私の母は悪役令嬢だったらしい
テンポ早めです!
『私を愛し、大切に育ててくれた世界一優しいお母さんは――かつて国中から憎まれた『悪役令嬢』だなんて、一体誰が信じるだろう。』
辺境の村を包む空気は、いつも柔らかな日差しと、湿った土の匂いに満ちていた。
深い森の中で薬草を摘んでいた私は、ぬかるんだ斜面に足を取られ、そのまま短い悲鳴を上げて転がり落ちた。
頭を木の根に強く打ちつけた瞬間、火花のような痛みが走り――そして、濁流のように「別の誰か」の記憶が流れ込んできた。
コンクリートの建物。行き交う車。
そして、画面の中でキラキラと輝くキャラクターたち。
『星導のレガリア』
それが、前世の私が夢中になって遊んでいた乙女ゲームのタイトルだった。
そして同時に、私は自分が今生きているこの世界が、そのゲームの中であることを理解した。
「エルナ!エルナ、大丈夫なの!?」
弾かれたように目を開けると、そこにはひどく蒼ざめた顔で私を覗き込む母の姿があった。
艶やかな黒髪は無造作に束ねられ、着古した麻のワンピースには泥が跳ねている。
「お母、さん……」
「ああ、よかった。気がついたのね。今、治癒魔法をかけるから……」
母の手が私の額に触れ、淡い光が痛みを和らげていく。
そのひび割れた手は、畑仕事と薬作りで荒れているけれど、いつも私を優しく包んでくれる温かい手だ。
でも、私にはわかってしまった。
この優しくて、少し不器用で、村の誰からも頼りにされている私の母、セレスティアが――
ゲームの序盤でヒロインを虐め抜き、王太子から婚約破棄されて追放された『悪役令嬢セレスティア・ヴァンガード』であるということに。
―・―・―
その夜、小さな暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが、小屋の中に響いていた。
私はベッドの中で、毛布を握りしめながら天井を見つめていた。
隣の部屋からは、母が明日村に納めるための薬草をすり潰す、ゴリ、ゴリ、という規則正しい音が聞こえてくる。
(お母さんが、悪役令嬢……)
信じられなかった。
ゲームの中のセレスティアは、傲慢で冷酷で、平民出身のヒロインをゴミのように扱う嫌な女だった。
けれど、私の知る母は違う。
熱を出した村の子供のために徹夜で薬を煎じ、私にはいつも「誰かを恨んではいけないよ」と微笑んでくれる、強い人だ。
前世の記憶を必死に手繰り寄せる。
ゲーム本編では、悪役令嬢は一方的に断罪されて終わる。
けれど、ファンディスクで追加された『裏ルート』――そこでは、恐るべき真実が明かされていた。
母は、ヒロインを虐めてなどいなかったのだ。
当時、王家の乗っ取りを企てていた現宰相、バルディック侯爵。彼らの陰謀にいち早く気づいた母は、王太子(現在の国王)を守るため、たった一人で暗闘を繰り広げていた。
だが、バルディック侯爵はヒロインを利用し、巧妙な罠を張った。
すべての罪を母に被せ、王太子に「セレスティアがヒロインを害そうとしている」と信じ込ませたのだ。
結果、母は誰にも真実を明かせないまま、国を守るための犠牲となって追放された。
(なんて、理不尽なの)
毛布を握る手に、ぎゅっと力がこもる。
ゲームをプレイしていた時は「そういう悲しい設定なんだ」としか思わなかった。
けれど、今は違う。
私を育ててくれた、大好きな母の話なのだ。
「……お母さん」
隣の部屋の音が止み、母が静かに顔を出した。
「まだ起きていたの?頭は痛まない?」
「ううん、大丈夫」
母はベッドのそばに座り、私の髪を優しく撫でた。
その横顔には、貴族としての矜持も、憎しみも欠片もない。ただ、娘を愛する母親の顔だった。
「お母さん。……私、決めたの」
「何を?」
私は、母の黒曜石のような瞳をまっすぐに見つめ返した。
「私、王都の魔法学園に行く。特待生試験を受けて、絶対に合格してみせるわ」
「……!」
母の目が、驚きに見開かれた。
王立魔法学園。
それは、かつて母が通い、そして追放の憂き目に遭った場所。
そして今年は、続編ゲームの舞台となる年――現在の国王とヒロイン(王妃)の息子である王太子や、高位貴族の子息たちが入学する年だ。
そう、『星導のレガリア』には続編が出ることが発表されていた。それは前作の子供たちが主役の物語。キャラクターデザインの発表の時は、もちろん悪役令嬢である母の娘、つまり私の存在なんていなかった。
けど、そんなの関係ない。私はお母さんが受けた汚名を絶対に晴らす。
「……だめよ、エルナ。王都は、あなたには早すぎるわ」
母の声が、微かに震えていた。
私を危険な場所に近づけたくないという、親としての防衛本能だったのだろう。
「お母さんが私に教えてくれた魔法、村の誰よりもうまく使えるようになったわ。私、もっと広い世界で学んでみたいの」
「でも……」
「お願い、お母さん。私を信じて」
母の汚名を雪ぎたい。
バルディック侯爵の罪の証拠を見つけ出し、母が国を守った英雄であることを証明したい。
本当の理由は、絶対に言えなかった。
言えば、母は命に代えても私を止めるだろうから。
長い沈黙の後、母は深く息を吐き、困ったように笑った。
「……あなたは、昔の私にそっくりね。一度決めたら、絶対に引かないところも」
「お母さんの娘だもの」
「ええ、そうね。……わかったわ。特待生試験、受けてみなさい」
母の手が、私の頬を包み込む。
私は、その温もりを絶対に守り抜くと、心の中で固く誓った。
―・―・―
半年後。
王都を囲む巨大な白い城壁が、春の陽光を反射して眩しく輝いていた。
辺境からの長い馬車の旅を終え、私はついに王都の土を踏んだ。
手の中には、王立魔法学園の『特待生合格通知』が握られている。
母のスパルタとも言える魔法教育と前世の記憶のおかげで、筆記も実技も主席で通過することができたのだ。
「すごい人……。空気が、故郷とは全然違うわ」
行き交う人々は華やかな絹の服を着ており、道は綺麗に舗装されている。
だが、その華やかさの裏で、今もバルディック侯爵が国の中枢で甘い汁を吸っているのだと思うと、虫唾が走った。
「待っててね、お母さん。私が必ず、すべてを暴いてみせるから」
私は、簡素な鞄を握り直し、学園の門へと続く大通りを歩き出した。
学園の正門前には、すでに多くの新入生たちが集まっていた。
色とりどりのドレスや、仕立ての良い制服。私のような平民の衣服を着ている者は、特待生である数人しかいない。
「おい、見ろよ。今年の特待生か?」
「平民のくせに、ずいぶんと整った顔をしているな」
周囲の貴族たちがヒソヒソと囁き合う声が聞こえる。
私は背筋を伸ばし、氷のように冷たい無表情を作った。
母から受け継いだ、艶やかな黒髪と黒曜石の瞳。見下されることに慣れるつもりはない。
その時だった。
「――道を空けよ!ルシアン王太子殿下のお通りだ!」
近衛騎士のよく通る声が響き、群衆が海が割れるように左右に分かれた。
現れたのは、白馬に乗った一人の少年だった。
太陽の光を編み込んだような金髪に、空の青を溶かしたような碧眼。
彼こそが、この国の王太子であり、かつて母を追放した国王とヒロインの息子――ルシアン・アークライト。
(彼が、あの二人の息子……)
私は、群衆の陰から彼を静かに見つめた。
続編ゲームの中の彼は、完璧な王子様として描かれる予定なのだろう。だが、私にとっては、母からすべてを奪った者たちの象徴だ。
ルシアン王太子が馬から降り、優雅な所作で学園の門へと歩を進める。
その直後。
王太子の斜め後ろを歩いていた、銀髪に切れ長の目を持つ高慢そうな少年が、すれ違いざまに特待生の男子生徒の肩をわざと強く小突いた。
「あっ……!」
男子生徒がバランスを崩し、抱えていた教科書を石畳にぶちまける。
「おっと、失礼。道端に石ころが落ちているとは思わなくてね」
銀髪の少年は、薄く笑いながらそう言った。
その顔を見て、私の記憶がカチリとはまった。
(あいつ……バルディック侯爵の息子、セオドア!)
母を罠に嵌めた黒幕の息子。
彼を見た瞬間、私の中で冷たい怒りの炎が静かに燃え上がった。
私は周囲の制止も聞かず、一歩前に踏み出した。
「あら、おかしいですわね。あなたのその立派な目は、飾りのためのガラス玉なのでしょうか?」
澄んだ声が、喧騒の門前に響き渡る。
セオドアが振り返り、ルシアン王太子の足もピタリと止まった。まるで周囲の空気が、硝子のように凍りついたようだった。
特待生の男子生徒をわざと突き飛ばしたセオドア・バルディックは、信じられないものを見るように私を振り返った。
銀色の髪が揺れ、その切れ長の目が怒りに歪む。
「……平民の分際で、いま何と言った?」
「事実を申し上げたまでですわ」
私は一歩も退かず、淑女の微笑を唇に貼り付けた。
母から教わった、どんな時でも心を見透かされないための完璧な仮面。
「足元の石ころにも気づけない方が、どうしてこの国の未来を見据えることができるのでしょうか。侯爵家のご子息ともあろう方が、ずいぶんと視野が狭いのだと感心しておりましたの」
「貴様……ッ!」
セオドアが杖に手を伸ばそうとした、その時だった。
「やめないか、セオドア」
静かだが、絶対的な威厳を持った声が制した。
ルシアン王太子だった。
彼は太陽のような金髪を揺らし、私とセオドアの間に歩み出た。
「彼女の言う通りだ。君は前を見ていなかった。……彼に謝罪し、本を拾いなさい」
「で、殿下!しかし、この無礼な平民が……!」
「僕の言葉が聞こえなかったのかい?」
ルシアンの碧眼が、すっと細められる。
その冷ややかな光に、セオドアは舌打ちを飲み込み、屈辱に顔を赤くしながら男子生徒の本を拾い上げた。
ルシアン王太子はそれを見届けると、ふと私の方へ視線を向けた。
彼の整った顔立ちには、デザイン案で見たような甘い王子様の微笑みではなく、どこか値踏みするような鋭さがあった。
「君は、今年の特待生だね。名前は?」
「……エルナと申します。殿下」
私は静かにカーテシーをして見せた。
平民の少女がするにしては洗練されすぎているその所作に、ルシアンの眉がわずかに動いたのがわかった。
「エルナ。……勇敢なのは美徳だが、王都は街や村とは違う。あまり目立つと、足元をすくわれるよ」
「ご忠告、感謝いたします。ですが、私は自分の足元はしっかりと見据えて歩くよう、母から教わっておりますので」
私の言葉に、ルシアンは「そうか」とだけ短く返し、学園の中へと歩き去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
(ゲームの説明にあった『完璧で優しい王子様』とは、ずいぶん印象が違う……)
だが、好都合だ。
彼がただの飾り物ではないのなら、真実を見せる価値がある。
母を陥れたバルディック侯爵の罪を、彼自身の目で裁かせるための価値が。
―・―・―
学園での生活は、思いのほか順調だった。
座学も実技も、私は常にトップの成績を修めた。
母の魔法教育は、学園の教師たちのそれよりも遥かに高度で、実践的だったからだ。
周囲の貴族生徒たちは私を「生意気な平民」と遠巻きにしていたが、実力主義のこの学園では、成績こそが最大の盾になった。
そして夜。
私は毎晩、寮を抜け出しては学園の地下深くにある『禁書庫』へと足を運んでいた。
母が追放された十五年前の事件。その真実が記された記録を探すためだ。
冷たい石造りの階段を降り、古い羊皮紙と埃の匂いが満ちる空間へ進む。
母直伝の隠蔽魔法を纏った私は、夜警の教師の目にも、魔力感知の結界にも引っかからない。
闇に溶け込むようにして書棚の間をすり抜け、過去の政治記録の棚を漁っていた、その時だった。
「……こんな時間に、特待生がここで何をしているのかな?」
背後から唐突に声が掛かった。
心臓が跳ね上がるのを必死で抑え、私はゆっくりと振り返った。
暗がりの中、ランタンの淡い光に照らし出されたのは――分厚いファイルを持ったルシアン王太子だった。
「……殿下こそ。このような埃っぽい場所で何を?」
私は動揺を隠し、冷ややかな声で応じた。
私の隠蔽魔法を見破ったことへの驚きはあったが、それを顔に出すわけにはいかない。
ルシアンは少し面白そうに目を細め、ランタンを近くの机に置いた。
「過去の亡霊を探しにね」
「亡霊、ですか」
「ああ。……僕の母は、十五年前に一人の悪逆非道な令嬢を退け、父上と結ばれて王妃となった」
ルシアンの言葉に、私の肩がピクリと反応した。
彼が語っているのは、まさに私の母、セレスティアのことだ。
「誰もがその令嬢を『稀代の悪女』と呼ぶ。だが、僕が幼い頃に見つけた古い魔力観測の記録では、少し矛盾があってね。……彼女が使ったとされる呪いの魔力痕と、当時の彼女の魔力特性が一致しないんだ」
ルシアンは、手に持っていた分厚いファイルを開いて私に見せてきた。
私は息を呑んだ。
彼は、あの事件に疑問を持っている……?
「宰相であるバルディック侯爵は、記録は処分されたと言っていた。だが、僕は自分の目で確かめないと気が済まない性質でね」
「……」
「君は、何を探しているんだ?エルナ」
彼の碧眼が、私をまっすぐに射抜く。
この人に真実を話すべきか。
いいえ、まだだ。決定的な証拠がない限り、バルディック侯爵の権力に握りつぶされるだけだ。
「私はただの知的好奇心ですわ。古い魔法陣の設計図を探しておりましたの」
「そうか。知的好奇心、ね」
ルシアンはそれ以上深く追及しなかった。
だが、すれ違いざまに、彼がふと足を止めた。
「君の魔法……隠蔽の術式が、あの記録に残されていた『悪女』の魔力波形に少し似ている気がしたんだが。気のせいかな?」
「……それは光栄ですわ。歴史に名を残す方と同じだなんて」
私は完璧な微笑みで返し、静かにその場を後にした。
背中を流れる冷や汗が、ひどく冷たかった。
―・―・―
翌日の放課後。
私は、誰もいない旧校舎の裏庭に呼び出されていた。
待ち構えていたのは、セオドア・バルディックと、その取り巻きの数人だった。
「ずいぶんと調子に乗っているようだな、平民」
セオドアが、薄ら笑いを浮かべて近づいてくる。
「毎夜、地下書庫をうろつき回って、何を嗅ぎ回っている?」
「……あら、侯爵家のご子息ともあろう方が、夜な夜な平民のストーカー行為ですか?趣味が悪いと存じますわ」
「減らず口を叩くな!」
セオドアの合図で、取り巻きたちが杖を構えた。
だが、私は微動だにしない。
「忠告してやろう。うちの父上が、お前のような小娘の不審な動きを把握していないとでも思ったか?これ以上、ルシアン殿下に近づき、妙な真似をするなら……お前だけじゃなく、辺境にいるお前の家族もどうなるかわからないぞ」
家族。
母のことだ。
その瞬間、私の中の復讐の怒りの炎が全身を駆け巡った。
「……侯爵家は、そうやって他人の家族を脅して権力を握ってきたのですね」
「何だと?」
「十五年前もそうやって、無実の令嬢を罠に嵌めた。違いますか?」
私の言葉に、セオドアの顔からサッと血の気が引いた。
「き、貴様……何をデタラメを……ッ!やれ!痛めつけて口を塞げ!」
取り巻きたちが一斉に魔法を放つ。
炎と風の刃が、私に向かって殺到した。
だが、私は杖すら抜かなかった。
母が教えてくれた魔力の基礎と前世の記憶を元に編み出した詠唱すら必要としない、真の古代魔法。
「――《氷結界グラキエス》」
私が小さく呟いた瞬間。
空間の温度が急激に下がり、襲いかかってきた魔法が空中で文字通り凍りつき、粉々に砕け散った。
「な、なんだこれは……!?」
「無詠唱で、これほどの魔法を……平民が!?」
動揺する彼らを冷たく見下ろし、私は一歩、セオドアに近づいた。
「吠える犬ほど臆病だと言いますわ、セオドア様。あなたのお父様が何を恐れているのか、私が必ず探し出して差し上げます」
「ひっ……!」
「二度と、私の母――私の家族を脅すような真似はしないでくださいませ。次は、その口ごと凍らせますわよ」
腰を抜かしたセオドアたちを残し、私は旧校舎を後にした。
(急がなきゃ)
バルディック侯爵は、すでに私の存在に勘付いている。
あの時、ルシアン王太子が持っていた分厚いファイル。そして、地下書庫の奥に隠されていたであろう、侯爵の不正と陰謀の証拠。
私はその夜、再び禁書庫の最奥へと足を踏み入れた。
そして、幾重にもかけられた侯爵の封印魔法を、母の術式で一つずつ解き明かし――ついに、古びた黒革の手帳を引きずり出した。
十五年前の裏帳簿。
母・セレスティアに罪を被せるための、偽造工作のすべてが記された決定的な証拠だ。
「……見つけた」
手帳を握りしめ、私は暗い地下室で一人、唇を噛み締めた。
これを、明日ルシアン王太子の元へ持っていく。
それが、すべての決着の始まりになるはずだ。
だが、背後でカチャリと、重い鉄格子の扉が閉まる音がした。
「――やはり、あの女の娘か」
闇の中から現れたのは、冷酷な目をした中年の男。
現宰相、バルディック侯爵だった。
重い鉄格子の扉が閉ざされ、冷たい地下室にバルディック侯爵の足音が響いた。
「まさか、あのセレスティアの娘がのこのこと王都に現れるとはな。しかも、私の書庫を嗅ぎ回るとは」
ランタンの灯りに照らされた侯爵の顔には、酷薄な笑みが浮かんでいた。
私は黒革の手帳をローブの奥に隠し、母譲りの黒曜石の瞳で彼を睨み据えた。
「……やはり、あなたがすべてを仕組んだのですね」
「いかにも。あの女は頭が回りすぎた。王家を牛耳ろうとする私の計画にいち早く気づき、嗅ぎ回っていたからな。だから、あの愚かな小娘――今の王妃を利用して、王太子の暗殺未遂という濡れ衣を着せてやったのだ」
侯爵は、まるで昔の武勇伝でも語るかのように得意げだった。
「十五年前、あの女を殺し損ねたのは私の失態だった。だが、親娘ともどもここで闇に葬れば、過去の秘密は完全に消え去る」
侯爵の手に、どす黒い魔力が集まり始めた。
特級の闇魔法。まともに受ければ、命はないだろう。
「事故死として処理してやろう。地下書庫の崩落に巻き込まれた、哀れな特待生としてな!」
放たれた漆黒の炎が、私に向かって牙を剥く。
だが、私は一歩も下がらなかった。
母が教えてくれたのは、絶望の中で立ち向かうための力だ。
「――《光盾アイギス》」
無詠唱で展開された純白の魔法陣が、漆黒の炎を完全に弾き返した。
「なっ……無詠唱だと!?小娘風情が!」
「お母様は、あなたのような卑怯者に負けるほど弱くはありませんでした。その娘である私が、あなたに後れを取るはずがありませんわ」
私は杖を構え、次々と古代魔法を展開する。
《氷槍グラキエス・ランス》が侯爵の防御壁を砕き、《風縛シルフ・バインド》が彼の動きを封じていく。
実戦経験の差ではない。
母が私に託した『正しい魔力の使い方』と前世の知識が侯爵の歪んだ魔力を凌駕していたのだ。
「ええい、生意気な!ならばこれを使わざるを得まい!」
追い詰められた侯爵が、懐から禍々しい光を放つ魔石を取り出した。
禁制品の増幅魔石だ。それを使えば、地下室ごと吹き飛ぶほどの自爆攻撃になりかねない。
(止めなきゃ……!)
私が最大の氷結魔法を放とうと魔力を練り上げた、その瞬間だった。
「――そこまでだ、宰相閣下。いや、大逆人バルディック侯爵」
地下室の闇を切り裂くように、眩い光の球がいくつも灯った。
鉄格子の向こうに立っていたのは、ルシアン王太子だった。彼の背後には、王家直属の近衛騎士団がずらりと並んでいる。
「で、殿下!?なぜ、このような場所に……ッ!」
「君の動きが怪しいと睨んで、彼女を少しだけ『泳がせて』もらったのさ。君が証拠の隠し場所に自ら案内してくれるのを待っていた」
ルシアンは涼しい顔でそう言うと、近衛騎士たちに合図を送った。
扉が開かれ、あっという間に侯爵は拘束された。
「殿下、誤解です!この平民が私を襲撃し……!」
「見苦しいよ、侯爵。君の自白は、僕も騎士たちもすべて聞いていた。それに――」
ルシアンの視線が、私に向けられた。
私は無言で、ローブに隠していた黒革の手帳を彼に差し出した。
「十五年前の裏帳簿、ならびに暗殺未遂の偽装工作の記録です」
ルシアンは手帳を受け取り、パラパラとページをめくると、酷く冷ややかな目で侯爵を見下ろした。
「言い逃れはできないよ。……連行しろ」
絶望の叫びを上げる侯爵が連れ去られていく。
張り詰めていた糸が切れ、私が小さく息を吐いた時だった。
「エルナ」
ルシアンが、私の前に膝をついた。
王太子が、一介の平民に対して取るべき姿勢ではない。
「ルシアン殿下……?」
「すまなかった。君を危険に晒すような真似をして。……そして、王家を代表して謝罪させてほしい」
彼の碧眼には、深い後悔と、確かな敬意が宿っていた。
「十五年前、君の母親であるセレスティア嬢は、たった一人でこの国を守ろうとしてくれていた。それなのに、僕の父と母は彼女を信じず、罪を着せて追放してしまった。……本当に、すまなかった」
その言葉を聞いた瞬間。
私の中でずっと燻っていた冷たい怒りが、ふっと溶けていくのを感じた。
「……殿下が謝ることではありません。あなたは、あの時まだ生まれてもいなかったのですから」
「それでも、僕の親が犯した罪だ。……必ず、君のお母上の名誉は回復させる。約束する」
彼の真摯な言葉に、私は静かに、けれど心からの笑みを浮かべて頷いた。
―・―・―
それからの一ヶ月は、目まぐるしかった。
裏帳簿の発見により、バルディック侯爵とその一派は一網打尽にされた。
もちろん、私に絡んできた息子のセオドアも、貴族の身分を剥奪され領地へ追放となった。
そして、十五年前の真実が公表された。
「稀代の悪女」と呼ばれた令嬢は、実は国を陰謀から救った「真の英雄」であったと。
春の終わりの、よく晴れた日。
王宮の謁見の間には、少し居心地悪そうにしている私の母、セレスティアの姿があった。
豪華なドレスを着せられているが、中身は辺境の村で薬草を摘んでいる優しい母のままだ。
玉座の前では、現在の国王と王妃――かつての王太子とヒロインが、深く頭を下げていた。
「セレスティア……。すまなかった。我々は、君の気高さに気づけず、取り返しのつかない過ちを犯した」
「あなたを傷つけて……本当に、ごめんなさい」
王妃が涙ながらに謝罪する。
母は少しだけ困ったように微笑み、そして静かに首を振った。
「どうか、頭をお上げください。私は今、辺境の村で愛する娘と共に、とても幸せに暮らしておりますから」
母の言葉には、一片の嫌味もなかった。
それは、過去の恨みよりも、今の幸せを大切に生きている母らしい、強くて美しい返答だった。
謁見が終わり、私が王宮のバルコニーで風に吹かれていると、不意に隣に人の気配がした。
ルシアンだった。
「お母上は、素晴らしい人だね。君が命懸けで名誉を回復したかった理由が、よくわかったよ」
「ええ。私の自慢の母ですから」
私が誇らしく胸を張ると、ルシアンは少しだけ意地悪く目を細めた。
「でも、君も相当なものだ。僕を出し抜き、一人で侯爵の尻尾を掴もうとするなんて」
「あら。結果的に、殿下に見つけていただいたではありませんか。美味しいところを持っていくのが、王族の特権なのかしら?」
「手厳しいな。でも、そういう君の強さが……僕は嫌いじゃない」
ルシアンの横顔が、ふと真面目なものに変わる。
春の風が、彼の金髪を優しく揺らしていた。
「親たちの世代の因縁は、これで終わりだ。……これからは、僕たちの時代を作ろう」
彼は、すっと右手を差し出してきた。
「王座の隣には、君のように足元をしっかり見据え、前を向ける人間が必要だ。……どうだろう、エルナ。これからも、僕のそばでこの国を支えてくれないか?」
それは、単なる学園の同級生への言葉ではないことは、ルシアンの目を見ればわかった。
未来の王としての、そして一人の男性としての、不器用で誠実な告白。
私は、彼の碧眼をまっすぐに見つめ返した。
ゲームのシナリオなんて関係ない。ここにあるのは、私が私自身の足で勝ち取った、新しい未来だ。
「……考えておきますわ。私、とても優秀な特待生ですから、安売りはいたしませんのよ?」
わざとつれない態度を取って見せると、ルシアンは呆れたように笑い、やがて優しく私の手を取った。
「いいだろう。君がその気になるまで、何度でも口説かせてもらうよ」
王都を包む春の空気は、磨かれた硝子のように澄み渡り、私たちの新しい物語の始まりを祝福しているようだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
短編として作ったため、テンポ感を早めにしてみました!
よろしければ評価してくださると励みになります!
よろしくお願いいたします。




