王太子の想い
ミレイアが去ってまもなく、正門近くで呆然としていた生徒たちのざわめきが再び沸き上がった。
「あの馬車は……!」
「王太子殿下のお出ましだ!」
馬車の扉が開き、漆黒の髪の青年が出てきた。16歳とは思えない色気、整った横顔、吸い込まれそうな琥珀の瞳、そして堂々とした立ち振る舞い。
王太子、レオン・エルヴィス・レガリア。
その名を知らぬ者は、王国にはいない。
「……本物だ、近くで見ると余計に格好いい……」
見惚れる女子生徒たちの声が、ため息混じりに漏れる。
手を振る者、視線を送る者、何人かは既に目を潤ませていた。
だが当の本人は、誰とも目を合わせない。表情は涼しげで、視線は遠く、どこか冷たい。
王太子という立場ゆえ、これまで数えきれないほどの婚約話が舞い込んできた。
婚約者候補はもちろん、愛人の座を狙う下位貴族の娘や、運命を錯覚した平民の少女までが、次々とその足元にすがった。
レオンは、それを拒まなかった。
求められれば、体の関係を結ぶことさえあった。
けれどそこに、愛情も、優しさも、何ひとつ存在しない。
数日、あるいは数週間。
つまらないと判断すれば、何の説明もなく切り捨てる。
涙を流されても、罵られても、彼の表情は一度も動かない。
そんな冷徹なふるまいの数々が積み重なり、いつしか人々は彼を“冷酷王子”と呼ぶようになった。
それでも、レオンには左右から熱い視線が注がれている。上級生と思しき女子生徒たちが、きゃっと小さく息をのむのが聞こえた。
――またか
ため息をつきかけたその時、視線の先に違和感を覚える。
近くの男子生徒たちが、なぜかこちらを見ていない。
ぼうっと宙を見上げて、夢でも見ているような顔をしている。
「さっきの、見た? 夢幻の女神……」
「やばい、ほんとに輝いて見えた」
「……伝説、って感じだったな」
耳に入ってきたその声に、レオンの足がふと止まった。
“夢幻の女神”――
その名が胸の奥をかすかに揺らす。
レオンは、その正体を知っていた。
――ミレイア・ノクシア
10歳の頃、王宮で初めて彼女に出会ったときのことは、いまだに鮮明に覚えている。
舞踏会の会場であいさつを交わし、あまりにも可愛いくて目が離せなくなった。2人で庭園に抜け出してしばらくお互いの好きなもののことや嫌いなもののことを語り合った。
初めて会ったとは思えないほど話しやすくて、
気づけば、厳しすぎる家庭教師のこと、
今まで数えるほどしか会えていない両親のこと、
5つ下の弟に今だに会わせてもらえないこと…次々と悩みを話していた。
ミレイアも話してくれた。
過保護すぎる家族のこと、
だけど実は両親とは血が繋がっていないらしいこと。
最近楽しいと思っている宝探しごっこの話。
領地の塔から見える景色がとてもきれいで、毎日30分かけて階段を登っている話。
時間がすぎるのがあっという間だった。
探しにきた側近に呼ばれたレオンが、吸い寄せられるようにメライアの手を取った瞬間――
「……っ、地面が揺れてる……?」
舞踏会は混乱の末、中止になった。
彼女は家族に連れられて、あっという間にその場を去ってしまった。
それから何度か機会を作って会いに行ったけれど、その度に体調不良だと断られ、結局、その後は一度も話せなかった。
遠くから見かけることはあっても、近づくことはできない。手紙を送っても形式的な返事が返ってくるばかり。
挨拶をしようとしても、彼女はすぐに姿を消してしまう。
──まるで、避けられているかのよう。
やがて、ノクシア家から婚約者候補辞退の話が届いた。
初めて“嫌われる”という感覚を知った。
レオンは気持ちをしまいこんだ。
もともと王太子として厳しくしつけられ、感情を表現するのが下手だったけれど、ますますそれに拍車がかかり、自分の有利になるものたちと表面的な付き合いをするようになっていった。
だが、去年――。
王都の外れで起きた大きな火災。
現場に駆けつけたとき、人々を助け、治療し、炎を消し、あちこちに指示を飛ばしていた少女がいた。
長い髪を揺らし、光に包まれたようなその姿。
傷だらけで、泥にまみれながらも、迷いなく動く姿に、周囲の誰もが息を呑んでいた。
「……あれは、まさか……」
ほんの一瞬、目が合った気がした。
だがそのときも、彼女はすぐに視線を逸らし、群衆の中へ消えてしまった。
まるで、掴もうとするたびに指の隙間からこぼれていく光。
「やっぱり……忘れられるわけがない」
そう呟いた声は、誰にも届かないほどに小さかった。
琥珀色の瞳の奥に、ほんのかすかに揺れる熱を隠して、レオンは足を進めた。
後ろに続くのは筆頭近衛騎士でもある従兄弟のロイ・ヴァレンティア。
「前情報通り、夢幻の女神が入学してきたみたいだな。レオン殿下が似合わない女遊びをやめるきっかけになるといいんだが」
からかうように声をかけるロイにレオンは複雑な視線を送る。
レオンの秘書的な立場である幼馴染、女性参謀のクラリスは、レオンの不器用さを理解している数少ない人物。
「久しぶりですね、あの子に会うのは。――ノクシア領の薄紫。噂だけはたくさん知ってますけどね」
ニヤリと笑うと周囲の熱気でくもった眼鏡をふいて掛け直した。
2人は2つ年上だが、側近として王太子を支えるため同時に学園に入学する。冷酷王子と常に一緒にいるロイとクラリスには、尊敬と羨望の眼差しが向けられている。
その時、正門前に並ぶ案内役の上級生たちの中から、まるでステージにあがるように勢いよく女子生徒が飛び出してきた。
「お待ちしておりました、レオン殿下!」
薔薇色のドレスのような制服を纏った上級生の公爵令嬢リディア・エインズワースだった。
笑顔は完璧。視線はまっすぐ。気合は120%。
「私が本日の案内役を務めさせていただきますわ。
リディア・エインズワース、光栄の極みでございます!」
レオンが何か言う前に、リディアは一歩踏み出す。
ぐっと手を伸ばし――まるで当然のように、レオンの腕に添えようとした。
「さ、殿下。一緒に参りましょう。まずは学園の美しい中庭からご案内いたします。
“恋人たちの泉”なんて、素敵な場所もあるんですのよ」
「……断る」
レオンは無表情で、その手をするりと避けた。
まったく感情の読めない琥珀色の瞳に、リディアの表情がほんの一瞬引きつる。
が、すぐに笑顔を作り直した。
「まあ……殿下ったら、照れていらっしゃるのね?」
「違う」
「……ッ!」
そのやり取りを横で見ていたカイル・クロードは、深くため息をつき、静かに一礼する。
「王太子殿下、ロイ・ヴァレンティア様、クラリス・ハートウェル様。私はクロード家のカイルと申します。
本日は学園の概要や寮までのご案内をさせていただきますので、ご不明点などございましたら、どうぞ遠慮なく」
その後ろでは、魔術科教師のメレアス先生がじっと二人のやり取りを観察していたが、
やがて杖を軽く鳴らして促した。
「では、参りましょう。入学式の控室まで、ご案内いたします」
リディアは仕方なく一歩引き、しかし隙あらば再接近の構えでレオンを見つめる。
そんな彼女の熱視線をよそに、レオンはただ静かに歩き出す。
「……行こうか。無駄話は嫌いだ」