橘兄弟の姉妹生活
兄である『橘左衛門』
その弟『橘内蔵助』
仲の良い橘兄弟に降りかかった災難には筆舌に尽くしがたい苦悩がある。
しかし世の災厄の中ではさして大きな事件では無いため、一言だけ簡潔に説明させていただくならば、
ある日彼ら兄弟は『姉妹』になってしまったのである。
○
左衛門という男は目覚まし時計を使わない。生まれてから16年間、とくにこの10年間は寝坊というものをしたことがない。
6歳のときに弟が生まれてから左衛門は、その弟に恥じない理想の兄たらんことをその身に固く強いている。ただ朝に起きる程度のことを何かに頼るような軟弱な男ではないつもりなのだ。
実際のところは椎茸が苦手であったりと程々に軟弱ではあるのだが、それはともかく機械を頼ることなく今朝も時間通りに目を覚ました。
左衛門の朝は早い。日課の早朝ランニングもあるが、今日は弟のために朝食を作らなくてはならない。まずは顔を洗おうと欠伸を噛み殺しながらベッドから降りる。
…………、
……………、
……左衛門は勘がいい方だ。毎日目覚める自分の部屋の景色がいつもと違うのにすでに気付いていた。
部屋はいつも通りだ。整理整頓を心掛けているの己の部屋に誰かが入り込んだならすぐにそれと気付くことも出来るつもりである。部屋中を注意深く見てもそんな形跡は無い。
どこだ……?
違和感の正体。未だベッドの上から部屋中に気を巡らし、その気配を探る。
「そこだああああああ!!!!」
道場では反応不可の『居合い』とも言われる左衛門の高速の左拳が、本来この部屋に存在しないはずの違和感を瞬時に掴み取る。
違和感の元は意外なほど至近距離にあった。
具体的には、左衛門自身の両胸に。
「……………」
長く着ているせいで少し伸びてしまっていたタンクトップが張り裂けんばかりの胸の隆り。毎日の鍛錬で鍛え上げ練り上げられた胸筋が、一晩にしてここまでの急激な進化を遂げた………わけではない。
世界のトップボディビルダーでもここまで異常に胸筋だけを鍛えることはできない。
というか筋肉というのはこんな柔らかいものじゃない。
今まで鍛え上げ練り上げてきた筋肉がこんなマシュマロのように柔らかくしかも風船のように膨らんでいる。
左衛門は寝ぼけているのかと、まずは自分を疑った。
「………なん…だこれ?」
自分の胸筋の上に、女の乳房のようなものが張り付いている。
目覚めからおよそ2分。裂帛の気合いと共に自分の両胸を鷲掴みにしたまま、左衛門はしばらく固まっていた。
しかしどんなに揉んでも引っ張っても、その二つの膨らみは揉まれ引っ張られる感覚を主である左衛門に伝えてくるだけである。
(落ち着け…、落ち着け男橘左衛門。真の漢は動じない……)
ひたすら己の胸を揉みし抱きながら、そんな考えが染み出すように心中で膨らんできた。胸のように。
これは夢ではない。全身の神経がそう訴えている。
左衛門は部屋から飛び出した。
どたどたと廊下を走るが違和感だけが背筋を逆撫でしてくるようだ。
上手く歩けない。走れない。景色が低い。
足の長さが違う。背丈が違う。
いつの間にこんなに伸びたのか髪の毛が冷や汗でまとわりつく。
走ると膨らんだ乳房が暴れ肉が引っ張られてとてつもなく痛い。
洗面所に辿り着く頃には違和感は確信に変わっていたが、それでも左衛門は鏡を覗いた。
橘左衛門は先々月の六月に16となった大和男子である。
あったはずだ。
今、鏡に映っているのは、見たことも無い女子だ。
それは紛れもなく、今現在の左衛門の姿だ。
「……………」
左衛門は常日頃から男の中の男を自負していた。
が、女だ。
真の男はどんな事態にも決して動じないものだと考えていた。
が、女だ。
何故だかはわからないが、自分が女になっている事実がわかった。
町を歩けば近隣高校の不良たちが避けて通るほどの自分が、今は町を歩けばすれ違う人が振り返るような女子になっていた。
左衛門は泣きたくなった。
「どうなってんだよこれ、声まで変わって……」
「……兄ちゃん」
ハッとする左衛門。あまりの自体に頭から抜けていた。こんな姿を弟に見せられるわけがない。兄として、そして男として弟の見本であるよう生きてきたというのに。
だが時すでに遅し。弟はすでに兄の変わり果てた姿を見てしまった。
「……うぅ~兄ちゃん」
そこで自分を呼ぶ声が弟のものではないことに気付く。
振り返る左衛門が見たのは弟ではなかった。
兄もまた、弟の変わり果てた姿を見てしまったのだ。
「内蔵助…、なのか?」
目に一杯の涙を溜めて縋るような目で兄を見上げる仕草は間違いなく内蔵助だ。
しかしそこにいたのは内蔵助ではなく、
左衛門は自分の身に起こったことを自覚しながら、目の前にいる可憐な少女が紛れもなく弟の内蔵助であることを悟った。
○
落ち着いて考えれば原因には心当たりがあった。
昨日のことである。
八月も残りわずかとなったところで内蔵助の白紙の宿題の存在が発覚し、兄として弟を叱ったはいいがそれで問題は解決しない。何とか兄弟で問題集を埋めたのだが時間が少なすぎたので救け船を呼んだのだ。
左衛門のクラスメイトに自称魔法使いの弟子を名乗る女子がいる。
電話で事情を話すと条件付きで承諾してくれたのだ。3人掛かりで内蔵助の夏休みの宿題は昨日一日でめでたく片付いた。
問題は条件だ。
魔法の実験台になることが、その条件だった。
「おいこらアッコ!!お前俺たちに何飲ませた!!?」
「何なんですかサエちん、今何時だと思ってるんですか」
「もう朝の6時半だろうがサエちん言うな!!」
「昨日の物質魔力のことですか? …てまさか、やっぱり成功してたんですかやったー!」
「話を聞け!やっぱあの薬のせいなんだな!」
「ひゃっほーこれで師匠に怒られずに済みます。ざまーみろー」
電話の向こうの魔女に怒鳴るも話にならない。
直接殴り込んだ方が早そうだと諦め、左衛門は受話器をチンと置いた。
「兄ちゃん……」
その後ろから情けない声が掛かる。少女の姿となった内蔵助がまたも縋るような目で左衛門を見ていた。
左衛門がその姿を改めて見ると、弟の寝間着を着た少女が丸い瞳を向けている。
髪は少し伸び、身体も心なしか幾分華奢になっている。丸い顔は少女の膨らみを蓄え、上目使いの垂れ目がちな目つきには元の弟の面影が感じられるが、今は常よりさらに濡れていて吸い込まれそうな妖しい黒目だ。
内蔵助はもともと内向的で大人しい子供である。兄がいくら男らしさについて語り聞かせても一行に男らしさは身に着かず、さらに左衛門が何かと世話を焼くのでどんな問題も兄が全て解決してくれるなどという考えが身に着き、もうもはや兄無しでは生きられない10歳児になっていた。
それが今朝は可憐な少女の姿でもじもじと兄に縋りついてくるのだ。左衛門は何とも言えない複雑な心境だった。
「どうした?」
「兄ちゃん、僕、おしっこ……」
「そ、そうか。行ってこい」
「…………うぅ~~」
「どうしたんだ?」
「やりかた、わかんない」
左衛門の脳裏を絶望的な何かが襲った。
弟は今、用の足し方がわからないと言ったのだ。
無論10になって未だ親御の手を借りなければ用を足せないわけはない。女の身となった今、人体の構造がまるで変わってしまっているわけだ。
そしてそれは左衛門にも言えることであった。
オマケに今朝は、まだトイレに行っていない。
「うぅ…兄ちゃん漏れちゃう……」
「が、我慢だ! 我慢しろ内蔵助!」
「がまん、って、どうやるのぉ…?」
助けを求め縋る少女に、左衛門は言いたかった。
そんなもん兄ちゃんにもわからん!!と。
しかしそれではあまりに酷い結果になりそうだ。10を数える歳の男の子が床を濡らすことになる。今は女の子なわけだが。
そしてその次は自分の番が待っているという事実を考えないわけにもいかなかった。
「……ちょっと待ってろ内蔵助!」
兄として弟の窮地を救わねばならない。責任感の強い左衛門は混乱した頭で考えたが、圧倒的に知識が不足していた。
知識を補充する必要がある。
先ず、自分が先にトイレに入り、方法を推理しそれを試す意味で実際に用を足す。
その経験を元にして弟に手ほどきを施せば万事解決である。左衛門には完璧な作戦に思えた。
そうと決まればぐずぐずしている暇は無い。弟の我慢が限界を迎える前に事を済ませなければ。
全速力でトイレに駆け込み、用を足そうとズボンを下ろしてボクサーパンツの窓に手を伸ばす。
16年間毎朝トイレの中でひたすらに続けてきた所作である。急を要する場合なら集中力は計り知れない。無我の境地で手を探るが、そこにあるはずのモノは無い。
そんな気はしていたがやはりそうであった事実に軽く絶望する。やはりここからは未知の領域になるのだ。
まず落ち着いて便座を下ろす。
次に自分もパンツを下ろしてそこへ座る。
無意識にそこを見ないようにしている左衛門に、扉の外から内蔵助の急かす声。
「兄ちゃん、まだ?」
待つのだ弟よと心中で返しながら、さてどうしたものかと悩む左衛門。やはりいかんともしがたいので手で探ってみる。がそこには何もない。
いや、と考えが至った。
人間が用を足すのに、どれほど特別な行動が必要だろうかと。
男の身体も女の身体もすること自体は変わらないはずだ。
必要なのは『解放』である。
左衛門は全身の緊張を解き、脱力した。
トイレ内に水音が響いた。
なぜだか泣きたくなった。
「兄ちゃぁん、まだぁ?」
再びの声に我に返る。言い知れぬ悲しみに浸っている場合ではない。
ともあれ事は済んだ。弟のためにもさっさと出るとしよう。そう思ってパンツとズボンを上げようとすると、
さらなる問題に遭遇した。
このままでは少々濡れたままになってしまっている。この状態でボクサーパンツを上げることは出来ない。
なるほど、ならば拭けばいい話だ。そう思ってペーパーに手を伸ばすとこの時に限ってペーパーホルダーには芯しか残っておらず、カランと乾いた音を立てるだけだった。
「兄ちゃぁん……、漏れちゃうぅ……」
「も、もうちょっと待て!」
内蔵助が急かす間隔が短くなるのに左衛門は慌てた。
替えのトイレットペーパーは棚の上だ。しかし左衛門は股座が濡れたままで立ち上がるのに少し躊躇した。
一瞬の躊躇である。弟のために少々の無理は通して見せよう。
すっくと立ち上がって壁の上部にある棚に手を伸ばした。
…………左衛門の脳裏を再び絶望が襲った。
棚に手が届かないのである。
女の姿となった自分の身長が縮んでいることには気付いていたが、まさかこんな罠に嵌まるとは左衛門には思いもしていなかった。
「兄ちゃ……う゛ぅぅ…に゛い…ちゃ……」
早くしなければ。そう思い必死に手を伸ばすが一寸届かない。
便座に足を掛け乗り上がり身体全部を伸ばしてようやく指が届いた。
「内蔵助!今出る!」
力任せにペーパーをちぎり慌てて用を済ませてトイレから飛び出た。
はたして、
「…………」
「……ひぃぃぃん、……にいちゃぁぁん」
左衛門は間に合わなかった。
そこでは床にへたり込んだ少女が、頬と床を濡らしてしまっていた。
○
濡れた床を掃除した後、内蔵助は風呂に入りたいと言い出した。
無理もない。服はパンツまでびしょびしょである。兄の不徳の負い目を感じた左衛門はすぐに風呂に湯を張った。
蛇口から落ちる湯が勢いよく湯面を叩く音を聞きながら、脱衣所で左衛門は今日何度目かになる戦慄に身を震わせていた。
「僕、ほんとに女の子になっちゃってる」
濡れた衣服を水を張ったバケツに突っ込み、変わり果てた弟の姿を見る。
本当に、上から下まで女の子だ。
「兄ちゃんも、お姉ちゃんになっちゃってる」
ついでに自分も風呂に入っておこうと思ったのだが、服を脱いで鏡を見ると女の裸が映り左衛門は見てはいけないものを見た気がしてとっさに目を逸らし「すまん!」という言葉が勝手に口から出た。
これは自分の姿なのだとすぐに気づき、落ち着いて鏡を見直して、
「俺、本当に女になっちまってる」
乳は膨らみ尻も丸く太腿も柔らかだ。全身の筋肉が女性的な肉づきに変わり雑誌のグラビアを思わせる身体になっている。髪まで伸びているし顔もまぁ美人と言える。ぷっくりと膨らんだ唇と控えめな鼻、長いまつ毛を蓄えた二重瞼の上で太い眉毛だけが元の自分の面影を主張していた。
今まで鍛え上げてきたあの逞しい男の肉体は、そこには無かった。
原因はわかっている。クラスメイトに昨日飲まされた怪しげな薬だ。小野明子を問いただし元に戻る姿を聞き出さなければ。
「兄ちゃん、お母さんみたい」
「……言われてみれば、母さんに似てるかもな」
二人の母は四年前に他界している。
内蔵助が6歳の頃だ。弟が内気な性格になったのも母の不在によるところが大きいと左衛門は考えていた。
「兄ちゃん」
「お、おい……」
急に抱き着いてきた内蔵助に驚く左衛門。
二人の身長差では、ちょうど左衛門の胸が内蔵助の頭に乗る。
その胸を内蔵助の手が掴んだ。
「兄ちゃん、おっぱいおっきい」
「……………」
突然のことに驚きつつも、押しのけようとはしない甘い兄である。自分の姿に母を重ねているのだ。やはり弟は母の愛を求めている。左衛門はそう考えた。
ならばその欲求を満たしてやることで内気な性格も多少は改善されるかもしれない。
むにゅむにゅと膨らんだ両胸を揉みしだく弟の頭を撫でて、左衛門は自分が兄であると同時に母の代わりも努めなければならないのだと決意を新たにした。
「しょうがない奴だな。よしよし、身体洗ってやるからこっち来い」
「うん!」
左衛門はいつもこうして弟を甘やかし続けるのであった。
ダメな兄である。
○
「んんぅ~~…、おはようございますふぅ……」
「お前、二度寝してたのか!?」
「何なんですか~まだ8時前ですよぅ~」
「さすがにもう起きろよ!!こっちはお前のせいで大変なんだぞ!!」
「昨日の物質魔力が成功だったってことは、女の子になってるはずですよね?」
「そうだよ!てかこの声聞いてわかれよ!」
「わかりますわかります。飲んだときにそうなってれば解除魔術もちゃんと用意してたんですよ~」
「!!? ちゃんと解除出来るんだな!?元に戻れるんだな!?」
「大丈夫ですって~。今から持って行きますから待っててください」
「とにかく早く来い!!」
風呂を上がって服を着替え、もう一度事の発端である小野明子へ電話を掛けたときの会話がこれである。
この問題が解決することに心底安堵した左衛門であったが、内蔵助の表情は微妙だ。
左衛門ももう少しくらい母代わりが出来ればと悩んだが、元に戻らないわけにはいかない。それに男に戻っても母代わりはやってみせるつもりである。
朝食を済ませしばらく待つとチャイムが鳴った。
遅い到着である。左衛門が玄関を開くといつも通りの小野明子の姿がそこにあった。
休日でも夏休みでも学園指定の学生服。何が入っているのかわからないがパンパンに物が詰められたショルダーバッグ。三つ編みお下げと漫画のような大きな眼鏡。そしてこれまた大きなぶかぶかの、魔法使いのようなとんがり帽子。
「サエちんこんにちは~、ほんとに可愛くなってる!」
「サエちん言うな。今に限っては特に言うな。
えらく遅かったけど何してたんだ?」
「色々買い物してたら遅くなっちゃったんですよ~」
拳骨で頭を小突く。
「痛い!何するんですか!」
「さっさと上がれ!!!!」
自分が原因で他人が酷い目にあっているというのに買い物に耽っていたクラスメイトに怒りを覚える左衛門であるが、これでようやく元に戻れる。
今朝起きてから3時間ほどしか経っていないが、左衛門にはとてつもなく長い時間を過ごしていたように感じられた。
「アッコお姉ちゃん、こんにちは」
「こんにちはクラのん……ってめちゃくちゃ美少女!?可愛い!!抱きしめていいんですか!?」
拳骨。
「痛い!!」
「とっとと解除の薬を出せ」
居間の畳に正座で座らせ、問題の薬を要求する左衛門。
明子はショルダーバッグを下ろし、中から封をされた試験管を二つ取り出した。
中には赤紫色の半透明の液体が入っている。
ビーズのような金色の玉が浮いているのだが、この玉ごと液体を一息に飲み込む必要がある。
「昨日のと何も変わらないんだな」
「液体は物質化した魔力なんですって、中の金に刻まれた魔法式が違うんです。
この玉が体内に入って液状の魔力を消費して奇跡を起こすんですよ。玉自体は普通の金なんで人体には無害です」
「……いや、そのへんの説明はいい」
試験管が左衛門と内蔵助の手に渡る。
封を開け、二人で目を合わせ一度肯き、
同時に、グイと一気に飲み下した。
液体の苦みとエグみと生臭さが吐き気を誘うも耐える二人。
金属の玉が喉を通っていく感触。
それも終わると腹の内で、明子の言う『奇跡』が起こる。
魔術が正常に発動したのを明子は感じ取ったが、
「……………………おい」
「なんですか?」
「何も起こらねぇじゃねぇか」
何の変化も生じなかった。
左衛門も内蔵助も、元の姿に戻ってはいない。女の子のままである。
左衛門は立ち上がり拳骨を構えた。
「待ってください!それはそうですよ当たり前じゃないですか!」
「どういうわけだ!!事と次第によっちゃマジで打ち抜くぞ!!」
「だって、二人とも今のを昨日飲んだんですよ?」
「だからこうなったんだろうが!!」
「それで、女の子には今朝なってたんですよね?」
「…………あ」
そのとおりだった。
薬の服用と身体の変化には時間があった。ならば解除され元に戻る際も同様であるのは道理である。
「……ってことは、おい、今日一日はこのまんまの姿で過ごさなきゃならないってのか?」
「そうなりますね」
やはり左衛門の脳裏を、今日何度目かの絶望が襲った。
この姿で今日一日過ごさなければならない。
この姿で町内会の回覧板を回さなければならない。
この姿でスーパーへ買い物に行かなければならない。冷蔵庫は空だ。
そして今日の夜には家をあけていた父親も帰ってくるのだ。
「兄ちゃん」
そして、
さらに、
今日は内蔵助との約束があったのだ。
「今日、プール行けない?」
夏休み宿題が終わったご褒美として、去年オープンした大型スパリゾートに連れて行く約束をしていた。というのも商店街の福引きでチケットが当たっていたのだ。期限は明日まで。
そして明日はもう始業式なので、今日を逃すともうチャンスは無い。
「…………プールは」
「兄ちゃん、プール連れてってくれるって言ったのに……」
美少女内蔵助の瞳が泉と化した。
橘左衛門は男の中の男を自負する者である。
その左衛門が、見本となるべき弟に、一度した約束を破るなどという男らしくないことが出来るであろうか。
しかし問題はある。大きな問題だ。
左衛門も内蔵助も、女性用の水着など持ってはいない。
まさかこの姿で胸を放り出して公衆浴場を練り歩くわけにもいかない。男らしさとは別次元でこの約束は果たすことは出来ない。
「今日プール行くんですか? じゃ私も行きます。
水着買いに行きましょう」
「いらんことを言うなぁ!!!!」
無い水着は買えばいい。明子の提案に今日一番の笑顔を見せる内蔵助。
今や美少女である弟のその愛らしい表情に、左衛門はとうとう打ち勝つことは出来なかった。
「服が…、水着を買いに行く服が無い」
「とりあえずフリーサイズの下着と服、ここ来る前に買っといたんですよ」
「何悠長に買い物してたんだと思ったらそれか!!」
明子のバッグから飛び出す女性ものの服と、下着。
これを今から着なければならないというのかフザケロという左衛門の講義は却下された。
プールの更衣室で男性下着を見せれば問題がある。その明子の主張に左衛門は周囲の視線よりもまず女子更衣室に入らなければならないという事実に思い至り眩暈がした。
「それじゃあ時間ないですね~すぐ出発しましょう。
クラのんの水着も私が選んであげますからね~」
「ありがとうお姉ちゃん」
「……………」
左衛門と内蔵助の長い一日は、
こうして始まったのだった。