精霊の泉
精霊の泉にたどり着いたミレイアたちは、その光景に思わず悲鳴をあげた。
元は美しく澄んでいたはずの泉の水は、どす黒く濁り、表面からは怪しげな湯気が立ちのぼっている。泉の周囲を彩っていた緑はすでに失われ、枯れ果てた木々が突き立つように並んでいた。漂う風は重くよどみ、鼻をつく臭気とともに、死骸となった魚や鳥や虫が水面に浮かんでいる。
「こんなに酷いことになっているなんて!」
ミツが、生まれ育った森の無惨な姿に堪えきれず、地面に膝をついて号泣する。
「前に来たときには、泉の色が黒ずんでいるだけだったのに……」
ミレイアは泉に近づき、覗き込む。瞳が揺れ、唇が震えた。
「これは……毒? 港町で解毒したテドロに似てるけど……違うわね。空を飛ぶ鳥や虫まで死んでしまう。精霊を瀕死状態にさせて、聖獣を魔物に変えるほどの瘴気……」
呟きながら泉を見つめるミレイアを、アゼルが後ろからぐっと引き寄せる。
「瘴気を吸わない方がいい。……浄化を急ごう」
「うん……」
ミレイアが頷き、両手をかざす。泉に向かって放たれた光が水面を走るように広がり、濁った水を少しずつ押し返していく。黒い霧が薄れ、泉の底がわずかに透けはじめたその時――
ずるり、と水面から黒い影が這い出した。
鱗に覆われた大蛇のような体、四本の足には鋭い爪。頭には鹿のような角が伸び、長くしなやかな髭が揺れている。
「龍……?」
「ああ……想定していた最悪の事態になった。あれは魔物だ。おそらく元聖獣……」
アゼルの言葉に被せるようにギンが叫ぶ。
「古代聖獣……白龍……!」
しかしその姿はもはや白ではない。淀んだ泉を浴びて全身が黒く染まり、濁った瞳に理性の光は宿っていなかった。次の瞬間、龍は空へと舞い上がり、ミレイアたちに向かって業火を吐き出した。
炎が眼前に迫った瞬間、ミレイアの胸元でペンダントが眩く光り、反撃の魔法を放って炎を弾き返す。しかし同時に、パリンと鋭い音を立てて砕け散った。
「ミレイア!」
アゼルが咄嗟に結界を張り、巨体へと戻ったギンが水流を巻き起こして反撃する。だが炎は次々と襲いかかり、アゼルの強力な氷魔法も、攻撃を防ぐだけで精一杯だった。ミツは震える体でパミルを庇い、必死に身を縮めている。
「白龍、目を覚ませ! 攻撃を止めよ!」
ギンが、かつて同胞であった存在に必死に呼びかける。闇に呑まれかけた時の、自我を奪われる感覚が脳裏に蘇った。
唸り声を上げる龍は、聖獣だったころの意思は無くし、目の前の攻撃対象を焼き尽くすことしか頭に無い。
ミレイアは大きく息を吸い込み、両手に力を込める。
「……っ!」
放たれた浄化の光が龍の全身を包み込む。
一瞬、その目に澄んだ光が戻った。しかしすぐにまた濁り、暴虐の炎がほとばしる。
「やっぱり……魔物化してしまった聖獣は浄化できないのか……」
悔しそうに言葉を絞り出すアゼルの腕を、ミレイアが掴む。
「アゼル……白龍の意思を取り戻す必要があるわ。アゼルの心の魔法を、わたしの浄化魔法と同時に放って!」
「……ああ。やってみよう!」
二人は強く手を取り合い、魔力を合わせてひとつにしていく。
「ミレイアお姉ちゃん! 龍の喉元に……異常な魔力が集中しているわ!」
パミルの必死の声が響いた。
「あそこね!」
ミレイアは理解し、アゼルと同時に光を放つ。
二つの魔法が龍の喉元を撃ち抜き、砕ける音とともに黒い魔石が弾け飛んだ。禍々しい霧が吹き散り、黒く染まった鱗はみるみるうちに純白へと戻っていく。
白龍はギンのそばに静かに降りて頭を下げた。
「すまなかった。魔石が投げ込まれた時、泉を守ろうとして思わず呑み込んでしまった。まさか自分が魔物に成り果てるとは思いもしなかった……浄化してくれて感謝する。其方たちは、銀狼の……」
「我はギンという名をもらった。主の聖女ミレイアと魔術師のアゼル、もう一人の聖女のパミルだ」
ギンが順番に視線を向けて紹介する。
「ギンか。良い主と契約したな。吾輩もミレイアのような人間と契約をしたかった……」
「あなたはすでに契約を?」
ミレイアの問いかけに、白龍が頷く。
「吾輩の名は水神。吾輩が契約したのは……泉に魔石を投げ入れた男だ」
白龍の低い声が、輝きを取り戻した泉に響き、しばしの沈黙が流れた。
「何故そんな契約を!?」
ミレイアが息を呑む。
「契約した時のことは、実ははっきりと覚えていない。覚えているのは、信じて契約した男が禍々しい魔石を大切な泉に投げ入れたことだけだ。……吾輩は騙されたのかもしれん」
水神の瞳に後悔と戸惑いの念が浮かぶ。
「もし、契約者に命令されれば……自分の意思とは関係なく、再び其方らに牙を剥くことになるだろう。その時にはーーギン、躊躇いなく吾輩を討ってくれ……」
ギンは沈痛な面持ちで頷いた。
「……承知した、水神」
水神はその答えを確かめるように一瞬だけ瞳を細め、やがて静かに目を閉じた。
次の瞬間、その巨体は淡い光に包まれ、泉の水面へと吸い込まれるように消えていった。
――澄み渡った水面だけが、そこに残された。