察知した危険
夕暮れの光が差し込むころ、アゼルは転移魔法で神殿の裏手に姿を現した。
人目を避け、草むらを抜けて静かな廊下を歩く。古びた石造りの壁に灯された燭台の炎が、彼の影を長く揺らしていた。
目指しているのは――マーサが休んでいる小部屋。
扉を開けると、ひんやりとした空気が流れ込む。
白い寝具の上に横たわる姿を想像していたが、そこにマーサの姿はなかった。
代わりに、整えられた枕と、乱れのない布団だけが残されている。
「……いない?」
アゼルは眉を寄せ、部屋を見回した。
一週間前に訪れたとき、マーサは歩くことすら難しい状態だったはず。
一人で出歩けるとは思えない。
――誰かと一緒に出て行ったのか。……胸騒ぎがする。
その時。
ギィ、と扉が軋み、ひとりの巫女が入ってきた。
小柄で若い巫女。見覚えはないが、真っ直ぐにこちらを見ている。
「……アゼルさん?」
アゼルは瞬きし、声をかけた。
「ああ。君は……マーサの世話をしてくれている人か?」
「はい。スズナと申します」
少女は少し息が上がっている。走ってきたのだろう。
「アゼルさんのお姿が見えたので、追いかけてきました」
「……そうか。マーサは、今どこに?」
「実は……ここには、もういないんです」
アゼルの胸に冷たいものが落ちた。
「……何か、あったのか?まさか、もう――」
「いいえ!」
スズナは慌てて首を振った。
「アゼルさんが届けてくださった薬のおかげで、病状は安定していました。けれど……もっと画期的な治療法が見つかった、と」
「……治療法?」
「はい。セラフィス神官長が、マーサさんを連れて行かれたのです」
アゼルの心臓が一瞬、強く跳ねる。
「神官長が……どこに?」
「行き先は、わかりません。神殿の誰も知らないです」
セラフィスが事件を操る黒幕であるのなら……マーサが危険だ!
「二人きりで行ったのか?」
「はい。神官長は、長くなるかもしれないからと、副神官長に引き継ぎを済ませてから出て行かれました」
そう言って、スズナは懐から小さな封筒を取り出した。
「それで……これを預かっています。もし自分がいなくなった後にアゼルさんが来たら渡してほしいと、マーサさんに頼まれていたんです」
アゼルは封を切り、走り書きされた文字に目を走らせた。
――マーサの筆跡だ。
「……これを受け取ったのは、いつだ?」
「五日前です」
「神官長がマーサを連れて行ったのは?」
「昨日の朝です」
「……っ!」
アゼルは手紙を握り締め、奥歯を噛みしめた。
「アゼルさん?」
事情を知らないスズナは、不安そうに覗き込む。
「そんなに心配なさらなくても……神官長が一緒なんです。大丈夫ですよ。そのうち元気になって戻ってきますって」
その明るい声が、アゼルの耳には遠く響いた。
彼は唇を強く噛み、沈黙のまま視線を落とした。
アゼルはスズナに背を向けるように小さく頷き、無理に言葉を絞り出した。
「……そうだな。君の言う通りかもしれない」
それだけ残し、足早に部屋を後にする。
廊下を抜け、ひんやりとした石畳を踏みしめるたびに、胸のざわめきが強まっていった。
――五日前に託された手紙。マーサはすでに、自分の身の危険を悟っていたのだ。
神殿裏の草むらに身を隠し、アゼルは懐から手紙を取り出す。
震える指先で紙を広げ、再び走り書きの文字を追った。
⸻
アゼルへ
あなたの父親が、あなたの存在に気づいた。
きっと私は、無事ではいられないだろう。
アゼルはどうか生きて。
大切なものを守り抜いて。
どこにいても、愛しているわ。
マーサより
⸻
胸の奥に鈍い痛みが走る。
「……父親が、気づいた……」
脳裏に浮かぶのは、神殿を束ねるセラフィス神官長の姿。
本当に――あの人が父親なのか?
確証はない。だが、マーサを連れ去ったのは事実。
「……マーサ」
小さくその名を呼び、アゼルは拳を固く握りしめた。
怒りでも、悲しみでもなく、ただ彼女を案じる思いが全身を満たしていく。
「必ず……見つけ出す」
夜風が草むらを渡り、冷たく頬を打つ。
アゼルの瞳には、鋭い光が宿っていた。