第二話:歴史学と、移行への憧憬
学府の三時限目、歴史学。
窓から差し込む陽光は、防護結界によってマナの屈折率が完璧に調整されており、一年中変わらない、うっとりするような心地よい暖かさを保っている。暑すぎず、寒すぎず、ただただ平穏な光だ。
「――このように、アルティアの歴史は、事実上アルティア暦1682年をもって『正解』に辿り着いたと言えます」
教壇に立つ初老の講師の声は、空間端末でノイズキャンセリングと音量最適化が施されているせいか、どこか合成された楽器のように滑らかに教室へ響いていた。
ルーゼの卓上に広がるホログラム年表には、かつて大魔導戦争で焦土と化した大陸が、またたく間に浄化され、巨大な白亜の管理都市へと変貌していく美しい早回しの映像が流れている。
「かつて『魔法』と呼ばれた個人の不確定な意志は、全域安定化合意に伴うマナの完全統制を経て、『科学』という強固な法則へと再定義されました。私たちは世界を完全に数値化し、飢餓も、理不尽な暴力も、そして『予期せぬ悲劇』をも克服したのです」
ルーゼは頬杖をつきながら、指先で卓上のホログラムをツンツンとなぞった。
指が触れるたび、光の粒子が波紋のように広がるが、瞬時に計算されて元の乱れのないグリッドへと戻っていく。
この世界は、何をしてもすぐに「元通り」になる。傷一つ残らない。
「ねえ、ルーゼ。卒業後の希望移行区画、もう決めた?」
隣の席のミーナが、教科書用のウィンドウの裏で最新のファッション誌を開きながら囁いてきた。
「……ううん、まだ。……ミーナは決めたの?」
「私は絶対、『白亜の記録庫』の第三セクター! さっきニュースで見たんだけど、あそこに新しく『古典様式の疑似自然公園』がアーカイブされたんだって。移行の権利をもらえたら、毎日あそこで、一番可愛い年齢のデータのままバカンスできるんだよ。最高じゃない?」
ミーナの瞳は、未来への希望でキラキラと輝いている。
彼女にとって、そしてこの時代の若者たちにとって「移行」は、人生の終着点ではなく、輝かしいご褒美だ。病気になり、老いていく「肉体」という不便な器を脱ぎ捨てて、永遠に美しく、磨耗しないデータになること。それが一番の幸せだと、誰もが信じて疑わない。
「……へえ、いいな。……でも、それって『本物』じゃないんでしょ?」
ルーゼが小声で返すと、ミーナは不思議そうに、きょとんとして首を傾げた。
「本物って……。五感への信号も、マナの解像度も、この現実と全く同じなんだよ? というか、風邪も引かないし、泥で服が汚れることもないし、あっちの方が絶対『上質な本物』じゃない? ルーゼって、たまに本当に変わったこと言うよね」
「……そっか。そうだね」
ルーゼは曖昧に笑って、視線を落とした。
机の下で、自分の左手で右手をぎゅっと握ってみる。
じわりとした体温。骨の硬さ。少しだけ汗ばんだ掌。
今朝食べたトーストの、昨日とは違う「一ミリの焼き加減の差」。
この「面倒くさい肉体」がいつか滑らかなデータになって、永遠の静止の中に溶けていく。その未来が、ルーゼにはどうしても「安心」ではなく「終わり」のようにしか思えなかった。
『――次の時間は、基礎同期の演習です。皆さん、空間端末の感覚フィルターをオンにして、マナの波形を推奨値に整えてください』
講師の声が、授業の終わりを告げる。
静かなチャイムが鳴った。昨日と一寸の狂いもない、正確な音程のメロディ。
「終わったー! ね、行こうよルーゼ。第七区画のショッピングモールで『溶けないアイス』の限定フレーバー出たんだって!」
ミーナに腕を引かれ、ルーゼは席を立つ。
完璧な秩序。
約束された永遠。
明日は、今日と全く同じようにやってくる。
それが一番幸せなことだと分かっているのに、ルーゼの胸の奥には、今朝見た「空を見上げる稼働者」の空っぽの顔が、小さな棘のように引っかかったままだった。




