いたずら
閉館まで図書館にこもり、やっとのことでレポートを終わらせた。
夕飯はまだ食べていない。お腹が減りすぎて眩暈がする。自転車が少しふらついた。何度か瞬きをする。
マンションの駐輪場には、いつもより多くの自転車が停まっていた。学生マンションなので、きっと飲み会でもあるのだろう。何しろ今日はハロウィンだ。最近のハロウィンの盛り上がりにはついていけない。ため息が出た。
エレベーターの中は、どこかアルコール臭かった。蛍光灯が照らす廊下の床には、いくつもの足跡がうっすらと残っていた。飲み会で騒ぐ学生の声が、同じ階の部屋のドアから漏れて聞こえてきた。
ポケットから鍵を取り出し、自分の部屋のドアを開けた。玄関でスニーカーを脱ぐ。後ろでドアが閉まった。鍵を閉める。上の内鍵も閉める。リビングへ続くドアを開けた。
灯りをつける。思いのほか眩しくて目を細める。
リュックを置き、上着を脱いでハンガーに掛けた。キッチンに向かい、冷蔵庫の中身を確認する。
「何作るの?」
知らない声が聞こえた。冷蔵庫のドアを閉め、声のした方を振り向く。
「うわ、急に動かないでよ」
それは俺のすぐ後ろに立っていて、身体がぶつかりそうになった。スカートの裾が揺れる。
「誰だよ、お前」
後ろに立っていたそれを、俺は足元から頭まで眺めた。俺の肩ぐらいまでの背をしたそれは、足元が少し透けていた。
「ちょっと、私のこと、覚えてないの?」
それは、腰に手を当てて口を尖らせる。
顔を見てもピンとこないが、服には見覚えがあった。
それが着ていたのは、俺の出身中学の制服だった。
「……お前、幽霊か何か?」
透けている足元を見ながら訊ねた。
「当たり前でしょ、死んでるんだから」
そう言ってなぜか胸を張る。あまりふくらみは無かった。
「ねえ、私のこと覚えてないの? 二年の時に同じクラスで、隣の席だった――」
「知らねえよ、出てけ」
中学の時のことなど、もうほとんど覚えていない。思い出したくもなかった。
俺は冷蔵庫を開けて、白飯とサラダを取り出した。ご飯茶碗をレンジで温めつつ、冷蔵庫を再び開けて缶チューハイを取り出す。
「あ、ちょっと! お酒飲むの?」
「うるせえ、出てけ」
「未成年はお酒飲んじゃダメだよ!」
「二十歳越えてるっての」
「あ……」
俺はコンロで鍋を温める。鍋の中身は筑前煮だ。
「そっか、もう何年も経ってるもんね」
しんみりとした声を出されて、俺はイライラした。筑前煮の汁がぷつぷつと沸きはじめる。
「お前さ、さっさと出て行ってくれない? それとも、何か用でもあるわけ?」
俺はシンクの前に立つそれを睨んだ。物珍しそうに缶チューハイを眺めていたそれは、俺の言葉に怯むこともなく、ぽかんとした顔でこちらを見てきた。
「私の話、聞いてくれるの?」
しまった、と思った。
「いや、出てけ」
「私、君に用があって来たんだよね」
「出てけよ」
「話を聞いて」
思いがけず強い口調で返されて、俺は怯んだ。
それは、幽霊の割に鋭い眼光をしていた。
レンジがチンと鳴った。
俺と幽霊は、夕飯が並んだテーブルを間に挟んで、相対して座っていた。
「私の名前、覚えてる?」
先に口を開いたのは幽霊の方だった。
俺は答えなかった。缶チューハイを開け、グラスに注ぐ。
「……覚えてないんだね」
炭酸の弾ける音が、やけに大きく聞こえた。
俺はグラスの中身を呷る。いつもは爽快な炭酸の刺激が、今日はやけに痛かった。
「星野京子」
幽霊が口にした名前は、それ自身のものではなかった。
「……お前、いやがらせか?」
グラスを置き、幽霊を睨む。
「そうだね、いやがらせだよ。今もまだ付き合ってるの?」
「そんなわけねえだろ」
「……そう」
幽霊の記憶は中学の頃で止まっている。
何しろ死んでしまっているのだから。
「……泣いている人は、いた?」
「何の話だ」
「葬式とか告別式の話」
「知らない。俺は行ってない」
「そう」
目の前の夕飯は湯気を立てている。
眩暈がするほど空腹だったはずなのに、食べようという気になれなかった。
「星野さんをどうして止めなかったの?」
幽霊が発したその質問で、部屋の温度が一気に下がったように感じた。
喉に手を掛けられているような息苦しさがあった。目に見えない何かが、俺の首を絞めている。声が出ない。
「……俺は、星野のこと、別に好きじゃなかった」
喉の奥から言葉が押し出される。小さく掠れた声だった。
残った歯磨き粉を絞り出すように、見えない何かは俺の喉を絞めていく。
「あいつが、告白してきたから、付き合っただけで」
そうやってこぼれ出てくる言葉は、すべて俺の本心だった。
「あいつのやっていたことは知っていたけど、俺にはそれを止める気なんてなかった。どうでもよかった」
「じゃあさ」
幽霊はにやりと笑った。
背筋に寒気が走った。
「もし私がこれから星野さんを呪いに行くって言ったらどうする?」
俺は唾を飲み込んだ。
ぱっと、首から手を離されたように感じた。
一呼吸置いて、口を開いた。
「お前の好きにしたらいいだろ」
「……本当に興味がないんだね」
幽霊はつまらなさそうに呟いた。
「ああ、俺には関係の無いことだ」
「君のその無関心が、私を殺した」
幽霊の目には、怒りとも悲しみとも違う、鋭い凶器のような光が灯っていた。
「お前が死んだのは、お前の意思だろ」
「君たちがいなければ、私はまだ生きていた」
「責任転嫁するんじゃねえよ」
「君は自身の犯した罪を自覚するべきだ」
「無関心が罪だって? 全然興味の無いどうでもいい奴のために、どうして俺が動かなくちゃいけないんだ」
「じゃあ聞くけれど、私が星野京子に虐げられているのを見て、君は何も思わなかったのかい?」
「ああ、思わなかったよ。何とも思わなかったね!」
その時、突然グラスが倒れた。
カタン、と静かに倒れたグラスは、中身をすべて吐き出していた。
「……君は今、嘘をついたね」
幽霊が低い声で囁く。どこか嬉しそうな響きを含んでいた。
「嘘つき! 嘘つき! 君は嘘つき!」
節をつけて口ずさむ。
「君は私が虐められているのを見て、少しは心が痛んだわけだ。なのに、無関心を貫いた。嫌だなあ、どうして助けてくれなかったの?」
幽霊の姿が歪んでいく。真っ白な肌に赤いひびが入っていく。
俺は視線を逸らした。
「ふふ、知っているよ。君は星野京子が怖くて、何もできなかったんだ。そんな自分が恥ずかしいから、そうやって目を逸らすんだ」
高らかに笑う声。古びたスピーカーのように擦れた音だった。
その音に耐えられなくなり、俺は倒れたグラスを掴んで幽霊に投げつけた。
グラスは幽霊をすり抜けて落下した。ガシャンと割れる音が部屋の中に響いた。
幽霊の笑い声が止まる。
照明が元に戻る。
「もう、十分だろ」
俺は呟いた。
「出て行ってくれ」
冷たい風が、ふわりと吹いた。