1. 月
毎年初夏のこの季節、三大名門の一つヴァロア公爵家では、王国中の貴族や著名人を集め舞踏会が盛大に開催される。見事な彫刻が施された五メートルはあるであろうホールの入り口を入ると、煌めくシャンデリアの元、王国随一の音楽団が優雅な調べを奏でている。にこやかに歓談する美しく着飾った人々は幻想の世界の住人のようだ。
ヴァロア家の使用人であるレイは、光を反射する色とりどりのグラスをトレーに乗せて人々の間をゆっくりと歩いていた。レイは女性にしては少し背が高く、すらりとした手足に滑らかなシルクのブラウスと黒のベストとパンツを纏っていた。
「お飲み物はいかがでしょうか?」
ローズ色のシフォン生地に銀糸で細やかな輝きが施されたドレスをまとった令嬢に、フルーツのカクテルを勧める。令嬢は優雅な仕草でグラスを受け取った。
別にあの甘く華やかなドレスを着てみたい訳ではない。レイはそう思って、会話の輪に戻る令嬢を見送った。いや、以前は素敵なドレスを着て、彼と踊ることができたらと思った事もあった。今はもう、どうでも良くなってしまったが。
人々の間をふたたび歩き始めたレイは、視界の端にヴァロア公爵家の長男のセシルの姿を見つけた。
クリーム色のような優しい色合いの金髪に、深い海のような瞳。この舞踏会のホストの一人である彼は、沢山の貴族達に囲まれ歓談に華を咲かせている。
レイとセシルは、公爵家の屋敷で唯一歳の近い子供であった事もあって、幼い時からよく一緒に遊んでいた。そんな彼をいつも目で追うようになってしまったのは一体いつからだったか。
「あ。エレノア様がいらっしゃいましたわ」
近くのご令嬢がホールの入り口に目を向けた。
騎士にエスコートされた伏せ目がちなアメジストの瞳が美しい令嬢の姿が見える。
エレノアに気がついたセシルが入り口に向かい、エレノアのエスコートを交代している。
「セシル様とエレノア様、本当に美男美女で……」
近くのご令嬢たちが羨望の眼差しを二人に向けている。
昨年、セシルは聖女の力を持つ美しいエレノア嬢と婚約したのだ。
セシルはレイとは異なる世界に生きる貴族だ。穏やかに微笑み合う二人を見て胸が締め付けられるなど、おかしなことなのだ。きっとこの息苦しさもそのうち幻のように消えてくれるはず。
レイは二人から目を逸らし、人々の波の間に消えていった。
舞踏会も終盤にさしかかり、レイは眩しい熱気にあてられながらトレー上に集まった空のグラスを運んでいた。肩越しに「レイ」と、心地よい声が響き、ビクリとして振り返る。
パーティーの間中、ずっとセシルを探さないように意識していたので、すぐ後にいるとは気が付かなかった。
「少し休憩がしたい。庭のガゼホに水とジュースを持って来てくれ」
セシルの顔からはよそ行きの爽やかな笑顔が消え、少し疲れた様子だ。
「承知いたしました」
レイは軽く頭を下げると、リクエストの品を取りに向かった。
ホールを出ると、しっとりとした夜の風が光と熱気に火照ったレイ頬を撫でていく。緑の匂いが濃い整形式庭園を進んで行くと、しだいにホールから漏れ聞こえる音楽は遠くなっていった。
月明かりにガゼホの白い柱が浮かび上がっている。セシルはガゼホの石の椅子で、目を瞑りくつろいでいた。少し無防備な姿をしていても、セシルは自然体で一枚の美しい絵のようだ。こんなセシルのそばにいられるのもいつまでだろうか。
「お疲れですね」
レイがトレーに持ってきた飲み物と果物をテーブルに並べると、目を開けこちらを見たセシルは「ありがとう」と言ってグラスの冷水を喉に通した。
「レイも喉かわいているんじゃない? 飲んで」
セシルに勧められジュースを口に含むと、冷たく酸味のある果汁がホールで歩き回った体に染み渡った。
セシルに促され石の椅子に腰掛けたレイは、夜空をぼうっと見上げた。白く輝く月がゆっくりと鉄のドームに絡まる蔦の間を移動していく。
ふと横に目を向けると、セシルがこちらを見ていた。セシルの瞳は月の光で艶やかに潤っていて、夜の海のようだ。
「レイ、光の魔法やって」
セシルのお願いにレイは目だけで『いいよ』と答え、指揮者のように右手を宙に滑らせた。
レイの指先から流れ出た光の粒子がふわりと広がり、瞬きながらゆっくりと消えていく。
レイはごく普通の平民の両親から、なんの突然変異か魔法の能力を持って生まれてきていた。