精神科病院の患者が毎日「ベッドの下に死体がある」と言っていた。あの日、俺がしゃがんで覗いてみるまでは
俺は榊野総合医療センターの精神科閉鎖病棟で、夜勤中心の看護助手をしている。
307号室には、成瀬慎吾という患者がいた。二年前に入院してから、ほとんど毎日のように同じことを言い続けている。
「人を殺した」
「死体はベッドの下にある」
警察も調べた。病院でも何度となく確認した。
だが、ベッドの下にあるのは埃だけだった。
入院当初、成瀬は統合失調症と診断され、強い妄想があると判断されていた。同じ話を二年も聞かされていれば、病棟の職員たちも慣れてしまう。
いつしか「ベッドの下の死体」を本気にする者はいなくなっていた。
あの夜までは。
いつものように307号室へ見回りに入ると、ベッドの上で身体を丸めていた成瀬が、俺を見るなり飛び起きた。
怯えた顔のままベッドを降り、俺の手首をつかむ。
「まだいるんだ! 俺は嘘なんかついてない!」
落ち着かせるため、成瀬の前でしゃがみ込み、垂れていたシーツを持ち上げた。
ベッドの下には何もない。
「ほら。誰もいないだろ」
立ち上がると、成瀬の顔からさっと血の気が引いた。
見ているのは床ではなかった。
俺だった。
そこにいるはずのないものでも見たように、全身を震わせている。
「そんなはずない……」
掠れた声が漏れた。
「だって、お前がそこに寝てるじゃないか」
1
成瀬慎吾が榊野総合医療センターへ入院して、二年になる。
病院は霧代県榊野市の北側にあり、精神科の閉鎖病棟は入院棟の三階にあった。307号室は、安全上の理由から継続的な観察が必要な患者を入れる個室で、過去に激しい興奮や自傷行為のあった成瀬のため、室内には見守り用のカメラも設置されている。
俺は真壁浩介。四十二歳。
主にこの病棟の夜勤を担当している。
あの夜、成瀬の目は真っ赤に充血していた。俺の手首をつかんだ指も震えている。
「いるんだよ……ずっと、そこに……」
言い争っても仕方がない。胸元の呼び出しボタンを押すと、ほどなく二人の看護師が307号室へ入ってきた。
医師から出ていた緊急時の指示に従って薬が使われ、成瀬の抵抗は少しずつ弱くなっていった。
意識がぼんやりしていく中でも、視線だけは俺から外れない。
「お前が……寝てる……」
やがて声も途切れ、成瀬は眠り込んだ。
若い看護師が、手首についた引っかき傷を消毒してくれた。
「真壁さん、大丈夫ですか?」
「平気。成瀬にはよくあることだから」
笑って病室を出た。
けれど、頭から離れなかったのは、いつもの「ベッドの下に死体がある」という言葉ではない。
――お前がそこに寝ている。
廊下の端にある洗面所で蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗った。
鏡の中には、疲れた中年男がいる。夜勤と不眠のせいで目の周りは落ち込み、目尻にも細かな皺が増えていた。
無意識に後頭部へ手をやる。
指先に、盛り上がった傷痕が触れた。
三か月前の交通事故でできたものだ。
あの日も夜勤明けだった。病院の裏手から原付スクーターで帰ろうとしたところ、人気のない道路へワンボックスカーが飛び出してきた。
覚えているのは、正面から迫るヘッドライトと、身体を弾き飛ばされた瞬間の衝撃だけだ。
次に目を開けたときには、この病院の救急外来にある観察室で寝ていた。
診てくれたのは久我文彦先生だった。
脳震盪と深い後頭部の傷はあったものの、命に関わる状態ではないと言われた。
車はそのまま逃走。周辺には使える防犯カメラも少なく、結局、運転手は見つかっていない。
事故以来、眠れない夜が増えた。
同じ夢も繰り返し見る。
真っ暗で、狭い場所に横たわっている。身体は何かに押さえつけられ、手足を動かせない。鼻の奥には湿った土と黴の臭いがまとわりつき、息を吸うたびに胸が潰されていく。
ナースステーションへ戻り、成瀬の看護記録を開いた。
二年間、症状の中心はほとんど変わっていない。
人を殺した。
死体を隠した。
ベッドの下に死体がある。
警察は当時、成瀬が働いていた建設現場まで調べ、本人が示した場所も掘り返したらしい。
それでも死体は見つからなかった。
その後、成瀬は精神科で診察を受け、この病院へ入院することになった。
記録を閉じ、こめかみを揉む。
壁のモニターでは、307号室の成瀬が眠っていた。
休憩室へコーヒーを淹れに行こうと立ち上がったとき、視界の端で画面が一瞬乱れた。
振り返る。
もう元に戻っている。
しばらく307号室の映像を見つめた。ベッドの下は暗く、何も見えない。
それなのに、映像が戻ったほんの一瞬だけ。
あの暗がりで、何かが動いたような気がした。
2
午前七時、日勤の柴崎邦夫が病棟へ上がってきた。
もうすぐ六十で、数か月後には定年を迎える。榊野総合医療センターに長く勤めていて、院内の古い話なら管理職より詳しいくらいだ。
着替えを終えた柴崎が、俺の顔を見るなり眉をひそめた。
「真壁、また寝てないだろ。ひどい顔してるぞ」
夜勤の申し送りを渡す。
「307、昨夜また荒れた。最後は臨時薬使ってる」
「ああ、成瀬か」
柴崎がため息をついた。
「二年も毎日、ベッドの下に死体があるって言われるとなあ。そのうち本人が自分を死体だと思い込みそうだ」
帰りかけていた足が止まった。
「柴崎さん。成瀬って、入院前に何があったんですか?」
「急にどうした?」
「昨日、いつもと違うことを言われたんです。入院前のことも、カルテにはあまり詳しくなくて」
柴崎は水筒を開け、一口飲んだ。
「俺も細かいところまでは知らないよ。工事現場で地面を掘り返してたところを警察に保護されたって聞いた。死体を探せって叫びながらな。精神科医の診察を受けて、こっちへ来たのはそのあとだ」
申し送りを終え、病院を出た。
朝の空気は冷たかったが、眠気はなかった。
病院の近くには古い職員寮がある。離婚してからずっと一人暮らしで、娘は元妻と暮らしながら、今は県外の大学に通っている。俺一人なら、狭い部屋で十分だった。
布団に入って目を閉じると、三か月前の事故が浮かんできた。
正面から迫るライト。身体を弾き飛ばす衝撃。後頭部を突き抜けた痛み。
その先だけが、きれいに切り取られている。
いつ眠ったのか分からない。
午後三時過ぎ、LINEの着信音で目を覚ました。
娘の紬からビデオ通話がかかってきていた。
二十歳。南にある港丘市の大学へ通っている。
画面がつながった途端、紬が顔をしかめた。
「お父さん、また寝てないでしょ。クマすごいよ」
「夜勤だからな。慣れてる」
「毎回それ言うよね。病院で倒れて、患者さんより先に看護されないでよ」
「分かってるよ」
十分ほど他愛のない話をした。
大学の行事の準備が面倒だとか、寮の近くのスーパーが値上げしたとか。そんな話を聞いているうち、少しだけ気持ちが落ち着いた。
通話を切ったあと、見覚えのない番号からSMSが届いていることに気づいた。
短い文章だった。
「三か月前の夜を、まだ覚えているか?」
3
しばらく画面を見つめ、その番号へかけ直した。
流れてきたのは、現在使われていない番号だと知らせる自動音声だった。
もう一度試しても同じだった。
妙な苛立ちを覚え、通話履歴を遡る。
三か月前。事故の日まで戻ったところで指が止まった。
あの夜、俺はこの番号へ電話をかけている。
通話時間は一分十三秒。
まるで覚えていなかった。
その日の夜は、普段より早い十時に病院へ着いた。
確認したいことがあった。
管理部門はすでに静まり返っている。職員としての権限を使い、保管されている古いカルテの中から成瀬の入院時記録を探した。
搬送された当初、身体には複数の擦り傷があり、指の間には乾いた泥と砂が詰まっていたらしい。警察は成瀬の証言をもとに現場を捜索し、地面まで掘り返している。
何も出なかった。
ページをめくっていくうち、三か月前の日付が入った追加記録で手が止まった。
記録者は主治医の久我先生。
そこにはこう書かれていた。
――患者の情緒状態は以前より安定傾向にある。一方、「死体」に関する訴えが具体化しており、濃紺の作業着、左胸の名札について繰り返し言及する。
ゆっくり視線を落とした。
今夜の俺も、病院指定の濃紺の制服を着ている。
左胸には名札。
真壁浩介。
入院直後の記録を見直した。
当時の成瀬は、人を殺した、死体がある、としか言っていない。服装や名札についての記述は一度もなかった。
その二つが初めて記録に現れたのは、俺が事故に遭った時期とほぼ重なる。
背中を冷たいものが這い上がった。
該当ページをスマホで撮影し、資料を戻す。
廊下へ出たところで、久我先生と鉢合わせた。
「真壁さん、今日は早いですね」
「眠れなくて。少し早めに来ました」
久我先生は頷いた。一度は通り過ぎかけたものの、ふとこちらへ視線を戻す。
「頭の傷はどうです?」
後頭部へ手をやった。
「もう、ほとんど気になりません」
「それなら良かった」
そう言って、医局のほうへ歩いていった。
その背中を見送りながら、胸の奥にあった違和感が膨らんでいく。
三か月前、俺の傷を処置したのも久我先生だった。
ナースステーションへ戻り、古い勤務表を確認するふりをして、事故当日の勤怠記録と院内映像を開いた。
午前七時五分。
俺は打刻し、着替えを済ませて病院を出ている。
そこまでは記憶通りだった。
問題は、そのあとだ。
事故に遭った俺は、救急車でこの病院へ運ばれたはずだった。
正面玄関、裏口、救急搬入口。
どの映像にも、俺が戻ってくる姿は映っていなかった。
4
時間帯を変えながら、何度も映像を見直した。
救急車は来ていない。
俺も戻っていない。
勤怠記録では、その日の午前七時五分に退勤し、次の出勤は翌日の午後七時。間には三十六時間の空白がある。
理由は「病休」。
俺の記憶では、事故のあと一晩観察室にいて、翌日には問題なく動けるようになっていた。
休暇手続きをした覚えもない。
人事の夜間窓口へ電話し、名前と職員番号を告げて、三か月前の病休について調べてもらった。
しばらくして、キーボードを叩く音が止まる。
「ありました。久我先生の代理申請ですね。交通事故による頭部外傷のため休養が必要、とあります」
「……俺が正式に入職したのは、いつになってます?」
何気なく聞いたつもりだった。
向こうが黙った。
「記録上は……三か月前です」
意味が分からなかった。
「三か月前?」
「はい。正式な人事登録は、事故の前日に完了しています」
受話器を握ったまま、しばらく声が出なかった。
俺はこの病院で何年も働いてきた。
そう記憶している。
柴崎も俺を知っているし、病棟の職員たちとも長い付き合いがある。
しかも、さっき見た監視映像には、「入職した日」より前から制服姿の俺が映っていた。
古い紙の勤務表まで調べてみると、そこにも真壁浩介の名前がある。
それなのに、人事システム上では三か月前が入職日だった。
二つの記録が、矛盾したまま存在している。
電話を切り、今度はスマホを調べた。
事故前後の三十六時間だけ、写真もLINEの送受信も残っていない。通話履歴にも、さっき見つけた謎の番号以外、ほとんど動きがなかった。
その時間だけ、「真壁浩介」という人間が世界から抜け落ちたようだった。
もっと前から俺を知っている人間に聞くしかない。
休憩室へ行くと、柴崎はまだ残っていた。窓際で缶コーヒーを飲んでいる。
「柴崎さん。三か月前、事故に遭った日の朝、俺が帰るところ見てました?」
「見てたよ。普通に引き継ぎして、バイクで帰っただろ」
「そのあと、病院で会いました?」
柴崎は少し考えた。
「翌日な。事故に遭ったって聞いて、救急の観察室まで見に行った。お前は寝てたから声はかけなかったけど」
そこまでは、俺の記憶と同じだった。
監視映像だけが違う。
「その夜、他に何かありませんでした?」
柴崎の手が止まった。
「何でそんなこと聞く?」
「気になるんです。何かあったなら教えてください」
しばらく黙っていたが、やがて観念したように口を開いた。
「307が、あの晩は特にひどかった」
「成瀬が?」
「ああ」
「何て言ってたんです?」
柴崎は俺を見た。
「ベッドの下の死体が、いなくなったって」
胸の奥が沈んだ。
「何時頃です?」
「ちょうど、お前が事故に遭った頃だよ」
5
翌日、病院を休んだ。
成瀬の古い資料に残っていた勤務先を頼りに、榊野市郊外の廃工事現場へ向かった。
小規模な住宅開発地だったらしい。請負会社が倒産し、二年前から工事は止まったままになっている。
錆びた仮囲いの向こうは雑草に覆われ、入口に残った立入禁止の看板も色褪せていた。
壊れたフェンスの隙間から中へ入る。
放置された資材や錆びた鉄筋、途中まで組まれた足場の向こうに、現場事務所として使われていたらしいプレハブが並んでいた。
一室だけ鍵が壊れている。
中は埃だらけだった。
壁には二年前の工程表が貼られたままになっている。
棚や引き出しを調べ、最下段から油で汚れた古い作業員名簿を見つけた。
成瀬慎吾。
職種は雑工。
さらにページをめくると、臨時雇用者の欄に赤丸で囲まれた名前があった。
真壁浩介。
夜間警備。
床へ座り込んだ。
この現場で働いた記憶などない。
ところが、スマホで二年前の口座履歴を確認すると、大庭建設という会社から何度も振り込みがあった。
一回、八千円前後。
摘要は「夜勤手当」。
記憶にはない。
それでも俺は、ここで働いていたらしい。
事務所を出て、現場の奥へ進んだ。
作業員が寝泊まりしていたらしいプレハブが並んでいる。
一番端の部屋だけ、扉が半開きだった。
押し開けた瞬間、強い黴臭さが鼻をつく。
中にはベッドと古いロッカーがあり、壁際に何着か作業着が放り出されていた。
そのうち一着は濃紺だった。
持ち上げる。
左胸に白い刺繍。
真壁浩介。
襟の後ろには、黒ずんだ染みが広がっていた。
古い血に見える。
スマホで写真を撮った。
作業着を戻そうとしたとき、背後から足音がした。
「おい。誰だ、あんた。どうやって入った?」
6
入口に、五十代くらいの男が立っていた。
警備会社の制服姿で、手には伸縮式の警棒を持っている。
浜口茂と名乗った。
現在この土地を管理している会社から、現場の見回りを任されているらしい。
以前ここで働いていたので、少し見に来ただけだと説明した。
当然、信じている顔ではない。
「名前は?」
「真壁浩介」
浜口の表情が固まった。
「……真壁?」
「俺を知ってるんですか?」
頭から足元まで見られた。
まるで、いるはずのないものを前にしたような目だった。
「あの二年前の件、お前はどこまで関わってる?」
「何の話です?」
「成瀬慎吾がおかしくなった夜だ。あの晩、お前もここにいた」
喉が乾いた。
「覚えてません」
誤魔化しているわけではない。
この場所について、本当に何ひとつ思い出せなかった。
浜口はしばらく黙ったあと、声を落とした。
「あの晩、俺も夜勤だった。夜中に宿舎のほうで変な音がして、見に行ったんだ。成瀬が一人でスコップ振り回して、地面を掘ってた」
「誰の死体だって?」
「真壁浩介」
浜口の声がさらに小さくなる。
「お前は死んだ。あそこに埋められてるって、ずっと叫んでた」
胸を握られたような感覚がした。
「そのあと?」
「酒でも飲んでおかしくなったと思って止めた。警察も呼んだよ。来てからも、成瀬はずっと死体があるって言い張ってた。精神科の医者にも診てもらった」
浜口が遠くの空き地へ目を向ける。
「警察は犬も連れてきたし、機械も使った。成瀬が言った場所も掘ったけど、何も出なかった」
「それから俺が現場に来なくなった理由は?」
「知らない」
浜口は首を振った。
「会社から何度も電話してたけど、ずっとつながらなかった。最後の月の給料だって取りに来なかった」
俺の記憶とは何ひとつ合わない。
俺はずっと榊野総合医療センターで働いていた。
少なくとも、そう信じていた。
帰ろうとすると、浜口に呼び止められた。
「待て」
少し迷ったあと、周囲を気にするように声を落とす。
「一つだけ、当時は警察に言わなかったことがある」
7
浜口の顔には、はっきりと怯えが浮かんでいた。
「成瀬がおかしくなる前、巡回で宿舎の前を通った。中で、お前と大庭社長が揉めてたんだ」
「大庭?」
「大庭征司。この現場を請け負ってた大庭建設の社長だ」
「何で揉めてたんです?」
「そこまでは聞こえなかった。ただ、物を投げるような音がしてた」
浜口は眉間に皺を寄せる。
「一つだけ、大庭の声が聞こえた。『こんなこと、絶対に人に知られたらまずい』って」
「今、大庭は?」
「逃げたよ」
苦い笑いを浮かべた。
「成瀬の件から少しして会社の資金が尽きた。給料も借金も山ほど残して、本人は消えた。この現場もそのままだ」
昔使っていた電話番号を教えてもらったが、もうつながらなかった。
現場を出たあと、大庭建設の法人情報を調べた。会社はすでに閉鎖されている。
法務局で古い登記を取ると、大庭征司名義の会社が三社あり、そのすべてがすでに消滅していた。
一つの登記住所だけが、榊野市郊外の古いマンションになっている。
行ってみることにした。
インターホンを押すと、四十代くらいの女性が出てきた。
知らない男を見て、すぐ警戒した顔になる。
「どちらさまですか?」
「以前、大庭征司さんが住んでいた住所でしょうか」
表情が険しくなった。
「借金取りなら、うちにはお金ありませんから」
「違います。二年前の工事現場について、少し聞きたいだけです」
しばらく見定めるようにこちらを見たあと、扉が少し開いた。
大庭美和。
征司の妻だった。
夫は二年前に姿を消し、それ以来、一度も家へ連絡していないという。家族も、どこかで死んでいるのではないかと思い始めていた。
「あの人、仕事のことは家で全然話さなかったんです。会社がおかしくなってからは、何を聞いても怒るだけで」
これ以上は聞けそうにない。
礼を言って帰ろうとした。
二歩ほど進んだところで、美和が後ろから呼び止めた。
「待ってください……あなた、真壁浩介さん?」
振り向いた。
「どうして俺の名前を?」
「夫がいなくなる少し前、毎晩みたいにお酒を飲んでたんです」
美和は腕を抱いた。
「ある夜、ベランダで泣いてる声が聞こえて」
俺の顔を見つめる。
「ずっと言ってました。『真壁浩介は死んだ。俺が殺した』って」
息をするのも忘れた。
美和は一度部屋へ戻り、少し黄ばんだ封筒を持ってきた。
表には名前が書かれている。
真壁浩介。
「いなくなる前の日に、机の上へ置いてあったんです。誰に渡せばいいのか、ずっと分からなくて」
封筒を差し出された。
「あなたが本当に真壁さんと関係のある人なら……これは、たぶんあの人に残したものです」
8
中に入っていたのは、大庭征司名義の地方銀行の通帳とキャッシュカードだった。
暗証番号を書いた紙と、小さなメモも入っている。
――すまなかった。これは、お前が受け取るべき金だ。
「どういう意味ですか?」
美和は首を振った。
「分かりません。何も説明せず、次の日にはいなくなりました」
封筒を持って外へ出た。
近くに同じ銀行のATMがあったので、通帳を記帳する。
最後の入金額は百万円。
日付は二年前。
成瀬が精神科の治療を受けることになった翌日だった。
ベンチに腰を下ろした。
頭から離れない考えがある。
大庭が真壁浩介を殺した。
この百万円は、その罪滅ぼしなのか。
だとすれば。
二年前に真壁浩介が死んでいるなら、俺は誰なんだ。
例の作業着の写真を、大学の法医学教室にいる知人へ送った。
事情は伏せ、古い工事現場で汚れた服を見つけたとだけ伝える。
返事はすぐ来た。
「写真だけじゃ断定できないけど、色と染み方は古い血液に見える。人血かどうかは現物を調べないと無理だな」
作業着を持ち出す必要がある。
夕方、再び工事現場へ戻った。
さっきの宿舎に入り、血のついた作業着をビニール袋へ入れる。
帰ろうとして、成瀬が昔掘ったという空き地の前を通った。
スマホのライトを向けると、一か所だけ長方形にコンクリートの色が違う。
しゃがみ込み、表面を軽く叩いた。
妙に空洞っぽい音がした。
近くの廃材の山に古いスコップが転がっている。
手に取った。
劣化したコンクリートを崩し、その下の土を掘る。思っていたより柔らかく、五十センチほど進んだところで先端が硬いものにぶつかった。
膝をつき、手で土をどける。
青いビニールシートが現れた。
指が震え始める。
端をつかみ、一気に引いた。
強烈な腐敗臭が吹き出した。
吐き気を堪えながら、穴の中を見る。
高度に腐敗した遺体が、身体を丸めるように埋められていた。
服は土と腐液で元の色がほとんど分からない。それでも形は分かる。
濃紺の作業着。
左胸に残る白い刺繍。
真壁浩介。
スマホのライトを頭へ向けた。
顔はもう判別できない。
光を動かしかけたとき、後頭部の骨に大きな亀裂があることに気づいた。
身体が動かなくなった。
その位置は、俺の後頭部にある傷痕とまったく同じだった。
9
穴から出たときには、まともに立てなかった。
プレハブの壁へ寄りかかり、震える手で警察へ電話した。
霧代県警が到着すると、現場一帯はすぐに封鎖された。鑑識と法医が遺体や周辺の物証を調べ始め、俺も刑事から事情を聞かれた。
「どうして、ここに遺体があると思ったんです?」
説明のしようがない。
「前にここを調べていて……あの地面だけ変だと思ったんです。それで掘りました」
刑事は納得していない顔だった。
それでも、その場で容疑者扱いされたわけではない。連絡がつく状態にしておくこと、必要があれば再度事情を聞くこと、長期間市外へ出る場合は事前に連絡してほしいことだけ伝えられた。
職員寮へ戻り、ドアを閉めた。
そのまま床へ座り込む。
頭の中には、あの遺体しかなかった。
地下にいた男が真壁浩介なら、ここにいる俺は誰だ。
どうして真壁の名前を持っている。
仕事も、家族も、人生そのものも覚えている。
しかも、死者の後頭部が砕かれた場所と同じところに、俺にも傷痕がある。
スマホの写真を開いた。
紬の笑顔が映っている。
生まれた日の体重を覚えていた。
初めて「お父さん」と呼ばれた日のことも。
小学校の入学式では、ずっと俺の手を握っていた。
大学に合格したあと、駅まで送った。大きな荷物を背負ってホームへ向かい、最後に振り返って手を振った。
どれも鮮明だ。
作り物には思えない。
LINEで電話をかけた。
「お父さん?」
声を聞いた瞬間、喉が詰まった。
「いや……何でもない。ちょっと声が聞きたくなって」
「どうしたの、急に。今日ほんと変だよ」
「大学、どう?」
「普通。あ、でもお父さんのカレー食べたい。学食のやつ、ほんとにまずくて」
少し笑えた。
「今度、時間できたら行くよ」
「約束ね」
通話を切ってからもしばらく動けなかった。
そこで、もっと怖いことに気づいた。
事故のあと、自分の顔をちゃんと見たことがあっただろうか。
洗顔はする。髭も剃る。毎日鏡の前にも立つ。
でも、それはただの習慣だった。
鏡に映った男の顔を、意識して見た記憶がない。
洗面所へ駆け込み、照明を全部点けた。
鏡に近づく。
青白い顔。
落ちくぼんだ目。
見覚えがない。
まったく知らない顔ではなかった。
記憶の中にある真壁浩介と、目元や輪郭はよく似ている。
それでも違う。
誰かが記憶だけを頼りに、真壁浩介の顔を作り直したようだった。
頬へ触れる。
異様に冷たい。
服を脱いで身体を確かめると、胸も腕も脚も妙にきれいだった。
記憶にある真壁の身体には、長年の力仕事でできた古傷や、小さなほくろがいくつもあった。
今は一つもない。
後頭部の傷だけが残っている。
もう一度、紬へビデオ通話をかけた。
すぐに出た。
「何? さっき話したばっかりじゃん」
画面の紬を見る。
小さく表示された自分の顔にも目をやった。
やっぱり知らない男だ。
「紬」
「うん?」
「俺の顔……何か変じゃないか?」
「顔?」
紬は画面へ近づき、何秒かじっと見た。
やがて笑う。
「疲れてるだけじゃない? 普通にお父さんだけど」
返事ができなかった。
俺には、これほど異様に見える顔なのに。
娘には、何も変わっていない。
通話を終えた。
あの夜の成瀬の声が、また頭の中で響く。
――お前がそこに寝ている。
上着をつかみ、寮を飛び出した。
10
深夜の病院は静まり返っていた。
精神科病棟まで一気に上がり、307号室のドアを開ける。
成瀬は起きていた。
ベッドの端に座り、窓の外を眺めている。
音に気づいて振り返り、俺を見た途端、顔から血の気が消えた。
「お前……何で、まだここにいるんだ?」
ゆっくり近づく。
「お前が言ってた死体って、俺なのか?」
成瀬は答えなかった。
何度も首を縦に振る。
身体の震えで、ベッドまで小さく音を立てていた。
「二年前の夜、何があった?」
肩へ手をかけると、成瀬は短く悲鳴を上げて身体を縮めた。
しばらくして、ようやく口を開く。
「あの夜……俺も現場に残ってた」
最初は途切れ途切れだった。
それでも、一つずつ記憶をたどるうち、二年前の出来事が少しずつ形になっていった。
当時、大庭建設は数か月分の給料を滞納していた。
真壁浩介は夜間警備をしながら、現場の作業員と会社との間に入ることも多かったらしい。
事件の日も、大庭征司のところへ行って未払い分を払うよう求めていた。
「真壁さん、かなり怒ってた。『このまま払わないなら、みんなで労基に行く』って」
成瀬は膝の上で両手を握りしめた。
「大庭も酒飲んでてさ。最初は言い合いだったんだ。でも、だんだん声が大きくなって……」
一度、唇を噛む。
「気づいたら、二人とも掴み合ってた」
大庭は壁際にあった鉄筋をつかんだ。
一度だけ。
真壁の後頭部へ振り下ろした。
真壁はその場に倒れ、床へ血が広がった。
大庭が呼吸を確かめても、反応はなかったという。
「それで……俺を呼んだ」
成瀬の声が震えた。
「警察には行けないって。金も払うから、手伝えって」
その場にいたのは、大庭と真壁、それに成瀬だけだった。
二人で遺体をプレハブの外へ運び、地面を掘った。埋めたあと、その上へ夜のうちにコンクリートを流し、施工途中の基礎に見せかけた。
成瀬には十万円が渡された。
「黙ってろって言われた。しゃべったら、お前も共犯だって」
それから成瀬は、毎晩のように同じ夢を見るようになった。
血まみれの真壁がコンクリートの下から這い出してくる。
どうして助けなかった。
そう責め続ける。
罪悪感と恐怖に追い詰められ、とうとう耐えられなくなった成瀬は、スコップを持って現場を掘り返そうとした。
そこへ警察が来た。
人を殺した。
地面の下に死体がある。
成瀬は何度もそう訴えたが、最初の捜索では遺体が見つからなかった。
その後、精神科医の診察を受け、この病院へ入院することになった。
肩から手を離した。
「じゃあ……俺は誰なんだ」
自分の声なのに、知らない人間の声に聞こえた。
成瀬が目を開ける。
二年間、周囲から妄想の中にいると思われてきた男。
その目が今は、ひどく澄んでいた。
「分からない」
唾を飲む。
「本当に、お前が何なのか分からない」
成瀬は少し迷ってから続けた。
「三か月前、お前が急に病棟に現れた。みんな真壁って呼んでたけど、言ってることが人によって違ったんだ」
「違った?」
「前からここで働いてたって言う人もいた。最近来た夜勤の看護助手だって言う人もいた」
息が止まりそうになった。
成瀬がベッドの下へ視線を落とす。
「それから毎晩、お前が307に来るようになった。最初に見たとき、自分の病気がひどくなったんだと思ったよ」
ゆっくり床を指さす。
「だって、死体はそこにいるのに」
顔を上げた。
「なのに、お前も立ってる」
成瀬が俺の手首をつかんだ。
触れた瞬間、表情が変わる。
「……冷たい」
指が震えた。
「お前の手、全然温かくない」
11
翌朝、霧代県警の刑事が二人、病院へ来た。
遺体のDNA鑑定結果が出ていた。
二年前に失踪届を出していた真壁浩介の両親から提供された試料と、親子関係が一致したという。
工事現場から見つかった遺体は、真壁浩介だった。
年配の刑事が報告書を机に置く。
「では、今ここにいるあなたは誰なんですか」
答えられなかった。
警察は、「俺」の身元を改めて調べ始めた。
二年前に失踪した真壁浩介は四十二歳。離婚歴があり、大学生の娘が一人いる。失踪当時は、大庭建設の現場で夜間警備をしていた。
問題は、病院側の記録だった。
榊野総合医療センターには、説明のつかない二種類の記録が残っている。
柴崎をはじめとする古い職員は、俺が何年も前から働いていたと言う。古い紙の勤務表にも真壁浩介の名前があり、事故当日の映像にも、夜勤を終えて退勤する俺が映っていた。
ところが、正式な人事システムでは、真壁浩介が採用されたのは三か月前になっている。
運転免許証や住民票など、提出された書類は当時すべて問題なく確認されていた。
警察は、採用手続き当日の映像も調べた。
濃紺の上着を着た男が人事課へ入り、書類を提出して署名する。一連の動きは残っているのに、映像には薄い靄がかかったような乱れがあり、いくら拡大しても顔だけが判別できなかった。
さらに、三か月分の院内映像も確認された。
身体や制服、歩き方までは分かる。
なのに、顔が映るはずの瞬間だけ、決まって何かが邪魔をする。
ガラスの反射やドア枠、通り過ぎる職員。
あるいは、俺自身がちょうど俯く。
何十本もの映像を調べても、五官がはっきり分かる一枚は残っていなかった。
まるで、カメラにだけはこの顔を覚えさせまいとする何かがいるようだった。
刑事に聞かれた。
「三か月前、どうやってこの病院へ来たんですか。ここで働こうと思った理由は?」
「覚えてません」
それ以外、答えようがなかった。
過去の記憶はある。
紬が生まれた日も、離婚したあとの生活も、この病院で夜勤をしていた日々も覚えている。
何度も交わした申し送り。
歩き慣れた廊下。
どれも具体的で、作り物には感じない。
けれど時間を遡っていくと、本当に自分が目を覚ましてそこにいたと確信できる最初の瞬間は、三か月前の事故のあとだった。
それより前の人生は、最初から頭の中に入っていた物語に近い。
何が起きたかは分かる。
でも、そのとき自分がそこにいたという実感だけがない。
警察から勧められ、改めて精神科で詳しい検査も受けた。
意識は清明で、思考にも大きな問題はない。明らかな幻覚や妄想は認められず、強い心的外傷反応と、ある程度の解離傾向が見られるという結果だった。
久我先生にも再び事情聴取が行われた。
三か月前の救急記録を開き、刑事へ説明する。
「記録では、真壁浩介さんは交通事故による重度の頭部外傷で搬送されています。発見時には深い意識障害があり、約十二時間後に覚醒。その後、一時的な記憶の混乱がありました」
刑事が尋ねた。
「誰が搬送したんです?」
「通行人が通報して、救急隊が搬送したとあります」
「救急搬入口のカメラに、救急車が一台も映っていないのは?」
久我先生は記録へ視線を落とした。
「……それは、私にも分かりません」
事情聴取が終わりかけた頃、久我先生がふと思い出したように口を開いた。
「もう一つ、ずっと気になっていることがあります」
俺を見る。
「真壁さんの後頭部の傷です。かなり深かった。普通なら、十数時間であそこまで閉じるような傷ではありません」
一度、言葉を切った。
「でも翌日には、何日も経っているような治り方をしていました」
12
数日後、担当刑事から大庭征司が見つかったと連絡があった。
県警が人間関係と金の流れを追い、隣県の小さな町で発見したらしい。二年間、名前を隠し、日雇いの仕事をしながら暮らしていたという。
その後のことは、刑事から聞いた。
遺体とDNA鑑定、昔の現場関係者の証言、当時の金の流れを示され、大庭は二年前の事件を認めた。
真壁浩介と口論になり、鉄筋で後頭部を殴ったこと。
呼吸がないのを確認し、怖くなって成瀬へ遺体の処理を手伝わせたこと。
最初の捜索で遺体が発見されず、そのまま隠し通せると思ったこと。
それでも、その後はほとんど眠れなくなったらしい。
百万円の入った通帳も、大庭が残したものだった。
離婚後も真壁が娘の生活費や学費を負担していたことを知っていて、本当は元妻へ渡すつもりだったという。
けれど、顔を合わせる勇気が出なかった。
逃げる直前、結局、自宅へ置いたままにした。
警察は、三か月前に榊野市へ戻ったことがないかも確認した。
真壁浩介を名乗る男を見ていないか。
大庭は即座に否定したという。
「真壁は二年前に死んでます」
二年前の殺人については、これでほぼ全容が明らかになった。
成瀬についても、診断と治療方針が見直された。
遺体の隠蔽に関わったこと。
その後も長く大庭から脅されていたこと。
強い罪悪感と恐怖から、解離症状や精神病性の症状が出ていたこと。
「ベッドの下に死体がある」という訴えも、現実とまったく無関係な妄想として片づけられることはなくなった。
状態が安定したあと、成瀬は退院することになった。
その後は外来で治療を続けるらしい。
退院の日。
307号室の前で、荷物をまとめる成瀬を見ていた。
持ち物は少なく、小さなバッグ一つで全部収まった。
俺の横を通り過ぎるとき、成瀬が足を止めた。
「結局、お前は何なんだ?」
少し笑った。
「分からない」
成瀬は何も言わなかった。
しばらく俺の顔を見てから、病棟を出ていった。
誰もいなくなった307号室へ入る。
あのベッドは、同じ場所にあった。
ゆっくり膝をつき、下を覗く。
何もいない。
埃だけだった。
窓の外では、榊野市の灯りが点き始めている。
スマホを取り出した。
連絡先に「紬」とある。
アイコンは、少し前に旅行へ行ったときの写真だ。
電話はかけなかった。
地下に埋められていた男こそが、紬と一緒に生きてきた父親だとしたら。
俺の中にある娘との思い出は、誰のものなんだろう。
高熱を出した紬の横で、一晩中起きていたこと。
初めて海へ連れていった日。
思春期に大喧嘩して、部屋へ閉じこもられたこと。
全部覚えている。
俺にとっては、自分が生きてきた時間そのものだ。
でも紬にとって、それを一緒に経験した父親は二年前に死んでいる。
これ以上、彼女の生活に残っていいとは思えなかった。
いつか娘まで、俺と同じように。
目の前にいる男の顔を突然「知らない」と感じる日が来るかもしれない。
紬の連絡先を消した。
元妻と紬との三人だけのLINEグループからも抜けた。
他の知人の番号も、一つずつ削除していった。
307号室を出る。
夜の廊下を歩き、病院の玄関へ向かった。
誰にも声をかけなかった。
職員寮にも戻らない。
外はもう、深い夜だった。
そのまま暗闇の中へ歩いていった。
エピローグ
翌朝、榊野総合医療センターでは、夜勤の看護助手・真壁浩介が出勤していないことに気づいた。
連絡を取ろうとしたが、携帯電話はすでに使われていなかった。職員寮には、私物のほとんどが残されていた。
病院側は院内の映像を確認した。
最後に「真壁浩介」がはっきり記録されていたのは、前夜、307号室から出てきた場面だった。
その後も、何本かの映像に人影は残っている。
廊下を歩き、玄関へ向かっている。
ただ、やはり顔だけは一度もはっきり映っていなかった。
人影は玄関付近まで進み、そこで途切れた。
外のカメラに、真壁が出ていく姿はない。
駐車場にも、周辺道路にも、それらしい人影は映っていなかった。
警察も調べたが、それ以降、真壁浩介を見た者はいない。
まるで最初から――
真壁浩介という人間など、この世界のどこにも存在していなかったかのように。




