心の揺れ
始業前の学園治療室は、静寂に包まれていた。
薄暗い光が白いカーテンを揺らしている。
アゼルは扉を閉めるなり、無言のまま歩き出した。
ミレイアはその後ろ姿に少しだけ躊躇しながらついていく。
部屋の奥、診察台のそばでアゼルがようやく振り返った。
「……無防備すぎるよ、ミレイア」
低く落ちた声に、怒りと焦燥、そして戸惑いが混ざっている。
「アゼル……?」
「どうして、あんなに無警戒に、アイツと二人きりになってるんだ」
「アイツって……殿下のこと?」
アゼルの金色の瞳が鋭くなる。
「アイツの悪い噂、何度聞かせたと思ってる。無表情で、誰にでも冷たくて、気まぐれで人を弄んで、必要がなくなったら切り捨てる。……そんな男に、君が惹かれるわけないって、ずっと思ってた」
「……惹かれてなんて、ないよ」
ミレイアはすぐに首を振る。けれど、その声にはどこか頼りなさがあった。
「恋愛はしないって決めてる。……私には、できないから。わたしが好きになると、迷惑をかける」
「じゃあ……僕とだったら?」
アゼルが一歩、ミレイアとの距離を詰める。
「君の魔力を落ち着かせられるのは、僕だけだ。抱きしめても、大丈夫だろう?」
「アゼル……それは……」
ミレイアが言葉を失うより早く、アゼルは静かに腕を伸ばした。
「治療だから」
そう言って、ミレイアの腰に手を回し、ゆっくりと抱きしめる。
その瞬間、ミレイアの全身に甘く痺れるような衝撃が走った。
「……っ!」
魔力が身体の奥でざわめく。震えが天井に届きそうなほどだった。
けれど、アゼルがすかさず制御魔法を展開し、外への影響はすべて封じ込められる。
「……ほら、ちゃんと抑えられる。僕となら」
アゼルの声はささやくように甘く、熱を帯びていた。
「……恋をしても、平気なんだよ、ミレイア」
「……やめて」
ミレイアが小さくつぶやいた。
「アゼルがやさしいの、知ってる。でも……わたし、ちゃんと考えなきゃいけないって、ノエルにも言われたの。アゼルに頼りすぎちゃいけないって」
「……頼ってくれて構わないよ。今までだって、ずっとそれを望んでた」
「違うの。……距離を、ちゃんと考えないと……私、自分の気持ちが……」
「じゃあ、自分に問いかけてみて。君が一番、心を許せる相手は誰?」
アゼルの指が、そっとミレイアの髪をすくいあげ、耳のうしろをなぞる。
甘く、やさしく、けれど明らかに“恋人”としての触れ方だった。
「……今までみたいな曖昧な関係じゃない。これからは――」
「アゼル……」
ミレイアの声が震える。
「本気で、口説くから」
そう囁いたアゼルの瞳は、冗談の色もなく、ただひたすらに真っ直ぐだった。
抱きしめられたままのミレイアは、言葉を失いながらも、逃れようとはしなかった。
心臓の鼓動が速くなる。けれど、魔力の暴走は起きない。
彼の腕の中では、恐ろしいほどに安心してしまう自分がいた。




