6. 恋人達
レイはへーベルグでの一夏のバイトを終え、アカデミーの宿舎に戻って来ていた。久しぶりに扉を開けた自分の部屋は、ひんやりと湿った空気が漂っている。
へーベルグでの魔獣退治や畑の防護柵の設置は、町の人に喜んでもらえてとてもやりがいのある仕事だった。領主のへーベルグ男爵にもよくしていただいた。
ただ、町の宿屋の主人から、金髪の青年が私を探しにへーベルグに来ていたと聞いた時は、胸が苦しくなった。きっとセシルが私に話をしに来てくれたのだろう。知ったのはセシルは既にへーベルグを去った後だったが。
――あのお茶会の日の夜、あのままセシルと肌を合わせてしまってもいいと思う自分がいた。でも、そんなことをしてしまったら、もうこの気持ちの抑えが効かなくなってしまうと思った。
セシルは私が離れていこうとすると、ものすごく怒る。これまでずっと一緒にいたのに、何も言わずセシルから離れようとしている私はセシルを裏切っているのだろうか? ちゃんと話をした方がいいのは分かっているけれど、もうずっと顔を合わさない方が楽なのではないだろうかとも思う。
レイは少ない旅の荷物を片付け、一息ついてデスクの椅子に腰掛けた。夏の間に公爵領にいる母から届いた手紙を手に取る。ペーパーナイフで開封すると、母の綺麗な字で書かれた手紙と、お手製らしい押し花のしおりが入っていた。
*****
レイ、元気でやっていますか?
もう一年以上こちらに戻って来ていないので、とても寂しいです。学業に励んでいるのはわかっているけれど、たまには顔を出してね。
お父さんもこの間怪我した足がほぼ治って、また元気に働いています。
お母さんは最近押し花を作るのに夢中です。
エーデルワイスの押し花が綺麗にできたので、同封します。本のしおりに使ってね。
セシル様はエレノア様との婚約を解消してしまったわね。非の打ち所がない二人だと思っていたけれど、色々あるものなのね。
セシル様、アスタルトの涙を探しに行くなんて急に旅立たれて心配ね。きっと今回の婚約破棄で、お辛い所がたくさんあるのでしょう。アカデミーで会ったら、優しくして差し上げるのよ。
体を大切に。
いつでも帰郷を待っています。
母より
*****
は!? セシル何をやっているんだ?
レイの頭からザッと血の気が引いていった。
婚約破棄? 何も問題はなさそうだったのに……
それに、アスタルトの涙を探しに行くって?
アスタルトの涙はその土地の豊穣をもたらすと言われている秘宝だ。かつてそれを手に入れた古代の王が何十年にもわたり豊かな恵みを享受したと言われている。今は、北の端のホワイトドラゴンが秘宝を守っているとかいないとか。
そんなおとぎ話みたいな秘宝、そうそう手に入る訳がない。そんな事はセシルも分かっているはずだ。
エレノアとの婚約破棄で、自暴自棄になっているのだろうか……
レイの胸にザワザワと黒い影が立ち込めた。
セシルの所に行かなくては――
レイは先ほど片付けたばかりの旅の荷物をまとめた。宿舎の誰もいない受付に、しばらく授業を休む旨走り書きを残し、王都の貸し馬の店に急いだ。
王都から馬を走らせること十日以上、レイはやっと北の地ギムレーに到着した。
そして今、レイは雪の降る山道を一人歩いていた。
最北端の山といえど、夏のこの時期に雪はおかしい。町で最大限に防寒着は揃えたが、三十センチほど降り積もった雪をかき分けながら進んでいると、手も足も痛いのを通り越して感覚が無くなっている。
先ほど日は沈み、木々の影の間からうっすらと青さを残す空が見える。レイは足元を光の魔法で照らしながら、遠くに見える山小屋の光を目指した。
昼にギムレーの町で見知った騎士が一人、緊迫した様子でギルドの職員と揉めているのを見かけた時、嫌な予感に胸がざわめいた。騎士はヴァロア家の騎士で、セシルと共にギムレーに来ていた男だった。
セシルが山で滑落し、騎士は助けを求めに町のギルドに来ていたのだ。ギルドではどうしても救出に行けるのは明日の朝になると話しているのを聞き、レイは「私が先に行きます」と言って装備をかき集め、飛び出して来たのだ。
セシルは滑落した時に岩に体をぶつけ、内臓と骨がやられているという……そして、この寒さだ。騎士はセシルを山小屋まで運んだと言うが、体温の低下も心配だ。
大丈夫、大丈夫だ。今日中にたどりつけば間に合うはずだ。大切なのは、確実に私が山小屋にたどり着くこと……レイはそう何度も自分に言い聞かせる。少しづつ近づいている山小屋の光に向かって走り出したくなるのを抑え、一歩一歩慎重に重い雪を踏みしめた。
やっとたどり着いた山小屋のドアからは、わずかに光が漏れていた。ドアを開けると、十畳ほどの小さな小屋は冷え冷えとしていて、吊るされたランプの弱い光が頼りなげに灯っていた。
「セシル!」
レイは暖炉の前にうずくまって倒れている影に駆け寄った。
倒れているセシルの青白い頬をはたいても、返事はない。しかしよく見れば、胸が弱々しく上下している。
暖炉の火は燻り、間もなく消えそうだ。
レイは防寒着をセシルに掛けると、暖炉に薪を多めに足し、出力を弱めた火の魔法でジリジリと薪に火を付けた。やがて薪はバチバチと音を立て炎をあげ始め、薪の炎が辺りを照らした。少し小屋の温度が上がってきた気がする。
レイはセシルの横に座りこむと、荷物袋から青紫色のガラスの小瓶を取り出した。セシルの護衛騎士から渡されたお金で購入した高価な魔力回復薬だ。
レイは元々、基本的な治癒魔法しか使えないが、アカデミーで一時的に魔力を高め、高度な魔法を発動させる技を学んでいた。ただ、一時的にでも自分の器以上の魔力を身に宿すのは体へのダメージが大きく、アカデミーで実践した時も意識を失いベッドに運ばれた。
失敗はできない……
レイは動かないセシルの顔を見つめると、自身に魔力上限を解除する術をかけた。
魔力回復薬の瓶を開け中の液体を飲み干すと、強いマスカットのような香りが鼻腔を突き抜けた。心臓が早鐘を打ち、ひどい頭痛が襲う。レイは、手に集まる強い魔力を感じながらセシルの胸に手をかざし、上級治癒魔法を唱えた。
レイの手から太陽のように明るい光と温かい風が吹き出し、レイの着ていた服がブワッと舞った。視界を白く消し去るような光がセシルを包み、その体の中に吸い込まれていく。
同時にひどい吐き気が込み上げ、レイの視界は狭まっていった。
レイが最後に見たのは、セシルが「ん……」と顰めた眉だった。
薪が燃えるパチパチという音と、雪に反射する白い朝の光に目を覚ますと、背中に温かく柔らかいぬくもりが有った。穏やかな呼吸音が背後から聞こえる。
レイがゴソゴソと抱えられている腕の中で体を回転させると、セシルがゆっくりと目を開け、こちらを見た。
「セシル、大丈夫?」
レイがセシルの頬に手をやると、セシルはレイを力強く抱きしめた。
「レイ、ありがとう……」
よかった……大丈夫そうだ。レイは安堵のため息を漏らすと、しばらくセシルの温かい腕の中でセシルの無事を噛み締めた。
暖炉の前に座り、セシルと一緒にパサパサとした乾パンを頬張る。こんなものでも多少は体に熱量を補給できる。
「何でアスタルトの涙なんて探しに?」
魔法で温めた白湯を飲んでいるセシルに聞いてみた。
「……未来が見えなくなってしまったんだ。どこに向かって進めばいいのか全く分からない。いつもと違う行動をすば、違う景色が見えるんじゃないかと思って……
ホワイトドラゴンを見たよ。ものすごく美しかった。でも、谷に侵入して怒らせてしまったみたいで。天候を変える力を持っているなんて、凄いよね」
そう話すセシルの視線は宙を漂っていて、未だ迷いの中にいるようだ。
やはり公爵家の跡取りとしての責務に悩んでいるのだろうか。そういう話は今までしたことがない。
セシルから離れすぎた……とレイは後悔した。
「相談してくれればよかったのに……」
レイがそう言うと、セシルはふっと苦笑した。
「レイがそれ言う?」
全くその通りだ。我が身可愛さに自分の気持ちを隠して、セシルから離れようとしていたのは私だ。
「――何でレイは俺から離れて行こうとするの?」
そう問うセシルの瞳は、迷子の子供のようだ。
セシルと深く関われば関わるほど、その後、身を切るように苦しむんじゃないかと思う。でも、自分を支配するこの気持ちを隠したまま、セシルの心を見せてもらえる訳がない。どうせ浅かろうと深かろうと、セシルから離れるのは、繋がっている血管を引きちぎるような痛みを伴うことなのだ。
痛くて苦しめばいい……
レイはセシルの目をじっと見つめた。
「セシル、好きだよ。ずっと前から……」
レイはセシルの肩に手を置き、ゆっくりと顔を近づけた。目を見張っているセシルの唇に、そっと口付ける。
軽く触れた唇を離すと、セシルの青い瞳が揺れていた。
「レイ……」
セシルはレイの頭を片手で支えると、瞳を瞑り、ゆっくりとレイに口付けた。
セシルの温かい唇に優しく喰まれていると、なぜだか子供のころ草むらで二人転がりながらじゃれあったことを思い出す。
セシルは顔を離し、レイの頬を優しく指でさすった。
「俺のレイ……」
セシルは決壊寸前の川ような苦しそうな熱量をたたえた目でレイを見つめると、再びレイに口付けた。
目を瞑って暗闇にいるはずなのに、目眩がするような眩しい光の奔流の中にいるようだ。
……ああ、私は何を恐れていたのだっけ? レイは心地よい酩酊の中、一瞬のような永遠のような長い時間セシルの口付けを受け止めた。
「レイ……ずっと俺の側にいて欲しい」
耳元でセシルの掠れる声がした。
「無理だと思う。でも……」
レイはセシルの肩に頭を置きうなだれると、「セシル、好きだよ」と再びつぶやいた。
セシルは何も言わず、レイの背中を痛いくらいに抱きしめた。