森の一大事
転移魔法の淡い光が消えると、アゼルは険しい顔で話し始めた。
「昨夜、ここから近い山間の町で、巨大な熊のような魔物が現れ、町民が襲われました。偶然、調査に訪れていた魔塔の魔術師が居合わせて応戦したため、死者は出ませんでしたが、数名が重軽傷を負い、何軒かの家屋が壊される被害がでました」
アゼルは冷静に言葉を続ける。
「魔物は魔術師によって討伐されましたが……そのとき初めて、それがかつて聖獣であったことがわかったのです」
「聖獣が……魔物に?」
アルスが思わず声を漏らす。
「討伐されたのは……この森の聖獣なんじゃな?」
イリウスが、アゼルの目を見て問いかける。
「はい。邪悪な魔力の痕跡が森に繋がっていたようです」
アゼルの言葉に、ミレイアが小さく息を整えて口を開いた。
「アゼル。実は……2週間前に初めて森に来た時、ギンが邪悪な黒霧に覆われて、大おじいさまに襲いかかっていたの」
アゼルの眉がぴくりと動いた。ギンがミレイアと契約したことは知っていたが、その経緯までは聞いていなかった。
ギンは低く威厳のある声で呟く。
「あの時、我は身の内を闇に侵され、自我を奪われかけていた……あのまま呑まれていたなら、我も魔物へと堕ちていたやもしれぬ」
ミレイアが静かにギンの頭を撫でながら、聖獣の言葉がわからないアゼルに補足する。
「つまり……私が浄化しなければ、魔物になっていたかもしれないってこと」
アゼルが小さく息を呑む。
マーサも目を見開き、声を震わせる。
「そんなことが……」
「あの頃、我は森の出口に近づくほど、息苦しさを感じていた。今、森の同胞たちが苦しんでいるならば……助けに行きたい」
ギンの言葉に頷いたミレイアは、真剣な眼差しで続ける。
「……ギンはあの頃、森の出口に近づくほど息苦しさを感じていたらしいの。そこに何か原因があるはず……調べにいかなければならないわ。もし、魔物になりかけている聖獣がいるなら、急いで浄化しないと……」
イリウスとユキアは、長い間住んでいる森の一大事なのに、何もできない自分たちに苛立ち、歯痒さを感じていた。
イリウスは拳を膝に打ちつけ、低く唸る。
「……結局、わしらは眺めておるしかないのか」
ユキアは悔しげに唇を噛み、視線を落とした。
「森で生きてきたのに……いざという時、何の役にも立てないなんて」
愛着をもって守ってきたはずの場所が、手の届かないところで傷ついていく。その現実が胸を鋭く抉っていた。
「……ミレイアに頼るしかないのか?」
イリウスの呟きが、重く部屋に落ちた。
ノエルは心配そうにミレイアを見つめた後、アゼルに問いかける。
「他に方法はありませんか?魔塔で会議があったのでしょう……?」
アゼルは苦々しく首を振る。
「森の結界を強化する以上の策は、今のところありません。中には森を焼き、魔物の発生源を断つべきという案を出す者もいましたが……」
ミレイアは静かに深呼吸し、アゼルを見つめる。
「森を焼いてしまうなんて、絶対にだめ……だから、邪悪な魔力の源流を浄化するしかない。それができるのは……私だけだわ」
ギンが軽く頭を下げ、再び唸るような声で告げる。
「主よ、其方の御力なくして、森と我が同胞を護ることは叶わぬ。故に、我は全力を尽くして従う」
ミレイアは、静かに立ち上がった。
「……浄化に行きましょう」
迷いのない眼差しに、部屋の空気は緊張に包まれた。