第十五話:聖女綾香、信仰の境界線
天を穿つようにそびえる白の塔。
王都アルゼリード北部、聖教庁直属の中枢機関《神託塔レオ・マリア》。
“神の声を聴く場所”とされるその空間で、今――
一人の女が、神と人の狭間に立っていた。
真壁綾香。
異世界に転移し、“聖女”として教会に迎えられた元・現代医師。
その視線は、かつて日本で医療の正義を追い求め、
今や宗教の権威の中で矛盾と対峙し続ける者のそれだった。
「……貴女の役目は、信徒を導くことです。問答無用の疑念を持ち込むべきではありません」
重厚な扉の奥、聖教評議会の長老・カリストゥスが冷たく告げる。
綾香は臆せず、まっすぐにその老獪な男を見据えた。
「導くとは、盲目的に信じさせることではありません。
“問い直す力”を与えることが、導きでは?」
「……貴女は理屈で信仰を定義するのか」
「ええ。私は“理屈のない正義”ほど危険なものはないと思っています」
彼女は机に数枚の文書を叩きつけた。
そこに記されていたのは、神託と称された内容の“構造的矛盾”、
そして、それらの原型となった過去の神託文と符号照合された“暗号偽造の証拠”だった。
「これは……っ!」
「神託の発信装置“聖晶塔コア”に魔力干渉の痕跡があることも、
外部から操られた痕跡があることも、すべて物証があります」
「それが何を意味するか、わかっているのか!?」
老司祭が声を荒げる。
だが綾香は怯まず、一歩踏み出して言った。
「“勇者を殺せ”という神託は、人間がでっちあげた偽りです。
私はそれを、“神の名を借りた殺人教唆”と認識しています」
会議室は静まり返った。
だが同時に、空気はざらつき始めた。
それは彼女の存在が、“教会という組織そのもの”にとって、
“都合の悪い真実”を暴き始めた証だった。
「……やはり、貴女は異物だ」
老司祭カリストゥスが、椅子から立ち上がる。
「信徒の心を乱す存在を、“聖女”として置いておく理由はない」
それは、事実上の“聖女解任”宣言だった。
しかし――綾香は微動だにしなかった。
「どうぞ、ご自由に」
「……なに?」
「私はこの役職に執着していません。
けれど――“誰かの信仰を壊す者”にだけは、絶対にならない」
その声は、静かだった。
だが、その場にいた誰一人として、口を開けなかった。
綾香は踵を返し、扉を開ける。
塔の外、石畳の階段を下りるその姿を見つめていた者が一人いた。
リュミエール=アルゼリード。
王国第一王女にして剣の象徴たる女。
「……無事だったのね」
「追放されかけただけ。命は取られてない」
「それが、“異世界の聖女”のやり方?」
「それが、“異世界の医者”の流儀よ」
二人は短く笑い合う。
かつてはぶつかり合った存在が、今は互いの矛盾を知りながらも尊重し始めていた。
「……蓮は?」
「今はまだ戦場。心も、体も、命を削ってる」
「だったら――」
リュミエールは静かに鞘に手をかけた。
「私も、彼の隣で“剣”として、矛盾に立ち向かう」
「私は、“言葉”で」
綾香が言う。
「私たちの立場も方法も違う。でも、目指すものは一つ」
“彼を信じて、生き抜くこと”
夜風が吹いた。
どこか、遠くで鐘が鳴っていた。
それは、いずれ崩れる“秩序”の終わりと、“信じること”の始まりを告げる音だった。




