5. 隠者
お茶会から半月ほど経った休日、セシルはエレノアを馬に乗せ、王都から一時間ほどの森へ散策に来ていた。後方から着いて来る従者たちは、五十メートルほど距離を開けている。おそらく二人に気を使ってくれているのだろう。
馬上で横抱きに座るエレノアの肩は柔らかく華奢で、レイのしなやかに筋肉の着いた肩とは違う――などと、今考えるべきではないことが頭をかすめる。
あの日は本当にどうかしていた。あれからずっとレイとは顔を合わせていない。早く謝らなければ取り返しのつかないことになるとは分かってはいても、レイのことを考えるとザワザワと心が揺れ、以前のように穏やかな関係を築ける自信がない。
エレノアと美しい森の湖畔で休憩し、折り返し王都近くまで戻ってきた時には、暮れ行く空が一面に広がっていた。エレノアが寄ってみたいと言っていた古塔にちょうど良いタイミングで来ることができた。
古塔は少し小高い丘の上に立っており、エレノアと二人で上っていくと、古びた石積みの壁の向こうに王都の夜景が広がっていた。なるほど、女性が好みそうなロマンチックな光景だ。
「きれいですね」
エレノアのひんやりとする指がセシルの手を取った。
「そうですね」
そう言ってセシルがエレノアの手にもう片方の手を添えると、エレノアがじっとセシルの瞳を見つめた。
美しい人だと思う。こんな女性が自分の婚約者だということが未だ実感がわかない。
そんなことを考えているセシルの穏やかな笑顔に、エレノアがわずかに眉尻を下げた。
「セシル様が私のことを大切にしてくださっているのは分かってるのですが……
セシル様は私を恋愛対象としては見ていらっしゃらないですよね」
思いもよらない指摘に、すぐに言葉が出てこない。
貴族の結婚は恋だの愛だのとは言ってられないのが現実だと、エレノアも分かってくれているかと思っていた。
聖女の力を発現させたエレノアは、その土地の豊穣をもたらす。エレノアが国内で最大級の穀倉地帯を有するヴァロア家に嫁ぐことは、ヴァロア公爵家のみならず王家からも期待が大きい。
少し自分の都合のいい解釈をエレノアに向けていたのかもしれない……それは、そうだ。愛のある結婚の方が良いに決まっている。
「エレノア様とは、ゆっくりと関係を築いていきたいと思っています」
セシルはごく紳士の物腰で丁寧に答えた。
エレノアは思案げな瞳をセシルに投げると、何も言わず夕暮れの景色に視線を戻した。
今すぐ愛している振りなどできないし、そんなことをしてもこの聡明な女性には簡単に見破られてしまう気がする。一緒にいる時を積み重ねていけば、穏やかに愛情を築いていけるはず……いや、婚約してから三年近くが経つ。さすがに私のような男ではだめなのかもしれない……
セシルは沈みゆく夕日をぼんやり見つめながら、ため息をつきたいのをぐっと堪えた。
先ほどまで見事な茜色を見せていた空は、気付けばきれいな浅い藍色になっていた。
ふとこちらを振り返ったエレノアの瞳は、落ち着いた深い光を湛えていた。
「セシル様……私はやはり、一度きりの人生、深く愛し合える方と共に生きたいと思うのです」
真摯に話すエレノアに、上辺だけの返答はとてもできない。
この美しい聖女に恋焦がれる令息が何人もいることは知っている。彼らは私よりもずっと彼女のことを深く愛し、幸せにできことは間違いないだろう。
「……少し、時間をいただけるでしょうか」
やっとのことで返した言葉は、セシルの今の精一杯であった。
エレノアの問いに対する答えも出せず、レイに謝りにも行けず、停滞したままの日々を過ごしていると、先だと思っていた夏の長期休みに入ってしまった。
やっとの思いで魔法騎士科の宿舎に足を運んでみると、レイの部屋は閉ざされていた。
宿舎の学生に聞いたところ、レイはへーベルグ領に赴き、休みの間住み込みで魔獣退治の仕事をしているらしい。
レイは今年も公爵領に帰って来ないのか。二ヶ月近い休みの間ずっとレイに会えず、謝ることもできないなど、考えるだけでも憂鬱な日々だ。
セシルは自分の寮に戻り手早く旅支度を整えると、へーベルグ行きの乗合馬車に乗り込んだ。
乗合馬車に揺られること四日、たどり着いたへーベルグは、町の外に広々と畑の広がるのどかな土地だった。夏の日に照らされ、穂を揺らすとうもろこしが畑一面に広がっている。
レイはどこにいるのだろうか。暑さの中ふらふらと立ち寄った宿は、ひんやりと暗い屋内が心地よかった。
今夜の予約を入れ、カウンターにいる宿の主人に聞いてみる。
「この町に来ている、レイという魔法騎士の学生をご存知ないですか?」
穏やかな風貌の宿の主人は何の警戒心も見せずこちらを見た。
「ああ、あの魔獣退治をしてくれている魔法騎士さんね。
彼女は領主様のお屋敷に泊まっているらしいよ。夕方居酒屋に行けば会えるんじゃないかな」
領主の屋敷か……領主直々の依頼案件だったのだろう。思っていたよりも条件の良さそうな案件にほっとする。セシルは宿の主人にお礼を言うと、夕方になったら町の居酒屋に行ってみようと、それまで宿で体を休めることにした。
日が落ち少し過ごしやすくなったへーベルグのメインストリートには、所々に店の明かりが灯されていた。しばらく行くと、宿の主人に教えてもらった麦の穂の看板が下がる居酒屋を見つけた。居酒屋の明るい窓からは陽気な人々の声が漏れ聞こえてくる。
旅人の格好をしたセシルはフードを被ったまま店に入ると、空いているカウンターの席に腰掛けた。手元に置かれたメニューの紙を見ると、どうやらチキンの甘辛煮がここの名物らしい。
名物のチキンを注文し、先に出されたオリーブの漬物と一緒にエールをあおる。夏の火照った体に流し込むエールは、自分の体が疲れて強張っていたことを気付かせてくれる。
店内を見渡すと、五組ほどの客がそれぞれに晩餐を楽しんでいる。仕事仲間らしい男達や、家族ぐるみの付き合いのような集団、みな美味しそうにこの店の食事にありつき会話を弾ませている。
「チキンの甘辛煮、おまたせっ」
カウンターごしに店長らしき男が、みずみずしいレタスにオレンジに煮込まれたチキンが載った皿を差し出した。
「美味しそうですね」
セシルが少し目元を緩めると、人好きそうな店主は「美味いぜ」っと言ってセシルに話しかけてきた。
「兄ちゃん見ない顔だね。へーベルグは初めてかい?」
「ああ、ちょっと人に会いに……」
そうセシルが言った時、居酒屋の入り口がカランと鳴った。
「お、レイちゃん! 今日もお疲れ様」
居酒屋の主人がセシルの背後にいるであろうレイに声をかけた。
「トビーさん、こんばんは」
聞き慣れた声が返され、セシルはその心地よい声に酔った。
「レイちゃん、こっちこっちー! 一緒に飲もうぜ」
おじさん達のテーブルに誘われ、ブーツの音がセシルの背後を通り過ぎて行く。
「ゆっくりしていってくれ」
店主はセシルにそう言うと、レイの席へ注文を取りに行ってしまった。
レイは町の人々とテーブルを共にし、楽しそうに話をしている。
「レイちゃん、今年は畑に防御柵作ってるんだって? 雷の魔法が発動するってすごいな!」
レイは何やらおじさん達に説明をしているようだが、後ろを向いていてよく聞こえない。
レイは魔獣退治だけじゃなくて、畑の柵も作っているのか。それは一夏かかってしまいそうだ。
「レイちゃん、卒業したらこの町に住みなよー」
「そうだよ! 領主のじいさんなんて、この夏レイちゃんが来るのどんだけ楽しみに待っていたか。もう、孫かってくらいだぜ」
陽気に笑う町の人を見て、セシルは胸がグッと苦しくなった。
レイにそんな事を言わないでくれ……本当に公爵領に帰ってこなくなってしまう……
レイがどう答えているかは、喧騒にかき消されてよく聞こえない。けれど、あのテーブルがとても楽しそうな雰囲気なのはよく分かる。
レイはここにも居場所があるんだ。俺だけが昔のまま公爵領に取り残されている。レイのいない公爵領で俺は家を引き継いで生きていくのか? 何だか灰色の景色しか思い浮かばない。
俺、何かやりたい事なかったっけ?
セシルはどんよりと自分の心に問いかけた。
領地経営は結構好きだ。アカデミーでも政治や経済の授業は面白いし、父親の仕事を手伝いながら、ちょっとした自分のアイデアを活かしたりするのは心が踊る。
でも、そんな一つ一つをレイに相談して、報告して、一緒に喜んでもらえたら……
ライアンが言っていた『平民相手なんて、よくて妾でしょう……』という言葉が頭の中をめぐる。
そんなんじゃない。俺にとってレイは、もっと大切な……
反論はいくらでも出てくるが、ライアンの言っていたことが世間一般の見方なのは薄々分かっている。俺がレイをどんなに純粋に想っていても、それを理解して尊重してくれる人なんてこの世にいないのかもしれない。
レイ本人ですら……
セシルはレイに謝りに来たという目的も忘れ、フードを被ったまま会計を済ませると、静かにへーベルグの居酒屋を後にした。