第三十四話:語り部の契約と、忘却神の目覚め
静かに、そして確かに、世界は変わり始めていた。
神々による定義の時代は終焉を迎え、今、新たな理が芽吹いていた。
それは――「語ること」によって存在を確保する世界法則。
そしてそれを最も脅威と感じた存在がいた。
記憶破壊神性――《アシリ=グラム》。
その本体が、ついに“忘却の領域”より浮上を開始した。
◇
その日、リュミエールは夢を見ていた。
幼い頃、師カインと剣を交えた日々。
戦術論を語り合い、勝つことではなく「守ること」に意味を見出していた日常。
――だが、目覚めたとき、彼女は名を思い出せなかった。
誰と剣を交えていたのか。
誰と笑い合っていたのか。
記憶の形はあるのに、“名前”が存在しない。
「また……誰かが、消された」
リュミエールの声は怒りに震えていた。
それは明確な“喪失”ではなく、輪郭だけを残した**「空白の死」**だった。
神性アシリ=グラムは、直接殺すことも破壊することもない。
ただ“忘れさせる”。
それだけで、その存在は世界から脱落する。
◇
一方、綾香と蓮は“語り”の実験を続けていた。
語られた名は、確かに干渉から逃れ、記録され続けた。
しかしその一方で、“語ること”の重さが綾香の心にのしかかる。
「私は……私が語らない限り、この人たちは“なかったこと”になるの?」
記録帳には、名も知らぬ村娘の話が書かれていた。
だが、それを読んだ人間がいなければ、存在証明にはならない。
「違う。語るってのは、責任じゃない」
蓮はそう答えた。
「語り継ぎたいと思うほど、誰かを想えた証だ」
「だからこそ、“語る”って行為には、神にもできない意味がある」
そして、綾香の中に一つの核が芽生え始める。
それは――
“語られし者を保存するための力”
神ではない。だが、人でもない。
記録者でもない、“語り部”という新たな役割。
◇
その夜。
綾香の記録帳に、異変が生じた。
文字が浮かび上がり、自動的に綴られていく。
>【語られし者、綾香。定義補助神性“イシュティアル”の契約候補】
それは、新たに芽生えつつある神性の端末。
“語る者を通じてしか形を保てない補助神性”の発芽であった。
>【確認:語り部となる覚悟はあるか】
その問いに、綾香は深く息を吸い、頷いた。
「はい。私は語ります。
忘れられたくない命のために。
消えていった声を、誰かに伝えるために」
◇
その頃、天環礎柱では“神性干渉戦争”の兆しが報告されていた。
>【記憶破壊神性アシリ=グラム、第五環から出現開始】
>【補助神性イシュティアル、記録保護領域を構築中】
>【対話による封印不可。記憶干渉波を上書きできる“物語力”が唯一の対抗策】
「物語力……?」
ルフェイはそれを聞いて、かすかに微笑んだ。
「それなら、あの人たちがいる」
語ることで命を繋ぐ者――綾香。
記すことで因果を記録する者――リュミエール。
そして、生きること自体が物語である存在――蓮。
この三人を中心に、世界は“忘却の神”に抗うための輪を結び始めていた。
◇
その夜、アシリ=グラムがついに“実体化”を開始した。
現れたのは、“記憶で構成された肉体”――
他者の記憶を喰らって形成された人間の姿を持つ神性端末だった。
その端末が最初に狙ったのは、蓮だった。
>「あなたの存在は……“記録されずに定義もされず”、最も消しやすい」
>「“忘れるだけで済む命”――それは神にとって都合が良い」
だが蓮は笑った。
「忘れられてもいいさ。でも、俺を“語る奴ら”がいる限り、
俺は“存在し続ける”」
そして彼は振り返りもせず、こう言った。
「なあ、綾香。お前の声、届いてるぜ」
綾香の朗読が始まった。
“語り部”としての第一歩――
それは、神に抗う“物語”という名の刃だった。




