのはハッタの野郎さ」

 自分のも一本口にくわえると、そのままライターで火をつけた。

「あいつ、いつか痛い目見るぞ。あの物腰じゃあな」

 気分が悪い時に吸う煙草の味は最悪だった。不健康な感情に不健康な味がしみつく。脳に血が上って霧がかかったような感じだった。

 しかし、同時に彼の言葉を否定できないことにも気づいていた。ハッタの言い方に問題はあれど――それが正論なのは事実だった。ヘイヴは思う。俺だって、自分より再生回数の低いバンドを見つけたら鼻で笑うし、そいつが何かの拍子に有名になったらむかつくのだ。

 数字を一概に否定はできない。それがヘイヴの結論だった。

「さあ、これからどうするよ」ジークが両手を頭の後ろに当てて、放り投げるように呟いた。

「オーディションに出よう」

 ヘイヴの発言にジークは驚きの声を上げながら急いで振り返った。「正気か?」

「ハッタ、『オーディションで忙しい』って言ってたよな? それに参加して新しい曲を歌って、あいつを見返してやるのさ」

 勝算がないわけでもなかった。投稿した新曲も再生回数が取れて、動画のコメント欄で「大手のオーディションに勝てる実力」と言われることもあった。ヘイヴはそれを思い出した。

「頭がおかしいやつもいたもんだな」ジークは笑っていた。

「いいだろう、二人で見返してやろう。拝金主義の犬に、魂の音楽を見せてやるのさ」


   32


 オーディションまでは数週間の猶予があった。その間に二人は寝る間を惜しんで練習に励んだ。時には有給休暇を使い、二人で会って作曲会議をしていた。実際に受けるオーディションでは二曲披露する必要があり、議論は白熱し、時にはぶつかり合った。

 しかし、彼らは逃げなかった。特にヘイヴ。彼はじっと目の前の困難を解決しながら、いつも遠い未来を見据えているような目をしていた。

「俺たちは絶対見返すんだ。あいつを、社会を」

 ネズミと蜘蛛が徘徊する六畳一間のボロアパートで、彼らは月に向かって誓いを立てた。そのためなら、いかなる苦難でも乗り越えて見せる。そうとさえ誓った。

「七難八苦が起きても、俺は絶対倒れない。それがロックンローラー、漢の意地さ」

 そんな練習の日々は過ぎるのが早く、気が付けば後三日のところまで来ていた。

「もう残り三日で、ついに俺たちのオーディションが始まるんだな」

 ジークが畳の上で寝ころびながら、感慨深いように呟いた。部屋の電気は落としていた。月明かりと隣のアパートの電灯が部屋にうっすらと差し込んでいた。

「ああ、そうだ。あと三日で、決戦が始まる」


   33


「……ヘイヴ、この一か月の間、俺は楽しかったよ。色々喧嘩はあったけどさ、それでも音楽の良さを思い出すことができたのはお前のおかげだよ。ありがとう」

 あの捻くれ者で有名なジークが感謝の言葉を口にして、ヘイヴは分かりやすく動揺した。

「いきなりなんだよ、水臭い。この部屋に出たネズミから細菌でも貰ったのか?」

 部屋は空きっぱなしのベランダからわずかに光が差し込むのみだった。藍色に似た夜空の光が差し込んで、水辺の堤防のように涼しげな風がヘイヴとジークの頬を通り抜ける。

「だったらお前は細菌だらけだろうがよ」

 ジークとヘイヴは笑い合った。

「でも、ジークこそ俺の作曲やギターテクニックを指導してくれた。それがなかったら今俺はここに立っていないし、そもそもこんなバンドをやる人生にはなかった。だから、ありがとう。もう一度生き返ったとしても、俺はこの人生を選ぶよ」

「なかなか嬉しいことを言ってくれるじゃないか」満足そうにジークは笑っていた。

「お前こそな、相棒」ヘイヴもそれに応えていた。

 夜空に目をつむり、静かな時が流れた。ジークが、小さな声で呟いた。

「ただ……本当にお前にバンドを勧めてよかったのかと、たまに思うことがある。客観的に見て、今のお前は負け組だ。バンドの夢を追い続け、その代償にキャリアを棒に振っている。……思うんだ。もしお前がバンドなんて志さなかったら、もっといい人生を歩めたのかもしれないと」

 自信なさげに空を見つめるジークに、ヘイヴは胸ぐらを掴んで引き寄せた。

「そんなこと言うなよ。相棒」

 静かな星空。お互いの吐息が肌にかかるほど、それは密着していた。

「お前のおかげで俺は夢を追うことを知った。お前のおかげで透明無色な人生がバラ色のように鮮やかになった。音楽のおかげで不幸になったとは言わない。だから、お前も前を向いていくれ。そして、俺のために支えてくれ」

 朧げな声はジークの鼓膜を震わせた。数か月前の腐りきっていたヘイヴと、今のヘイヴではまるで別人だと思えるようだった。それが微笑ましくなって、ジークは笑った。

「変わったな、お前」

「そうか?」

 ヘイヴは目を丸くした。まるで予想外の角度からの発言に驚いているようだった。

「俺が変わったようには思えないんだが」

「いいや、変わったよ。これからもよろしくな、相棒」


   34


 当日を迎えた。早朝、緊張で目を覚ましたヘイヴはボロアパートから澄み切った青空を眺めた。パステルカラーのように鮮やかに、そして大海のように深い青色。ぽつんと浮かぶ白雲に向かって伸びをして、ヘイヴは起床の煙草を一本吸った。

 山奥のように涼しい風が一陣吹いて、灰色の煙が横になびく。気温とメンソールの香りも相まって、頭にかかっていた霧が晴れていくような感覚を知った。

「準備はいいか」

 後ろを振り向くと、ジークが頭を掻きながら伸びをしていた。

「ああ、最高の目覚めさ」

 それ以上、彼らに言葉はいらなかった。

 数時間後、会場に到着する。立て看板を見て、無性に手足を動かしたくなりヘイヴはもう一本だけ煙草を吸った。「緊張してるんだな」ジークは笑っていた。

「さあ、思いっきり行ってこい。そして二曲とも歌いきってこい。それが俺たちの友情さ」

 その言葉に背中を押されて、ヘイヴは戦場へ足を踏み入れる。手続きを済ませ、パイプ椅子がずらりと並べてあるうちの一つに彼は腰を下ろした。


   35


「オーディション番号十七番、ヘイヴさん。会場へ」

 受付から三時間後。スーツを着た男の明朗快活な声が響いて、ヘイヴは待合室から意気揚々と歩き始めた。長い廊下を抜けて、防音対策の重厚な二重扉を開ける。

 そして、正面に忘れられない男が座っていた。

「どうぞ、こちらに。『ヘイヴ』さん」

 言葉は温厚に、されど視線は悪意をもってハッタは彼を出迎えた。

「こんにちは。今日はよろしくお願いします」

 ダメージが入ったボロボロのジーパンを引きずらせて、ヘイヴは丁寧に頭を下げた。背中には槍のように大きいエレキギターを背負っている。

「やはり、あなたは音楽に向き合う情熱だけは凄いですね」

「それしか取り柄がないものですから」糸が張り詰めるような空気が、二人に漂った。

「さあ、早く弾いてください。私は音楽にしか興味はありませんので」

 ハッタは手元の紙を一枚とると、ヘイヴに目もくれずボールペンを握った。

「分かっています。言葉よりも音楽の方が伝えやすい」彼はギターを手に取った。


   36


 ギターをかき鳴らす。

 音を確かめる。

 最適だ、ヘイヴは一人でほくそ笑んだ。

 エレキギターの高いビートが鳴り響く。ロックを象徴する、あの音だ。

「俺がこのオーディションに参加したのは他のためでもない」

 いきなり何を言い出すんだ、ハッタは目を開いて険しい顔をした。

「音楽を知らないお前に、魂を伝えてやるためさ」

 言葉の隙間を埋めるように激しい音圧がハッタの両耳を強く揺らす。彼の情熱が指し示すように、彼の魂が指し示すように、そのギターは強く激しく鳴り響く。

 一瞬静寂が流れた。

「じゃあ聴いてくれ! 『俺の魂は終わらない』!」

 長い髪を上下に揺らし、汗を頬に張り付けながら、ヘイヴは無心で歌い続けた。音楽は人を変えられる。ヘイヴのくだらない人生を一変させた。虚無を見つめるジークを生まれ変わらせた。そして、この極貧生活から音楽で逆転することができる。

 ハッタ、彼の顔をヘイヴは見る。お前はまだ知らない。音楽の底力を。音楽は、ロックンロールは数字で判断できるものじゃない。そこに人の気持ちがある限り、無限大の情熱を生み出すことができるものなんだ。

 その思いを真っすぐに込めて、彼はギターをかき鳴らした。

 曲が終わって、再び静寂に包まれた。

「一曲目、『俺の魂は終わらない』でした」

 ヘイヴは天井を見上げて吐息を漏らす。一曲目にしては上々だ。上手くいけば、これだけで一発合格もありえるのかもしれない……そう考えていた。

 三人の審査員のうち、一番左の男がまばらな拍手を送る。ハッタは何もせず、ただ腕組みをして視線を落としているだけだった。

「どうだ、俺のギターは。歌は。ロックンロールは」

 ヘイヴが彼に詰め寄ると、ハッタは審査員と耳打ちを始めた。数秒後、話が終わったのか彼は前を向くと毅然とした態度でヘイヴを睨み、告げた。

「まだ売れない」そして、続けた。

「その歌詞で、その曲で、人が本当に感動できると思っているのか? 『この曲にお金を払いたい』そう思ってくれると考えていたのか?」

 ハッタの剣幕がステージに突き刺さる。ヘイヴは舌打ちをしながら、右手に力を入れた。


   37


「売れない……レコード会社として、君を採用する気にならない」

 その声はあまりにも恐ろしく、そして冷たく響いた。

「どうしてだよ。この歌が響かないというのか」

 ヘイヴは自分を忘れて、審査員の机までに詰め寄る。ハッタの両脇に座る男たちが動揺していたが、当の彼は眉一つ動かさずヘイヴを睨み続けていた。

「響かないね。メロディーも歌詞も君のパフォーマンスも」

 興奮した筋肉がさらに隆起して、身体が温まるのを感じる。

「だいたい、君たちは致命的な勘違いをしている。君たちの言葉で人は涙を流すんじゃない。他人の言葉を通した自分の人生に、人は感動するのさ」

「そんなわけがないだろう」

 力の抜けた声が出る。「そんなわけがない。人は言葉に、自分たちで紡いできた言葉そのものに感動するんだ。ハッタ、人間を軽く見るな。俺たちは数字でできていないんだ」

 ハッタはまた呆れたような溜息をつく。まるで子供の冗談に付き合うように。

「じゃあそうだとしよう。ヘイヴさんの仮説が万が一にでも正しかったとしてやろう。それだとしても、私はまだ感動しない。お遊戯会の劇で涙を流さないのと同じようにね」

 舌打ちが聞えた。ハッタは彼を睨んでいる。会場に入るまでの緊張はすっかり霧散して、ヘイヴの瞳には敵意を持った輝きが含まれていた。仕方ねえ。彼は再びギターを取った。


「そこまで言うのなら、次で感動させてやるよ」


 もはや言葉による解決は不可能だ。ヘイヴとハッタには、絶対に交わることのできない平行線が広がっていた。音楽は数字だ。ハッタは言った。人が感動するのは自分の人生に、ロックンロールを歌うのは売り上げのために。「そんなわけがねえ」ヘイヴは彼らに聞こえない声で否定した。音楽を続けるのは、この魂を表現するためだろう!

「ラスト、二曲目!」

 力任せにギターに指をかけ、頭に浮かんでいた楽譜を無視してギターを鳴らす。感情が叫ぶままに、己が感じるままに、今の心情を表現する。

「聴け! 音楽の神髄を! 金儲けのために音楽は存在しないということを!」

 激しく弦を擦り続ける。ビート、全てを圧倒するような音量で、彼は宣言した。

「聴け! 『魂』!」

 台本も脚本も五線譜もない中で、彼はマイクに全てを込めた。

 曲が始まる。どこで終わるか見当もつかない音楽。しかし、不安は一切なかった。大丈夫さ、俺の想いはきっと伝わる。ヘイヴは笑いながら考えた。展開も歌詞もテクニックも何も考えるな。ただ考えるべきなのは、己が満足いくまで叫ぶこと!

 曲が続き、音符が流れていく。

 サビが終わる。彼をじっと睨みつける。あの時と同じように、腕組みをして鑑定をするようにヘイヴの全身をなめまわす。ヘイヴは静かに口を開いた。「勝手にやってろよ、社会の犬」その腐った根性を、絶対叩きのめしてやるからな、そうヘイヴは無言で唱えた。

 間奏が終わる。ハッタの腕にわずかに力が入る。ここまで気迫のこもった演奏は初めてだ、彼は腰を引かせつつ、ジークの言っていたことを思い出す。『ハッキリ、彼の演奏技術は高校生以下です。しかし、情熱だけはどの銀河系よりも優れているでしょう』

 二番が終わる。ジークは天を見上げ祈っていた。それはまるで十三年前の高校生活のように、一度は忘れかけていたあの夢を、こうして再び願っている。大丈夫さ、ジークは同時に微笑んでいる。だって、あいつなんだぜ。三十歳まで夢を諦めなかった大塚彰浩なんだ。だから、やれるさ。ヘイヴ。

 ギターを弾く手は震えていた。思いは溢れていた。そしてその感情のまま、ヘイヴは声を上げ続けた。魂、自分の感情を表現するために。

 五分後、曲が終わった。

静寂の後、溢れんばかりの大喝采に包まれた。


   38


「見くびっていたよ」

 演奏が終わった後、ハッタはぼそりと呟いた。

「まさかここまで、クオリティーの高い演奏ができるとは……」

「できるんだよ」

 ヘイヴは食い気味に答えた。

「人の強烈な想いは、時にテクニックを覆すんだ。技術も確かに必要だ。必要だが、一番大事なのは『誰かに何かを伝えたい』という気持ちだろ?」

 彼の言葉に、ハッタは言葉を失ったまま茫然としていた。

 両隣の審査員もボールペンを握ったまま、顎に手を当てて考え込んでいる。

「悪い気はしないな」

 ヘイヴは静かに笑った。

「だけど、生活するために金銭は必要だ。表現を売るために歌詞を工夫することも必要だ。それは分かった。でも、もっと大事なものもあるってことも、俺は改めて分かったよ」


   39


 一曲分の時間が流れた後、かろうじて正気を取り戻したハッタは立ち上がると、ヘイヴの名を呼んだ。「どうしたんだ?」

「すまなかった。……謝罪したい」

 真っすぐに、彼は頭を下げた。

「いいや、もういいぜ。過ぎた話だ」

 ハッタが頭を上げると、ヘイヴは健やかに笑っていた。

「じゃあ、これでオーディションは失礼するな」

 破れかぶれな衣服を身にまとい、ロックンローラーは審査員に背中を向けた。

「少し待ってくれ」

 ヘイヴが扉に手をかけた時、ハッタが彼を引き留めた。

「……うちで契約してみないか」

 彼は深々と頭を下げ、声を低くして頼む。千載一遇の好機、ヘイヴはハッタの言葉を復唱した。俺もついに、プロデビューの道が開けるのか。

 しかし、彼はそれを断った。

「いいや、いいぜ」ハッタは目を丸くして、彼を凝視した。

「売れることよりも先に、俺はロックンローラーだ。このコンパクト・ディスクに詰められた旋律たちはお前に売られるために存在しているんじゃねえ。俺はビジネスで音楽をしていねえ。一人の人間として音楽と向き合っているんだ。だから、ここでは出さない。別の事務所からオファーをもらって、曲を出すのさ」

 審査員の一人が、突然立ち上がって声を荒らげた。

「いいのか、そんな馬鹿な真似をして。他の事務所から声がかかる保証はあるのか?」

「いいや、ないさ」ヘイヴは言い切った。

「は?」

「だから、ないのさ。当分ライブ暮らしだな」

 ヘイヴの顔には、済み切って晴れた笑顔が浮かび上がっていた。

「俺はあんたの所で曲を出したくない。せっかくのチャンスを逃す代わりに俺のプライドは守られる。ほら、なんかロックンロールみたいだろ?」

 これ以上ないほどに、ロックンローラーは笑っていた。

 帰り道、ジークが彼の肩を叩く。

「お前は馬鹿だよ、全く」そして、最後に付け加えた。

「だから最高だぜ、相棒」


   40


 またこうして、ヘイヴはライブに立ち続けている。

 再生回数は取れてきているとは言えども、まだ観客は増えることがない。六畳一間のボロアパートに住み続けて、売れる機会を狙い続けている。

 今日も誰も客がいないライブハウスに、彼の声がけたたましく響く。

「ロックンローラー!」

 何日何十年かかろうとも、ロックンローラーは諦めない。そこに自分がある限り。



Twitter(X)→@__Tougenkyou

(アンダーバーは2個だった気がします…間違ってたらすいません)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ