第八話:神託と陰謀
王都アルゼリードに、冷たい風が吹いていた。
季節外れの寒気ではない。
それは“空気”そのものが変わったような、重たく、どこか不穏な予感を含んだ風だった。
──その風は、聖堂の奥から吹き始めた。
聖王暦734年、第八月の晦日。
王国神聖庁の最高神殿にて、七年に一度だけ降臨するとされる“神託”の儀が執り行われた。
立ち会ったのは、聖女・真壁綾香、大神官、王族の使節、そして側近の軍司教ら。
重厚なステンドグラスに差す朝陽が、神像の足元に描かれた魔法陣を照らす。
やがて、空気が震えた。
誰かが言葉を発したわけではない。
それでも、場にいた全員の脳裏に同時に響き渡った。
――勇者は、神の定めし“敵”である。滅びを防ぐには、その命を絶たねばならぬ。
その瞬間、聖堂全体が凍りついた。
「……な、何を……」
大神官が膝をつく。
周囲の高位聖職者たちも、言葉を失い、綾香を見つめていた。
そして彼女自身も、全く同じだった。
「……勇者が、“敵”……?」
神託。それは、この世界の絶対である。
天から降る言葉は、歴史を変え、大陸を動かしてきた。
それに逆らえば、聖職者としての権威を即座に失う。
──けれど。
この神託は、“あまりにも不自然”だった。
蓮は確かに強大な力を持ち、異物であり、王国にとっても制御困難な存在だ。
だが、今まで彼が成してきた行動は、人を救い、戦を収めるものだったはず。
綾香は、瞬時に思考を巡らせた。
(……これは、“人間の手”による偽装神託の可能性がある)
(王族内部、あるいは教会上層部──誰かが、勇者を葬るために仕組んだ)
その可能性を口にすれば、神への冒涜とされる。
沈黙すれば、レオンは“正義の名”で殺される。
「……くそ」
思わず、小さく悪態が漏れた。
彼女は常に合理で動いてきた人間だ。
感情や感傷は切り捨ててきた。
だが今、蓮という男の顔が、脳裏に浮かんでいた。
かつて現代で、彼が医者として奮闘していた背中。
異世界で、誰よりも人の命を尊んでいた姿。
──「私の手で殺せるわけがない」
その言葉を誰にも聞かせることなく、彼女は踵を返した。
この神託の内容は、表沙汰にはされない。
だが近く、王城内で“極秘の対策会議”が開かれることは確実だった。
そしてその夜、リュミエールは王から密命を受けていた。
「リュミエール。お前に、もう一つだけ命じる」
王は、深く、重々しく言った。
その目は、父のものではなかった。
王国を守る“王”の、それだけの意志を宿した目だった。
「……勇者が、もしこの国に仇なすようならば──お前の剣で討て」
リュミエールの手が、わずかに震えた。
否。彼女自身の心が震えていた。
蓮という男の背に、剣を向けよと?
あの月下で、無心に剣を振るっていた男を?
ルフェイの涙を受け止めた、あの温かな手を?
それでも、彼女は剣姫であり、王の血を引く者だ。
「……御意」
その言葉は、震えていた。
けれど、誰もそれを責めはしなかった。
──そして同じ夜。
蓮は、一枚の文書を手にしていた。
それは、綾香が密かに届けた“神託の写し”だった。
《勇者を殺せ。それが神の定めである》
彼は、無言でその文字を見つめていた。
表情には怒りも焦りもない。
ただひとつ、苦笑めいたものが浮かんでいた。
「……なるほど。そう来たか」
この世界が、自分をどこまでも“駒”として扱うならば――
今度こそ、徹底的に“壊してやる”必要がある。
彼の目に、初めて宿ったのは、感情を捨てた静かな闘志だった。
その瞳の先に見据えるのは、神か、人か、それとも――