地下牢
湿った石の匂いと、遠くから聞こえる水滴の音。
王都の重罪人を収監する地下牢は、昼であっても光の届かぬ暗闇に包まれていた。
その牢のひとつに、黒装束の男が鎖につながれて静かに座っている。昨晩、ミレイアを魔導演舞の後に襲った刺客だ。
正式な取調べはこれから始まる──だが、それが始まっても、この男が容易に口を割ることはないだろう。
青白い光が閃き、牢内の空気が揺らぐ。
転移魔法の陣から、ひとりの青年が姿を現した。
アゼル・フェンリル
彼の目は、普段の穏やかさを失い、氷のような冷たさを帯びていた。
「……お前が、ミレイアを殺そうとした刺客か」
低い声。怒りを押し殺した声音が、牢の狭い空間に響いた。
刺客はわずかに眉をひそめ、鋭い目で青年を見返した。
「……誰だ、お前は。どこから入ってきた?」
アゼルは答えず、じっと相手を見据えた。
その胸の奥には、昨日から問いが渦巻いている。
――僕の“心の魔法”は、ずっと人の魔力を安定させる力だと自分に言い聞かせてきた。
けれど……それが本当にそうなのか。
人の意思を書き換える、王家を操るおぞましい精神魔法と、同じものではないのか?
確かめなくてはならない。
アゼルは唇を噛みしめ、震える拳を握った。
「……お前を殺しはしない。だが……殺してやりたいほどには憎んでいる」
その圧に、刺客が初めて顔をしかめた。
それでも冷徹なプロ意識は崩さず、懐に隠していた小さな石片を素早く投げ放つ。
――仕込みか。触れれば強力な麻痺を起こす毒が塗られている。
アゼルはそれを見抜いていたかのように、片手を軽く払って結界を展開し、石片を弾き飛ばした。
「抵抗しても無駄だ。今から、ミレイアを狙った理由を話してもらう」
黒装束の刺客は眉ひとつ動かさず、冷たく答える。
「は? 話すわけねぇだろうが」
アゼルの瞳が鋭く光り、魔法が放たれる。心の深いところに入り込む冷たい力が、糸のように広がり刺客の精神を覆う。
「殺害を依頼されたのか?」
「あ……ああ」
「……依頼したのは誰だ。言え!」
刺客は勝手に動く口を必死で押さえていたが、その抵抗は魔力によってねじ伏せられた。口が、ゆっくりと開く。
本来なら決して依頼者について口を割らぬはずの男が、抗えずに声を漏らす。
「神殿の……神官長……セラフィス」
アゼルの心臓が跳ねた。
――セラフィス神官長。
自分が十一歳の頃、神殿で僅かな期間だけ仕えたあの人。
人々の心に寄り添い、優しく笑って、誰からも慕われていた温厚な神官長。
その名を、刺客の口から聞くことになろうとは――。
もし、あの人が……マーサが言っていた“精神魔法を操る恐ろしい父親”なら……。
僕は、この手で真実を暴かないといけない。
アゼルは大きく息を吐き、虚ろな目をする刺客から目を逸らした。
そしてゆっくりと後ずさり、転移の魔法陣を展開した。
青白い光に包まれ、青年は地下牢から姿を消した。