プロローグ
「お父さん……お母さんー」
僕は泣きながら叫んでいた。涙で視界が遮られ、満足に周りを見渡すことすらできない。
「うぅ……」
どうしてこうなってしまったんだろう。幼い僕は一生懸命考えていた。
友達と遊んで、別れた後。その後の記憶がない。
もう辺りは真っ暗で、帰ったらきっとお母さんに叱られるだろう。お父さんに殴られるだろう。
でも、今の状態のほうがよっぽど怖かった。
服の袖で、涙を拭って歩き出す。このままじゃダメだ、自分で帰らないと、僕だって男の子なんだ……そう思って、疲れて動けなくなるまで歩いた。
「怖いよぉ……」
でも、もう足は全然動かなくて、その場で座り込んで、また泣き出してしまった。
暗闇の中で僕の泣き声だけが響く。
誰も、助けには来てくれない。当然だ、この辺りには誰もいないのだから。
「僕、死んじゃうのかなぁ」
泣き疲れて、心地良いような、頭がボーッとした感覚になる。もう、ここで眠りたいくらい。
寒さ、空腹、恐怖。どれもが僕の精神を蝕んでいった。
眠気で意識が飛びかけたその時、
「……?」
頭の上に、人の手のようなものが置かれた。
顔を上げて見ると、そこにいたのは自分より大分年が離れている男。
中性的な顔に、優しい笑みを浮かべていた。
「誰?」
自分の口から出たのは、小さく、弱々しい声だった。自分でもなんて言ったのかが分からないくらいに。
静寂の中でも聞き取りづらい声を、その人は一回で聞き取った。
「分からない?」
僕は頷いた。分かるはずがない。初対面なのだから。
「えーっと。どうしよう……」
考え込むようにしているその人を僕はじっと見つめた。
さっきまでの恐怖や空腹は、すべてこの人を知りたいという、好奇心に変わっていた。
「まあ、気にしないで。僕は君に伝えたいことがあって来たんだ」
結局自分のことを言うのは諦めたようで、『伝えたかったこと』を話すようだ。
男の人は少し間を置き、辺りが再び静寂に包まれる。
男の人が長く吐き出した息が、白くたなびいた。
そして、男の人は静かに話し始めた。
「今、君は死にたいと思う?」
そんなわけがない。僕は首を横に振った。
「だよね。でも、これから生きていくと、辛いこと、苦しいことが必ず待っている。死にたいと思うかも知れない。だから、念の為、この言葉を覚えといて」
また一呼吸置き、
「辛いことがあったら、いつか幸せが倍になって返ってくる。だから、死にたいなんて絶対に思わないで。死んでも、みんなから忘れ去られて終わりだ。幸せを取り逃がして終わりだ。だから、精一杯生きてね。じゃあ」
片手を挙げ、男の人は去っていく。
「ちょっと待って!」
自分では叫んだつもりだったが、声は男の人の元にまで届かなかったらしい。僕は追いかけようとした。
でも、もう足は動いてくれない。
もう声は出せない。なぜか出してはいけないような気がした。
男の人の姿はもう消え、また暗闇の中で一人取り残された。
身体の震えは止まらなかったが、さっきのような恐怖はもうない。
もう一度、会いたい。
いや、会う。会いに行く。
そこで目が覚めた。
「…………」
なんだか久しぶりだな、この夢。
自然と笑みが溢れ、身体を大きく伸びをした。ポキポキと鳴る音が心地良い。
ベッドから降り、自室の時計に目をやる。
「……はぁ」
ため息が出た。
もう朝食を食べている暇がない。
悪夢を見たわけじゃないからよしとしよう。
僕は急いで用意を済ませ、家を飛び出た。