【プロローグ】
白衣の袖に、じわりと滲む赤い液体。
それが“他人の血”ではなく、自らのものであると気づくまでに、数秒を要した。
──ああ、また、誰かのために体が勝手に動いたらしい。
朝倉蓮、三十五歳。
大病院の救急医。
寝る間もなく続くオペと当直、報われぬ患者とクレーム、崩壊した同僚との関係──。
それでも、命だけは救わねばと、己をすり減らし続けていた。
「……君、大丈夫か……?」
床に倒れた若者の傷は深かった。
刃物を振るった暴漢はすでに取り押さえられている。
自分は、咄嗟に彼を庇った。その結果が──
視界が暗くなる。
喧騒が、遠ざかっていく。
“やっと終われる”──そんな言葉が、脳裏に浮かんだ。
──そして、目を開けた。
そこは、白も黒もない、無音の空間。
音も重力もなく、ただ“存在”だけが浮かんでいる。
「やっと来たか。お前の魂を、待っていた」
低く、響く声。
神としか思えぬ存在が、目の前に立っていた。
その姿は形を成していない。ただ、確かに“何か”がそこにあると理解できる。
「貴様に使命を与えよう。この世界とは別の場所──我らが創った世界にて、<勇者>として生きよ」
蓮は笑った。乾いた、諦めきった笑みだった。
「……また誰かのために、俺を使うのか」
それでも、もう拒む気力はない。
終わることすら叶わないのなら──
いっそ、すべてを諦めたまま、異世界の歯車になればいい。
ただ、どこかで願っていた。
「今度こそ、誰かに“必要”とされたい」と──。
神は言った。
「貴様には、《全魔法適性》と《死者蘇生の奇跡》、そして《絆を結ぶ加護》を授けよう」
蓮の魂は、静かに落下する。
光の海へ。
死の先にある、第二の“生”へ──。