第十六話:癒しの限界、ルフェイの選択
その日、北方戦線には静かな雨が降っていた。
地面にしみ込む血と灰が、雨水と混じって泥となり、負傷兵たちの寝台を染めていた。
仮設の治療所――粗末な天幕の下、蒼白な顔の兵士たちがうめき声を漏らしている。
その中心に立つ少女、ルフェイ=ミスリリアは、何度も額の汗を拭った。
「《ヒール・ミュリエル》……《キュア・サークル》……」
術式の詠唱が口から漏れるたび、彼女の小さな身体から、魔力がじりじりと削られていく。
それでも止めない。
止めてしまえば、命がこぼれ落ちてしまうから。
──癒術師とは、“誰かを救う者”だと信じていた。
けれど、今の彼女は知っている。
癒術師とは、“誰を救うかを選ばなければならない者”でもあるのだと。
「ルフェイ様! この者、魔瘴に完全にやられていて──もう、再生魔法も……!」
騎士が叫ぶ。
寝台に横たわる男は、片脚を失い、視力もなくしていた。
彼の傍らには、家族から届いた小さな護符が転がっていた。
「助けて……あげたい……」
だが、魔力は底をつきかけていた。
一人を救えば、次の一人を救えない。
その“天秤”の重さに、少女は震えた。
――すると、
「ルフェイ」
その声に、振り返る。
そこに立っていたのは、蓮だった。
戦場から戻ってきたばかりの彼は、泥と血で衣を汚しながらも、静かな眼差しを向けていた。
「……レオンさん」
「もう、魔力が限界なんだろう」
「でも、でもっ……!」
蓮は言った。
「人の命に順位なんかない。でも……“今を救える命”と“未来に繋がる命”は、違う」
ルフェイの瞳が大きく揺れる。
「それって、私が“見捨てる”ってことですか……?」
「違う」
蓮はきっぱりと答えた。
「“繋ぐ”んだ。生きて、また誰かを救える者に、命を託す。それも、癒しの力だ」
その言葉に、ルフェイは小さく震え、やがて――目を閉じた。
「……分かりました」
彼女は歩き出す。
次に癒すべき兵の名簿を手に取り、明確な意思を宿した足取りで。
「優先治療対象:中隊長レイナード、脳出血兆候あり。
第二優先:魔瘴汚染初期、少女兵・フィネ。
第三優先……」
命の優劣ではない。
未来をつなぐための、選択。
それは、ただ優しいだけの癒しではなく、
“人を生かすために、責任を負う行為”だった。
ルフェイの魔力が再び輝きを取り戻す。
それは絶望を癒す光ではなく、意志で灯された命の炎だった。
そしてその姿を見ていた蓮は、心の中で呟く。
――俺たちは、もう戻れない。
“死なせたくない”ではなく、“生かし抜く”ことを選ぶ者として。
夜の帳が落ちる頃、戦野の空に一筋の白い光が昇っていた。
それは、ルフェイという少女の覚悟を象徴するかのように、
儚くも力強く、戦地の空に燃えていた。




