第一話:空に環がある朝
「よしっ、今日も完璧な青空!」
窓を勢いよく開け放ち、ルーゼ・ポーハントは大きく伸びをした。
アルティアの朝は、いつだってすがすがしい。気象制御タワーが完璧にマナの乱相を抑え込んでいるおかげで、不快な湿度も、強すぎる日差しもない。
そして空を見上げれば、天頂を分断するように白銀の『軌道環』が美しく輝いている。
手首の空間端末を弾くと、半透明のスクリーンが空中に浮かび上がり、朝のニュースが流れ始めた。
『――本日のマナ流、全域で定常状態を維持。白亜の記録庫への移行処理も遅滞なく進行中です。皆さま、今日も最適化された素晴らしい一日を――』
「最適化された一日、かぁ。でも、寝坊だけはシステムも助けてくれないんだよね」
ルーゼはくすっと笑い、焼きたてのトーストを口にくわえながら、慌てて制服のリボンを結んだ。
彼女は「純人」の学生だ。特別な魔法の才能もなければ、長命種のような寿命もない。ただ、この便利で完璧な世界を、それなりに楽しく生きている普通の女の子。
カバンをひっつかんで玄関を飛び出すと、ルーゼはスニーカーの踵を軽く地面に打ち付けた。
「――心体強化、接続!」
靴底に仕込まれたマナ安定結晶が、ルーゼの微量な意志に反応して淡く発光する。
次の瞬間、白亜の路面の摩擦がふっと消え去った。
ルーゼが軽く地面を蹴ると、まるで氷の上を滑るように、身体がふわりと前方へ押し出される。高度な魔導工学の恩恵を受けたこの『滑走移動』は、今や学府へ通う若者たちの標準だ。
「わっ、今日の風、ちょっと冷たくて気持ちいい!」
頬を撫でる風を感じながら、ルーゼは機嫌よく街路を滑り抜けていく。
整備された真っ白な街並み。ゴミ一つ落ちていない歩道。
そこかしこで、関節の継ぎ目がない真っ白な人型機械――『稼働者』たちが、寸分の狂いもない動作で花壇の手入れや清掃を行っている。
「おはようございます! 今日もピカピカにしてくれてありがとう!」
すれ違いざまにルーゼが元気に声をかけても、白い稼働者たちはピクリとも反応しない。
のっぺらぼうの彼らは、呼吸すらしていない。ただ、都市の維持プログラムに従って動く、無機質な器だ。いつか、空の上の「白亜の記録庫」から、永遠を生きる移行者たちが意識を降ろしてくるための空っぽの依代。
(ま、返事がないのはいつものことだけどね)
ルーゼは少しだけ肩をすくめて、さらに加速した。
「あーっ! ルーゼ、またギリギリじゃん! 待ってよー!」
後ろから、友人のミーナが滑走しながら追いかけてきた。手元の空間端末で動画を流し見しながら、危なっかしい進路で突っ込んでくる。
路面に淡い光の紋様が走ると同時、衝突回避同期が二人の速度と軌道を滑らかに同調させた。
磁石が引き合うように、ミーナはグイグイと距離を詰め、肩が触れそうな近さでルーゼの隣にピタリとくっついた。
「おはよ、ミーナ! だって今日、トーストがすごくいい感じに焼けたんだもん。ゆっくり食べなきゃもったいないでしょ?」
「出た、ルーゼの謎のこだわり。魔導熱機なんだから、毎日一ミリの狂いもなく同じ焼き加減になるはずなんですけどー?」
「それがね、微妙に違うの! 今日のほうが絶対サクッとしてた!」
「はいはい、そういうことにしとく。あ、そういえば今日の午後、第三区画で……」
ミーナと笑い合いながら、学府の正門へと続く緩やかな坂を滑り上がる。
いつもと変わらない、平和で明るい朝。
どこまでも続く静止した日常。
――ザザッ。
その時だった。
ルーゼの耳の奥で、微かなノイズが鳴った。
「え?」
滑走のスピードを緩め、ルーゼは立ち止まった。
頭上の空。世界を完璧に管理しているはずの『軌道環』の白銀の光が、ほんの一瞬、心臓の鼓動のように不規則に瞬いたのだ。
同時に、周囲の空気が「ひやり」と冷たくなった。
気象制御の冷たさではない。何か、もっと根源的な……マナそのものが震えるような、異様な気配。
「ルーゼ? どうしたの、急に止まって」
ミーナが不思議そうに振り返る。
「……ううん。今、空がちょっと変に光らなかった?」
「えー? 何も光ってないよ。全域安定化してるんだから、システムエラーなんて起きるわけないじゃん。ほら、早くしないとチャイム鳴っちゃうよ!」
ミーナは気にした風もなく、再び滑り出す。
ルーゼも慌てて後を追おうとしたが、ふと視線の端で「それ」を捉えた。
学府の門の脇で、植え込みの剪定をしていた一体の白い稼働者。
その稼働者が、作業をピタリと止め、空を――明滅した軌道環を、じっと見上げていたのだ。
プログラムには存在しないはずの、何かに「魅入られた」ような動作。
(気のせい……だよね)
ルーゼは小さく首を振り、再び心体強化の回路を繋いでミーナの後を追った。
彼女が駆け抜けた背後で、ただ一体の白い機械だけが、いつまでも静かに空を見上げていた。




