涙って、少ししょっぱかったりします。
最終話です。
何の前触れもなかったが、ネフィルは予期していた。
画面からカイの姿が消えた瞬間に。
案の定。
「お帰り、カイ。」
ふわりとソファに着地した黒猫は、ふう、とため息をひとつ。
「ただいまです。」
「ねえ、何で?」
「はい?」
「何で殺さなかったの?」
ネフィルは傍のカイを見下ろしながらそう訪ねた。
黒猫はエメラルドの目でネフィルを見上げる。
「あなたがそれを望まないからですよ、ネフィさん。」
ネフィルは首を傾げた。
「私、自分で殺したいって言った。聞いてたでしょ?」
黒猫は頷いたが、こともなげに答える。
「それも本心ではあるでしょうね。だけどあなたは生きている限り後悔し続ける。ボクにそれがわからないと?」
「だとしても余計なお世話っ!」
ネフィルはカイの首根っこを掴むと、目の前に持ち上げた。
「く、苦しいっ!猫をこんなふうに持っちゃいけないんですってば!」
「アンタ猫じゃないじゃない!」
ネフィルはカイを床に放り投げた。
猫じゃないけど、今は猫であるカイはひらりと着地を決める。
〝うーん、我ながら10.0。
ボクはちょっぴりいい気分だけど、ネフィルは違うみたい。〟
カイは、彼女を振り向いた。
「イヤなの。」
ポツンと呟いて、ネフィルは俯いた。
「ネフィさん?」
「あ、あんなのが私の…。」
「ネフィ…。」
膝の上でギュッと握った拳に、ボタっと涙が落ちる。ひと滴、更にひと滴、生暖かい涙が震える頬を滑り落ちた。
突然、ソファの座面がぐっと沈み込んだ。
ネフィルは立ち上がろうとしたが、その前に人型のカイが彼女の肩を抱き寄せる。
「ひ、卑怯だよね、アンタって。」
「情報将校なので。」
ネフィルは黙って頭をカイの肩に預けた。
「…あなたを傷つけたなら謝ります。ボク、ひとの感情への配慮が足りないってよく言われますから。」
特に女性に対して。
「アンタ、私に構いすぎだよ。」
「え?」
「ほっといてくれたらいいのに。」
唇が震えた。後から後から、涙がどんどん溢れてきて止まらない。
一体どこにこんなにも涙のストックがあったのか、ネフィル自身呆れるしかなかった。
なぜ泣いているかもよくわからない。
あの男が生きてることが悔しいのか、カイの手を汚すことにならなかったのが嬉しいのか、自分の血を呪いたいのか。
「ボクね、かなり強い生き物なんです。」
カイがポツリと言った。
「だから、ボクには他人の気持ちがわからないって、ご主人様に言われました。他人の痛みや苦しみ、悲しみみたいなことに疎いって。」
ネフィルは泣きながら黙って耳を傾けた。
「お前は弱者を知るべきだって言われて、士官学校に放り込まれました。24時間、2年間を人間として過ごしてみろってね。もしも正体が露見したら、ご主人さまにお仕えすることができなくなる条件でした。」
「それ、キッツ…。」
白い栗鼠もどきに変身出来るネフィルとしては、変身した姿でそんな長い時間を過ごすなんて考えられない。
「ボクもそう思いましたよ。絶対ムリだって。ご主人様は、ボクが要らないからそんな無茶な条件を出すんだって。深い深い穴の底に突き落とされたみたいな気分でした。でも、ボクにはご主人様以外、主君も家族もいない。ボクらはそういう性質の生き物なんです。」
「そっか…。やっぱ人間とは違うんだ。」
カイは頷いた。
「そしてボクはやり抜きました。今では楽しい思い出です。まあ、ご主人様ははっきり言って、かなりクセのある方ですけどね。」
「でも帰るんだね、カイ。その人のとこへ。」
ネフィルは知っていた。
これはカイなりの別れの言葉だということを。
「あの遺言動画ですが、ネットのどこを探しても残らないよう処理済みです。」
ネフィルの今後を考えての処置だろう。
「あとね、ボクはあまり優しくはないですから、あなたがここで見ていた映像は、リアルタイムで全世界配信済みです。全てをね。こちらは消去してません。どこかの複数のアーカイブに、永遠に残り続けるでしょう。そしてあなたには申し訳ないですが、この国では今後、大規模な政変が起きるでしょう。他国に併呑されるかもしれません。生き延びて下さいと言ったら、あなたはボクを恨みますか?」
ネフィルは首を振った。
「もう十分よくしてもらったよ。私の人生だもん、これからは、私が頑張るしかないじゃない。」
「あなたなら大丈夫。…それと、今後シドルーフォス卿は、全世界から糾弾されて、死んだ方がマシだと思うことになるでしょうね。一族の資産は凍結しましたから、逃亡しても捕まるのは時間の問題でしょう。も一つおまけです。彼は今後生きている限り、絶え間ない疼痛に見舞われ続けるでしょう。」
「え?なんかの病気とか?」
「神経を少しいじりました。治ることはありません。苦痛で発狂するかも知れませんが、誰かを害するほどの身体機能は残してないので、まあ大丈夫でしょう。生ある限り苦しんで頂きます。」
「エグ…。アンタってほんと容赦ないんだね、カイ。」
「お褒めに預かって恐縮です。」
褒めてない。絶対褒めてないんだけど。
ネフィルは涙に濡れたアクアマリンの目を上げた。
「もう行くんだね。」
「はい。それからあなたの新しい身分に関するものはテーブルの上にあります。では、ボクはこれで…」
言いかけたカイの唇に柔らかで温かいものが押し当てられた。
ネフィルの唇である。彼女の両腕はカイの首に回されている。
キスは長く続き、カイはネフィルを抱きしめた。
そのままどれくらいの時間が経っただろうか。
「さようなら、ネフィル。」
そんな声を聞いたような気がした。
抱きしめていたはずの両腕から、確かにそこにあっだはずの質量が喪失した時。
「さようなら、カイ。」
その言葉はカイに届いたかどうか。
ソファの上にはただ1人、ネフィルだけが残されていた。
ひと月の後。
巨大国家連合の中枢、首都惑星リマノにある行政府〝宮殿〟の迷路の奥深く、闇に囲繞された盟主執務室に、跪くカイの姿があった。
「翼の騎士カイ・エミリオ・バルト、只今帰還致しました。」
近衞である飛龍遊撃隊特有の敬礼は、かなり古めかしい。
この部隊に所属しているのは全員、人型に擬態したドラゴンである。
彼らは長命種だ。
隊の儀仗的あれこれは数千年の歴史を持つ礼法に則っているから、万事が時代遅れなのは致し方ない。
「お帰り、カイ。」
答礼を省いて、柔らかな微笑みを見せたのはカイのご主人様。
今日は簡素なロープ姿である。
第15代銀河連邦盟主〝紫の宮〟は、歴代最強の〝神族〟である。
だが。
「どやった、休暇は?」
ゆったりした関西弁だ。
少なくとも数百の言語に通じる盟主だが、これが1番リラックス出来る言葉であるらしい。
「どう、と仰られましても、龍一さま。」
「ふふ。美味い果物にでも会えたんか?」
カイは少し考えた。
「そうですね。」
柔らかな桃のような香りと色。
甘い唇の感触。
「でも、最後はちょっとしょっぱかったです。」
盟主の笑みが深まる。
「人生そんなもんかもな。」
「御意。」
ネフィルの前から姿を消して約1ヶ月、カイは人知れず彼女を見守り、同時にあの世界の行く末を眺めていた。
いくつかの危険な兆候に対処しつつ、シドルーフォスと教皇の残党狩りも行いはしたが、ネフィルがそれを知ることは永遠にないだろう。
それで良かった。
彼女は大丈夫だ。
「で、おまえは何してたんや?」
「ちょっと世界を救ってました。」
盟主はビロードの声で笑う。
「なんや。ここでしてることと変わらへんな。」
「龍一さまのお役に立てているんでしょうか、僕ごときが?」
自信なんか全然ない。カイは最強のドラゴンだけど、まだ30年も生きてはいない赤子のようなものだから。
それに最愛のご主人様は、ナマクラ刀一本でも、カイを殺せるだろうから。
ご主人様はカイの問いには答えず、跪くカイの頭を撫でる。殆どペット扱いだけど、カイにとっては無上の喜びの瞬間だ。
猫の姿ならゴロゴロと喉を鳴らしてる。
「今日はゆっくりしぃ。明日からまた忙しいさかい。」
「はい。それではこれにて。」
退出の礼法に従い、カイは執務室を後にした。
〝でもやっぱり、涙ってちょっぴりしょっぱかったよね。〟
などと、内心で呟きながら。
ー完ー
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