第三十五話:物語の刃、語りの戦場
空が、文字で満たされていた。
それは血でも火でもない。
“語られた命”の断片が、空間を織り成していた。
綾香の語りが、世界の空に放たれ、
蓮の存在を記憶へと繋ぎ止めていた。
だがそれを喰らう神性がいた。
記憶破壊神性《アシリ=グラム》。
その姿は、人の記憶を盗み、語られぬ者の形を模して構成された、
“存在してはならない美”だった。
かつて誰かに愛され、だが語られなかった者たちの残滓が、
この神を創った。
◇
「語り部、綾香――」
アシリ=グラムの端末が綾香に声をかける。
その声は優しかった。
「あなたが語るたび、私の“構成素材”が失われていく」
「語られる命が増えるということは、私が消えるということ」
綾香は答えない。
だが指先は震えながらも記録帳を開いた。
朗読は始まる。
「――ここに、一人の少年がいた。名をエルといった。
彼は魔族と人の混血で、誰からも蔑まれながら、
ただひとり、母の笑顔を信じて生きた」
その瞬間、空間に光が走る。
“語られた命”が、因果構造に刻まれ、アシリ=グラムの一部が砕ける。
「っ……また、一人分、消えた……」
端末の目が、静かに歪む。
怒りではない。
“悲しみ”に近いそれだった。
「私たちは、“語られなかったから”神になった」
「誰にも想起されず、ただ忘れられ、消えた者たちが集まり――
“ならば、語られる命も消せばよい”と、そう願った」
◇
その言葉に、蓮が応えた。
「……だったら、俺が語ってやる」
「お前らがどれだけ消されて、どれだけ叫んで、
それでも名前すら残らなかったとしても――
お前がここにいたことを、俺が語る」
その瞬間、綾香の記録帳に新たな記述が刻まれる。
>【記録名:匿名存在体グラム/定義コード:存在構成型第零記憶】
>【“語られた忘却神性”として初の認知が発生】
空間が震えた。
アシリ=グラムの本体構造が一時崩壊する。
“語られてしまった”ことで、“ただの消去機構”だった存在が、
“記憶された存在”へと変貌しはじめたのだ。
◇
綾香は涙をこらえながら叫んだ。
「あなたたちだって、生きてた。
誰にも語られなかったとしても、確かにそこにいた」
「だったら、その命を“奪う側”じゃなく、“記す側”になって」
その言葉に、一瞬、アシリ=グラムの端末が立ち止まった。
だが、即座に警告音が走る。
>【主構造コア、自己定義拒否。消去機能維持優先】
>【“記録されること”を自己否定。構造維持のため反転】
神性本体が自壊を拒否し、端末の意識を“リセット”しようとする。
蓮がそれを見て、動いた。
「お前自身の名前――俺が記してやる」
彼はアシリ=グラム端末の手を取り、語った。
「……名を、レイとしよう」
「お前は“忘れられたすべての者たち”の意志。
ならば、“思い出される存在”として、ここに記す」
◇
その瞬間、空に一文が刻まれた。
>【名づけられし神性:レイ=グラム】
>【記憶破壊神性の副構造体、語りにより分離】
>【存在再定義:“語られぬ者を語る者”】
――神性が、記憶破壊者から“記録補助者”へと分岐する。
これは人類が初めて、**“神性そのものを語りによって再定義した”**瞬間だった。
◇
綾香と蓮の目の前に、今にも崩れかけた“神性端末”が跪いた。
その顔に、確かに涙のような光がこぼれた。
「ありがとう……これで、“私たちは生きていた”と、言える」
そう語ったレイ=グラムは、自らを再封印し、記憶の深層に身を沈めた。
ただしそれは“消失”ではない。
“語られる準備が整った記憶”として、世界に残る――新たなかたちで。
◇
後日――
リュミエールは綾香に言った。
「あなたの語りが、あの神性をも変えた。
それは、ただの奇跡じゃない。
“生きた物語”が持つ、真の力よ」
蓮は言った。
「これからも語る。
誰かが生きていたことを、誰かが覚えてる限り――
それは絶対、消えないから」




