大切だったはずなのに
家を出る。
眩しい光が視界を覆い、目を細めた。
「うぜぇ……」
小さく声が漏れる。
けたたましく鳴く蝉が、嫌がらせのように降り注ぐ太陽光が、とてつもなくうざったい。
ニートに人権はない? 勘弁してくれ。こっちはこっちで必死にやってんだよ。どの立場で物言ってんだ。……正社員か。クソ。
カチャン、と鍵を掛ける。家賃の安さだけを重視して選んだ物件らしく、安っぽい鍵の音が響いた。こんなにボロけりゃ1階だろうが2階だろうが関係ない、と安易に選んだ1階だが、階段もないし、後悔はない。……俺みたいなやつを狙ったところで、強盗の得られるものが少なすぎるしな。ハイリスクローリターン。同情するぜ。
アパートを出て、歩いてバイト先へ向かう。
低賃金のここで働かざるを得ないのは、単に自分の面接力が無いからか。……家賃、物価はともかく、給料の安さにこだわった覚えはないんだけどな。
「こんにちは」
「……っす」
すれ違うおばさんが挨拶してくる。
良い笑顔してんじゃねぇよ。俺に挨拶するなんざ、何か良過ぎることでもあったのか? 俺でバランス取ろうとするんじゃねぇ。
友だちもそういない俺に必要なのは、可愛い彼女……なんて高望みはしないが、多少の癒しは許されても良いんじゃないかと思う。いや、そもそもたかがニートに彼女なんか出来る訳がないか。俺なんかと付き合ったところで、得られるものが少なすぎる。いい加減学べ、俺。
そこまで考えて、思考を止めた。このままじゃ健全な精神が壊れてしまう。危ねぇ。……もう、とっくに手遅れかも知れないが。
「お疲れ様でーす」
「お疲れ様」
コンビニに入ると、かわいい店長が出迎えてくれる……はずもなく、むさいオッサンの疲れた顔が、一瞬俺を捉えただけだ。
「ねぇ岡村ちゃん、いい加減女作んないの?」
「『彼女をつくる』なんて言っていいのは、勝ち組の中でもごく一部っすよ」
「あー……」
そりゃそうだ、なんて顔でまじまじと俺を見ないで欲しい。やめてくれ。顔面偏差値低いのも分かってんだ。
ほとんど無い荷物を雑にレジ下の棚に突っ込み、エプロンを着ける。名札まで着けたところで、レジに向き直った。
「ほら、あの子なんてどう?」
スイーツを真面目な顔で選ぶ女の子を顎でしゃくった店長に、思わず苦笑する。確かに可愛いが、JKはさすがに歳が下すぎやしないか。ロリコンの定義って何だっけ。
「俺に選ぶ権利なんて無いっすよ」
「いや、多少のワガママは言ってかないとさ、岡村ちゃんも男でしょ?」
「……多少のワガママ、ですか」
男ならワガママを言って良い? いや、よりワガママなのは女の方じゃないか? だからこそか? ……そもそも、男だの女だの言っている奴ほどモテない気がするのだが、どうだろう。
現に、昔付き合っていた彼女だって……いや、よそう。別れた女のことなんか考えたって、何の利にもならない。
「あれ、その顔……もしかして、気になる娘でもいるの?」
「い、いないっすよ! やめてください。仕事しに来たんすから」
店長を振り切って品出しに向かう。田舎の昼下がり、人気のないレジから1ミリも動かない店長は、使えないのか、店長として俺の様子を見ているのか。
どちらにせよたちが悪いじゃないか。
少し腹が立ったところで頭を切り替え、大量の段ボールに面と向かった。
「あれ、悠二くん」
男は、好きな女の声を聴くだけで、その感触や喘ぎ声まで詳細に思い出すことが出来るという。……寝た経験のある相手だけなんだろうが。
だからと言って、数ヶ月ぶりに急に声を掛けられてそんな情報が頭を占める訳もなく、肩をビクつかせた俺は、ゆっくりと振り返った。
「ひ、久しぶり」
我ながら情けない声だ。振られたのも頷ける。そして何故か、手に持っていた品出し中の商品を後ろ手に隠している。全く意味が分からない。
「何そんな引きつった顔してんの」
ぷくく、と笑った彼女は、あの時と変わらない笑顔で俺を捉えている。
「べ、別に。びっくりしただけだよ」
手に持っていた商品を棚に並べ、空になった段ボールを畳んでまとめる。
「そっか。ねぇ、シフトいつ終わるの?」
「はぁ?」
突拍子もない質問に、思わず間抜けな声が出る。何訊いてやがんだ。何考えてる。
「……いつでも良いだろ」
逃げるようにレジへと向かう。纏わりついた嫌な予感を振り切りたくて、振り切れない。
「うー、けち! じゃあずっとここで待ってるから!」
やっぱりな。そう思うと、大きな溜め息が出た。
ガキみたいに腕組みをし、レジ前を占領する彼女。同い年とは思えん幼稚さだ。
「バカ、本気かよ? ……ったく、もう数分で終わるけど」
「ほんと? やった! じゃ、そこの公園で待ってるから」
バイバイ! と元気に手を振ってコンビニを出て行く彼女。
……だから嫌いなんだ。人の気も知らないで、気が済むまでブンブン振り回しやがる。
「何? 彼女?」
「な訳ないじゃないですか」
「ふーん」
意味ありげに笑った店長が、「もう上がっていいよ」と肩を組んでくる。
「いや、急いで駆けつけるとか嫌なんで」
「……そういうとこじゃない?」
「無い頭で考えるより行動だよ、悠二くん」と頭をポンポンされる。うぜぇ。
「あと5分ですし、ちゃんと働いて帰ります」
店長の手を静かに押し退け、箒を持つ。
「掃除!? 嘘でしょ、真面目過ぎない!?」
後ろで喚く店長を無視し、黙々とちりを集める。
うちの店に客が来ないのは、……そういうとこでしょ、店長さんよ。
残り5分、俺は、これまでにないくらい丁寧に掃除をした。ちなみにゴミは、塵ひとつ出なかった。
「あ、悠二くん!」
遠くからぶんぶんと手を振って俺を待つ彼女。
ベンチではなく、ブランコの囲いに腰掛けていた。「ここより近付くと危ないですよ」と知らせる目的の柵なのだろうが、残念ながら、子どもも大人もよくここに腰掛ける。高さが、子どもの腰より少し高いくらいでちょうどいいのだろう。
「で、何の用だ?」
「その言い草は無いんじゃない?」
ぷっくりと頬を膨らませた彼女。何を企んでやがるんだ。勘弁してくれ。俺に何も求めるな。
「会いたいから会う、じゃだめなの?」
「それは今の恋人に向けて言ってくれ」
「嫌味?」
「上手くいってないの」。そう零した彼女に、俺は小さく溜め息を吐く。
「そうか。だからって俺をからかいに来るのも違うんじゃないか?」
「からかって……そんな風に見えた?」
まずい、と思った。
でも止められない。
「少なくとも俺にはな。勘弁してくれ。厄介事は背負いたくない」
「そっ……か。そうだよね、ごめん」
泣きそうな顔で笑った彼女。
少しの衝撃で壊れてしまいそうなほどか弱くて、まかり間違えば抱きしめてしまいそうで、歯を食いしばる。
「そうだよね、もう、無理だよね」
「ごめん、ごめんね」と繰り返した彼女は、腰掛けていたそこから離れ、俺から背を向ける。
「嘘だったんだ、全部。まだ、大好きだったんだよ」
「……っ、」
なんで。
そう言葉が出そうになって、慌てて止める。
俺じゃ幸せに出来ない。分かっていることだろう。
嘘だろうが、関係ない。彼女が幸せになるのに俺は必要ないから。
「悠二くん、そっけないから。意地悪してみたくなっちゃったの。ずっと会いたかった」
「……悪い」
「ううん、悪いのは私だよ」
「じゃあね」と濡れた声で言い捨て、去って行く彼女。
だから嫌いなんだ。人の気も知らないで、気が済むまでブンブン振り回して。そういうところが好きだなんて、今更ながらに痛感させて。
ほっとけよ、俺なんか。好きな奴、いるんだろ? 嘘だった? 知るかよ。俺の数ヶ月、返せってんだ。
もう見えなくなった彼女の後ろ姿をまだ追っている自分に気付いて、目を逸らす。
追わない。だって俺は、変われないから。
大切だったのに。大切だったはずなのに。
遠くを歩くサラリーマンを睨み付け、空を見上げる。
眩しい。沈みかけた太陽が滲んだ。