離婚、8年目の旦那へ…。
――いつでもいいよ、僕にキミを束縛する権利はないし、キミが自由になりたいなら、それでも。――
いつ言われた言葉だろうか。結婚前か、結婚してすぐあとか……。
どちらにしても、かなり前の記憶に違いない。
今年、結婚8年目を迎えた私たち夫婦には未だ子供がいない。
私も旦那も、若さからそろそろ、卒業だろう年齢で結婚したため、この8年の間は子供がほしい私としては焦りの8年だった。
けれど、彼は私との行為の時には必ず避妊を忘れたことはないし、私がそれとなくねだっても返事はノウが返されるだけだった。
そして、今夜。旦那が仕事から帰ってきたと思ったら言い放った言葉。
「……離婚、するかい?」
デスクワークである彼の帰りは早いほうではなく、大体が深夜を回る帰宅だ。
それでも、私はこの8年間……いや、結婚する前も含めれば10年以上。彼よりも先にねたことは一度も無い。
何より、旦那と一緒に夕飯だけは食べるのだという吟味を私は持っていたし、子供が生まれる前から倦怠期を迎えることだけは私は避けたかった。
そもそも、最初に子供をねだっていたのは私ではなく、私の母だったのだ。母は顔を合わせる度に、孫の顔を早くみたい。と呟いていた。それは、私を産んで直ぐに私の父に先立たれた彼女なりの不安の表れなのかもしれない。
しかし、そんな母も去年の夏、熱さが祟って他界してしまった。今でも通夜の蒸し暑さと蝉の煩い合唱が耳に木霊する。
「どういう事?」
母の葬儀で、なぜだか一変の涙も流れなかった私の代わりに、我が事のように泣きじゃくったのは旦那の方だった。
彼も、私との結婚前から両親を交通事故でなくしており、家族と言えるのは妻である私と、義母である母だけだったのだろう。
葬儀が終わり、すべてのお客が帰ったあとに、私も堰を切ったように涙がとまらなかった。やるせない母の死に漸く直面したきがした。
その夜は、始めて彼にそのままの姿で抱かれた。
「……キミが、僕との関係に嫌気が――子供が生まれ無い事に対する諦めがある事を知ってし、それに……――」
彼は神経質な男で、ひどく几帳面だった。私の母の葬儀のほとんどを行ってくれたのも彼だ。
仕事でも彼は非常にうまくやっているらしく、初老が手に届きかけている今は、そこそこの地位や
手にいれている事も知っている。
――その実、彼は一度も私の事を裏切った事が無い。
「……――君が、年下の男と付き合っているのも、偶々、偶然、知ってしまったんだ」
彼がメガネをメタルフレームに変えたのはいつの事だったろう。その原因は私にあった。
確か、結婚した時は彼はメガネをかけていたかったはずだ。そして、最初にかったメガネは黒縁のメガネ。彼は真面目な、誠実な男だったから、どうにか私はその彼を、せめて外見だけでも変えたかったのかもしれない。
私が、あの子とあったのはその頃だった。
「……僕の友達が、休日に君を見かけたらしいんだ。声をかけようと近づいたら、……そしたら」
始めてあったのは、私が行きつけの喫茶店から帰る途中だった。
私を跳ねかけた自転車から助けてくれたのが、その彼だった。
仔犬のような笑顔のまま、腰の抜けた私に手を差し伸べて、態々家まで送ってくれた。
歳は21歳で、大学生だったといっていた。
キラキラとした笑顔のまま、将来の夢を、21歳になった今でも失わず語る彼は、その当時に会った旦那よりもずっと輝いているように思えた。
窓からポプラの緑が、太陽の光を受けていた事が、彼との思い出に結びつく。
「キミが、楽しそうだったて、そう言ったんだ。友達は、怒っていたけど、僕の頭は妙に冴えたままだったんだ。ああ、遂に来たか。そう思う事が精一杯だった」
始めて、幾つも歳が離れた彼と肉体の関係を持ったのは、彼と4回目の再開だった。
最初に誘ったのは彼の方だったか、私の方だったか。どちらにしても、行為の為に自宅は使わなかった。
近所のホテルは知り合いが務めているので、私の運転で隣県との狭間の小さなホテルまで逃げた事が今でもおぼえている。
行いをする事がまだあまり無いのか、それたも私が人妻だと知って怖気付いたのか、彼はしきりに車内で煙草をふかしていた。
私の前ではけして吸わない、旦那との大きな違いの一つで、瑞々しい気持ちが湧いた。
「それに、車からはキミも僕も吸わ無いはずの煙草の臭いがしたし、……――」
彼は、ぜひお互いそのままの姿で抱きあおうといってくれた。私は特に断る理由が思いつかなかった。その頃には私自身の頭がジンと痺れたようになっていたかもしれ無い。
彼の前戯は酷く不器用なものだった、どこで聞きかじったものかはしらないが、態と私を焦らしているではないかと思うほどに、彼はその手の事に関して不慣れだった。
けれど、そんな無駄な動きでさえ、私には力強い私たちにはもうない若さのように受け取れるから不思議だった。
「何より、キミが変わってしまった――」
彼は、行為の際に何度も何度もうわ言のように私の名前をつぶやき続けた。他人行儀に“さん付け”であった事さえ、私の悦びをより大きいものにした。
「キミが時々見せる笑顔に、僕が今まで無い程に心が揺さぶられたんだ、8年間一度もないことだったんだ。キミは、どんどん綺麗になって行ってる! キミの心は、もう僕にはないんだね……だから――
離婚、しよう」
旦那が差し出して来たのは一枚の事務的な紙。既に彼の名前が書き込まれている離婚届けだった。
『どうして?』そんなことを聞けるほど図々しい女ではないし、だからこそ8年間もの間夫婦として過ごすことができたのだ。
いや、だからこそ、彼の心の中が手に取るようにわかる。
テーブルの上に彼の差し出したボールペンを取る。その指は私が自分で思う以上に震えていた。
旦那に、彼の顔が重なる。違う、彼の顔に旦那が重なっているんだと、この時私は始めて気がついた。
私は、彼から差し出された離婚届に書かれた彼の名前に2本の線を引いた。
それが、私の答えで、彼の望みだったからだ。
たとえ、もう二度と彼と出会うことがないのだとしても、私は8年間の重みの上にあぐらを書くことをもうやめよう。
そして、
お腹の命を、騙し続ける事になったとしても、その命に幸せをとどけよう。