2. 護衛人
街の西区、華やかな中央区を反転させたとばかりの暗黒に包まれた地区にある、古い雑居ビルの二階。乱雑に置かれたソファに、噂の不殺の護衛人は腰を下ろしていた。
彼は肘を付きながら、眼前に立つ男性に怪訝な視線を向けている。
年齢は十八、九あたり。この年齢なら学生をやっていてもおかしくないが、彼は違う。
まるでメラニズム化したと錯覚するほど黒い。髪の色はもちろんだが、瞳の色も身に付けているスーツも履いている革靴すらも。唯一覗かせている肌が白いこと以外、彼は黒という色一色に覆われていた。
「これは、さすがに驚いたな」
思わずといった様子で呟き、青年は先ほど読んでいた資料を投げ捨てた。
蝋燭の火が点々と照らす室内で、煙たくなるほど空中に舞っている埃を出来るだけ吸わないように、薄く呼吸する。
青年はため息をこぼしながら、
「ようやくオファーがきたと思えば、弱小も弱小の辺境貴族じゃないか。ここまで地位と名誉が失墜した記録を見たのは初めてだ」
「まあ、そうだろうなあ」
執務机にもたれ立っていた男が、襟を正しながら地面に落ちた資料を拾い上げる。控えめに言っても『残念』と評するべき資料を一瞥してから「はっ」と乾いた笑いを吐き出し、机に置かれていたビンウォッカを飲み干した。
四十過ぎに見えるこの男性は青年の直属の上司である。実際は三十代前半なのだが、自身に興味がないのか、だらしなく伸ばした無精髭や寄せすぎて固まってしまった額の皺、それに加えて酒癖の悪さが彼の威厳を地に貶め、年相応と言われない理由である。改めて上司の姿をまじまじと見てから、青年は鼻で笑った。
スーツがこれ以上なく似合う引き締まった長身で、大人びた雰囲気を醸し出していても青年は未成年である。護衛人というものは着任先で苦労することのないように、一通り嗜好品の類に慣れておくべきなのだが、彼はこういった嗜好品は苦手である。
しかし、彼への嫌がらせとばかりに部屋には飲み干した酒ビンが転がり、カーペットにはこぼした酒や煙草の吸殻が付着している。これを上司一人でやからしたのか、と言われればそれは違う。
当然ながら、二人以外にもこの部屋を利用している人間はいる。しかし、今日は所要があって出払っているのだ。
「そんで、お前はこの依頼を受けるのか?」
「受けるよ。ようやくきた依頼だし、何より弱小貴族ってのが良い。規律とか全然厳しくなさそうだからな。しかし、オーレウスト家とは驚いたな」
改めて資料に記載されていた内容を思い出して眉を寄せる青年。
「建国者アーガルムに連なる王族、レトランス家の分家。つまりこの国のトップツーにもなりえた家系だ。まあ、今はこの有様だがね」
「確か、『レジスタンス』の奴らと密会している場面を抑えられた……だったか? それのせいで周りの貴族たちに糾弾され、地位を失墜。今はアーガルムの東の果ての田舎町でひっそりと暮らしているとか何とか」
「その通り。ま、実際レジスタンスと密会していたなんて事実は確認されていないから、それが正当なものだったのか違法なものだったのかは平民の俺たちにはわからん。貴族社会だから、なおさらな」
普通であれば、そこまで権威のある家系が糾弾されただけで僻地へ追放される事は、まずありえない話だ。問題を起こした場合、新聞に取り上げられた後に国民投票などが行われ、評議会によって処遇が決定する。それが貴族の一声で決定してしまうのはありえないし、それでは国民も黙ってられないはずだ。
「本当に嫌な社会構造だ。馬鹿馬鹿しい」
嘆息混じりの青年の声が、吹き抜けの一室に反響する。
アーガルム王国は貴族社会である。それは言葉通りの意味で、貴族が主権を持ち、貴族が決定権を持つ絶対王政ならぬ絶対貴族政だ。
身分制度は三段階に分けられており、全人口の約〇・五割の第一身分に属する王族や貴族は結婚の自由や営業の自由を持ち、かつ免税という特権を持つ。第二身分には商人が属し、貴族との癒着により資金と営業の自由を獲得している。第三身分には全人口の八割を占める平民が属している。
平民は主に過度な税の徴収により国を支えているが、政治的には無権利である。そのため、商人の癒着や貴族の横暴さに声を上げることが出来ない。
王は存在するが、貴族の傀儡に過ぎないのが現状だ。
「さてと、正規な手続きを踏んでいない非正規の護衛人に依頼するということは、それなりに性急な案件のようだが、本当にいいんだな?」
「なんだ。そこまでもったいぶることなのか?」
「いや、まあ……なんだ。とりあえず指印してくれ、この誓約書に」
しどろもどろに促す上司に、得体の知れないものの上を歩くような疑いを抱きながら、青年は印肉を付けた指を誓約書のサイン欄にぐっと押し込んだ。
――すると、ニヤリと口元を歪めた上司は、
「よしさあ、決まったな? オーケー、それじゃあお前が担当するエレナ嬢の概要について話すぞ。文武共に優れていて、容姿端麗。さすがは分家のお嬢様って所だな。しかし、エレナ嬢はその昔、レトランスとオーレウストやその他貴族が参加した会合の際に、貴族社会の根幹を揺るがす大きな事実を盗み見てしまった。それを最近になってレジスタンスが気付いたらしい。つまりは――」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、矢次ぎ早に言われてもさっぱり意味が判らない!」
「エレナ嬢にはレジスタンスの接触が発生する」
青年の静止の言葉には聞く耳持たず、上司は全てを言い切った。
「あ……あ、まじか?」
「大マジだ。残念だったな、弱小貴族で楽々な暮らしを出来ると思ったか?」
上司は喜色満面。手を叩いて笑いそうなほど頬をピクピクと引きつらせている。このまま沈黙が続けば、間違いなく吹き出すだろう。
青年は唖然とし、脱力したようにバサリと誓約書を地面に落とす。
「ハメやがったな、この野郎」
うな垂れそうになる体をなんとか持ち堪えて、青年は毒づく。
「俺は訊いたはずだぜ、本当にいいんだな? と」
護衛人は契約書に指印したその瞬間から、一年間は死亡などの例外を除いて契約を解消する事は出来ない。青年がうな垂れた理由は、それが今この瞬間に適用されてしまったからである。
「……はあ。もういい……で、さっきの概要についてなんだが、いくつか訊きたいことがある。オーレウスト家がレトランス家らと肩を並べていたのは十年ほど前のはずだ。つまり、エレナ嬢は十年以上も前に見たその秘密とやらを今でも覚えているというのか?」
青年は諦念混じりの声で問う。
「ああ。覚えている」
「えらく確定的に物を言うんだな」
眉を寄せて言う青年に、上司は「まあ、こればっかりなぁ」と額をトントン、と指で叩く。
「信じ難い話だがな。圧縮記憶法って知ってるか?」
「確か、一度見たものをソレが何かは覚えていなくとも、内容そのものは記憶する事が出来る能力……だったか? 生まれつきの一種の特殊能力だと聞いているが」
「正解だ。その能力をエレナ嬢は持っていて、おそらく今も当時のことを覚えている。その情報を狙ってレジスタンスの奴らが動き出しているってのが現状だ。実際、奴らからすれば貴族の汚職案件なんてのは、喉から手が出るほど欲しいだろうからな」
上司は先ほどとは表情を一変させ、嘆息混じりの声で言う。
『レジスタンス』――貴族一等の社会に抵抗する啓蒙思想を持った、反社会団体。貴族を淘汰し、平民が主権を持つ完全平民社会の成立を目指す集団だ。彼らは目的のためならば手段を選ばないし、不利益となる人間の殺害やテロ行為も厭わない。
上司の言うとおり、貴族社会の根幹を揺るがす重大な事実を手に入れる事が出来れば、彼らからすれば最大最強の武器となる。
青年はため息を口の中で押し殺す。その代わりに、恨み辛みのような言葉が紡がれる。
「だから護衛人を雇うと。いや、護衛人は元々レジスタンスに狙われたときに対処する事が出来るように雇われる存在なのだから、正当な理由か。しかし、解せないな。そんな重大な案件、なんでウチみたいなオンボロに依頼したんだ?」
「簡単な話だよ。そんな重大な案件を抱えている息女がいるとしれば、貴族たちはエレナ嬢を確実に消しに掛かるだろう。オーレウスト卿はそれだけは避けたいんだろうさ。だが地位の失墜した今、護衛人を依頼できるツテは皆無だ。だからこそ、民間警備会社みたいな弱小に依頼したんだろうよ。こんなクソ案件を引き受けてくれるところにな」
「俺は概要を初めから説明されていれば引き受けなかったぞ」
「最初から説明する気なんざねえよ。お前がこの依頼を受けることを見越して話してたんだからな」
得意げな顔で言う上司に、悪態の一つでも吐きたいと言わんばかりに青年は額に手を当てた。
「わかった。もういい。今更何を言っても誓約書にサインしてしまったんだし。明日からはエレナお嬢様の護衛人として従事することに――」
細い息を吐きながらソファへどかっと座り込もうとした青年は、少し違和感を覚えて言葉を紡ぐのを止める。レジスタンスの人間がエレナの存在に気付き始めているのならば、オーレウスト卿が護衛人を手配することも察しているのではないのかと。
郵便を行うのは商人らだが、少なくとも貴族に反感を持っている商人も存在する。オーレウスト卿からの依頼書の配送先を特定することも容易だ。
「ああ、お前が今思った事はもちろん、俺も思っている。おそらく……いや、間違いなくここは特定されているだろうなあ。いつ襲撃されてもおかしくない」
上司が煙草を吹かしながら、しまりない顔で言う。
「そんな暢気な……」
「どの道もうバレてるし、なんならビル周辺に何人か張ってるよ。警戒はしているが、だからといって何をしても一緒さ。ま、俺はそれを見越していたからこそ今日お前を呼んだんだ。誓約書のサイン自体は別に明日でもよかった」
「…………」
青年は静かに視線を落とす。そういえばコイツはこんな奴だったなと後悔しながら。