浮気
ミレイアの部屋に入ったアゼルは、扉を閉めるとすぐ、視線を奥のソファへと向けた。
「よく眠っているな……警戒心の強い聖獣が、こんなにも深く眠っているとは、珍しい」
淡く微笑んでそう言いながら、そっと足音を忍ばせるように室内を歩く。そして、モフィとスインの眠るソファとは別のもうひとつのソファを手で軽く叩き、「こっちに座って」とミレイアに促した。
ミレイアが静かに座ると、アゼルは彼女の胸元に手を伸ばし、首に下げたペンダントに手をかざす。淡く輝いた宝石から、魔力が緩やかに補填されていく感覚がミレイアの体を包んだ。
「少しだけ、魔力が動いた痕跡はあるけど……うん、大丈夫そうだね」
そう言うと、アゼルは今度はミレイアの手を握り、魔力の流れに異常がないかを丁寧に探る。
「少し疲れてるかもしれないけど……深刻な消耗はしていない。よかった」
安心したように微笑んだアゼルに、ミレイアもわずかに息をついた。
しかし、アゼルは「じゃあ」と言って離れようとするミレイアの手を握ったまま、離そうとしなかった。
「契約の印……見せてくれる?」
その声音は、どこか必要以上に甘く、無邪気を装った誘惑を含んでいた。ミレイアはたじろぎながら、自分でそっと左腕の袖をまくる。
二の腕に浮かぶ、淡い金色の印。
「これは……綺麗だね」
指先で優しくなぞるように触れられ、ミレイアは身じろぎする。
「あ……もう……」
離れようと身を引くたびに、アゼルは自然と距離を詰めてきた。そしてふと、二の腕の内側に目を留める。
「……これは、殿下にやられた?」
「え……それは……」
視線を伏せ、頬を赤く染めて言葉を濁すミレイア。その反応に、アゼルの理性がぐらついた。
「キスマークなんて、なんでつけさせるのかな……」
彼はその痕のすぐ隣に唇を寄せ、そっと口づける。さらに、脇の近く。そして首筋へと舌を這わせた。
揺れるペンダントの光が、柔らかく二人を照らす。
「うそ……あ……」
思わず漏れた声に、アゼルは微笑んだ。
「可愛い声だね。……これは治療だから、問題ないよ」
その言葉に、ミレイアは顔を赤らめ、声を上げられないまま固まってしまった。
――その瞬間だった。
バンッ!!
扉が勢いよく開き、ノエルが飛び込んできた。
「何をやってるんですか!?」
その声は、鋭く冷たい怒気に満ちていた。アゼルが振り返る間もなく、ノエルは詰め寄る。
「アゼル様。この状況は……言い逃れできませんよ。今すぐ出て行ってください!」
その一言に、アゼルは観念したように無言で立ち上がる。そしてドアへ向かいながら、「じゃあ、また」とだけ残し、部屋を去って行った。
ミレイアは慌てて寝着の乱れを整え、頬を紅潮させながら視線を泳がせる。ノエルはそんなミレイアの前にどっかりと座り、深い溜息をひとつついた。
「声が聞こえると思って来てみれば……何を考えているんですか、お嬢様……」
怒りと呆れが入り混じった、震えるような声。
「こんな夜更けに、そんな格好で……お嬢様のことを手に入れたがっている男性を部屋に入れるなんて……!」
「だ、だって……何もしないって、魔力を見るだけだって言われたもの……」
「まったく……!“何もしない”なんて男の言葉は、一番信用してはいけません!」
ノエルはついに声を荒げる。
「それに……お嬢様は殿下と、お付き合いしているんですよね? これは……れっきとした浮気です!」
「え……そんな……」
ミレイアの顔から、見る間に血の気が引いていった。
「……今日は、来客を追い返してはいけない日だと思ったんだもの……」
ポツリとこぼしたミレイアに、ノエルは一瞬ぽかんと口を開け、次の瞬間には大声を上げた。
「はああああ!? ……手紙に書いてあることを、信じすぎるのは危険です!」
その時だった。枕元にふわりと金色の光が現れ、今晩もまた、あの不思議な手紙が降ってきた。
「……また、手紙?」
ノエルはミレイアが手に取るよりも早く、それをひったくるようにして開封する。
【ミレイアへ】
これは私も予想外だった、ごめん。
明日もお説教よろしくね。
書かれていたのは、ミレイア宛てというよりも、今まさに怒り心頭のノエルへの言葉のような、投げやりともとれる内容だった。
「…………」
ノエルは愕然とし、手紙を持つ手が震える。その手紙は、キラキラとした光に包まれ、見る間に消えてしまった。
しばらく固まっていたノエルだったが、ようやく我に返ると、ふぅと息を吐いて立ち上がった。
「……ということなので。説教の続きはまた明日。今日はもう遅いですので」
静かにそう告げて、ノエルはドアを閉め、出て行った。
部屋には再び静寂が戻り、ミレイアはソファで眠るモフィとスインに視線を向けた。頬を両手で押さえながら、小さくつぶやいた。
「……浮気、なんて……」
――わたしはレオンのことが好き。でも、アゼルのことも特別に思ってしまう自分がいる。
これって浮気じゃないよね、と心の中で何度も言い訳を繰り返していた。




