そして私もまたポップコーンになる――
■
ポップコーンみたいに弾けた。
犬。
犬小屋に繋がれていた犬が、弾けた。
くりくりとした巻き尾の柴犬は原型を留めず、血肉が沸騰して爆裂した。
「きゃっ!」
コンビニからの帰り道、私は猛犬が吠えるさまに恐れ慄いた。
食材がアルファルトに散乱する。卵が割れ、黄色い液体がぐちゃりと飛び散る。
夜闇に爛々と輝く目――。
今にもあの鉄柵をすり抜けて、私の眼鏡ごと目玉を貪りに飛びかかってきそうで。
大げさかもしれないけれど、死を覚悟した。
“そのいぬ、あたためますか。”
そしたら――。
そしたらあの犬はポップコーンになった。
ボンと犬は弾けて飛び散った。
電子レンジでタマゴを加熱してしまった時のように、火の気もなく内側から爆ぜた。
焼け溶けた肉片が、頬にへばりついていた。
私は全速力で逃げていった。
忘れることのできない一夜だ。私の頬は、酷い火傷を負っていた。
■
私には得体の知れない力がある。
そう悟ったのは二回目のできごとだった。
夜中、帰りがけのコンビニに立ち寄るのは私のルーチンワークだ。
頬の火傷はとうに治り、化粧で隠せるくらいには目立たなくなっていた。
一人暮らしの女が頬に怪我して出社すれば職場では当然心配されるが、事情をだれかに話す気にはなれず、秘密にしてしまった。
小腹が空き、おにぎりをひとつだけあたためてもらい、駐車場の隅で食べる。
ターンテーブルの上に赤々と照らし出されるおにぎり――。
電子レンジは不思議だ。
マイクロウェーブが水分子に働きかけ、振動させて加熱する原理は直感的ではない。
なぜこれで火で熱しもせず温かくなるのか、説明を聞いてもなにか納得しかねる。
電子レンジの原理がなぜか空恐ろしくてならないのだ。
――あの犬は、そう、こんな“力”で死んだのか。
あの犬は爆弾でも呑み込んでいたのだろうか。考えるほどに理解できない。
私はその後どうなったのか確かめるのが怖くて、あの犬のいた家の前を通ることは二度となかった。今後もそのつもりはない。
あれは夢だ。
そう思い込みたかったのだろう。
――チカッ。
私を白く洗い流すような眩しいライトに、ハッとする。スクーターだった。
考え事をしていた私へ、横着して歩道を走る不注意なスクーターが迫っていた。
激突する――!
その時だ。
また。
ポップコーンが弾けた。
時速数十キロで走行する車体と人体が諸共に、溶解しながら爆ぜたのだ。
スクーターの乗り手は五体バラバラになり、醜悪にして凄惨に焼け溶けて散る。
熱気に視界が揺らめき、夜道に赤々とした光が灯り、異臭が嗅覚を殺す。
足元に転がってきたフルフェイスのヘルメット――。
私はおそるおそる爪先でつんと蹴り転がした。怨めしそうに睨み返してくれる首も顔もありはせず、どろどろに溶いた絵の具のようなものがこびりついていた。
私は吐き気を我慢できず、吐瀉する――。
怖かった。
怖かった。逃げた。家まで逃げた。
怖かった。怖かった。怖かった。閉じこもった。怖かった。怖かった。気づいてしまうことが怖かった。
これは私のせいなのだ、と。
洗面台に映る私の瞳。赤い輪が浮かび上がっていた。
■
私はただ忘却することを望んだ。
この“力”をひた隠しにして、それまでの日常を繰り返そうとした。
不思議なことに、あの“事故”はネットにもテレビにも情報が出ていなかった。
なにか交通事故があったらしい程度の噂話になっていても、それがいかに異常であったかを誰も物語ることがない。
はじめから私の妄想であったかのような、そんな錯覚さえおぼえる。
私のみならず、どこかのだれかがひた隠しにしているのだろうか。
――好都合。私はすべてを忘れ去り、何も考えないことにした。
説明できない力だ。
きっと理解する必要はない。
電子レンジがなぜ加熱できるかをうまく言葉で説明できなくたって、おにぎりをあたためることはボタン一つで済むのだから。
■
月日が流れて、私は一児の母となった。
旦那と幼い娘、二人に囲まれて人生は順風満帆。そう信じていた。
それは娘が七歳になった春の頃――。
巷では少しずつ、特異な“力”のある人間の噂がささやかれるようになってきていた。
きっとどこかのだれかが隠しきれない程度に、私のような者が増えてきたのだろう。
あの事件は、やはり現実に起きていたことで。
私は、やはり人を殺していたのだということに気づいてしまったけれど――。
今更に、それをだれかに告白しようとは思えなかった。
それでも、後ろめたさは心の何処かにあったのか、少し気を病みがちになっていた。
旦那と大喧嘩した。
些細なきっかけ。娘を寝かしつけた後のこと。私と旦那は険悪な夫婦仲でもない。
ただその時はお互いすこし酒が入っていたり、すこし嫌なことが重なっていていた。
旦那の怒鳴り声は大きく、頭の中を切り裂くように不快に響いた。
いつもあんなに優しい夫が、その時は、とても怖かった。
怖くて、怖くて、たまらなくて――。
そのとき、私は心臓の異常な高鳴りを感じていた。
私の瞳はきっと、あの赤い輪の光を帯びたまま彼のことを映していたはずだ。
悪夢が蘇る。
あの時、向き合うことから逃げた“力”が今になって発露する。
きっと私は電子レンジのボタンを押してしまったのだ。
ポップコーンが跳ねた。
長年連れ添った大切な人が、ほんの一瞬のうちに灰燼に帰した。ポップコーンの屑が私の服や身体にへばりつき、しゅうしゅうと煙を上げるようだった。
結婚指輪のハマった指先が、足元に無造作に転がっている。
私が殺した。わたしが死なせた。わたしが――。
なぜ。なぜ。どうして。怖い。怖い。怖い。逃げたい。逃げたい。コワイ。怖いこわいコワイこわい怖いコワゐこわ――。
「ママ」
七歳になる娘が寝ぼけ眼を擦り、私のことをママと呼んだ。
鈍痛が金槌で殴られたように頭へ響く。
見られた。
娘に。
なにをどうせつめいしてわたしがパパをころしわたしがあなたをころしたころしたころした怖いコワゐ逃げたい逃げたいコワイこわい子ワイパパをころし――。
娘の無垢な瞳が、怖かった。こんな私のことを愛してくれている、信じている、ママと呼んでくれる娘を裏切ることが怖かった。
とても、とても――。
私は心の奥底で、また電子レンジのボタンに指をかけてしまっていた。
“おにぎり、あたためますか。”
カンタンなことだ。
もう取り返しがつかないのだから、何もかも終わってしまえばいい。
……ポップコーンは爆ぜなかった。
わたしは自分の目を、結婚指輪の輝石と金属でズタズタに抉った。
痛い。死ぬほど痛い。
でも本当は最初からこうしているべきだった。
後悔しても遅いけれど、まだ何の罪もない愛娘を守ることはできる。
そのためには失明くらい、なんてことないんだ。
「ママ! ママ! やめて! やめてよ!」
愛娘が泣き叫ぶ。
執拗に自傷を繰り返す母親と、五体バラバラになった父親の亡骸を前にして。
なんて悪夢だろう。
けれど、これでもう、悪夢は終わるんだ。
「怖いよ、おかあさん……っ!」
私は愛する娘を殺さずに済んだ。
電子レンジのボタンを押さずに済んだのだ。
けれどその時、きっと私の目がまだ視えていたら、そこには――。
愛娘の目に赤い光の輪が灯るのを目撃できたことだろう。
電子レンジのボタンを押すことは七歳の娘にもできるくらいカンタンなこと。
その“力”は遺伝する――。
“おかあさん、あたためますか。”
そして私もまたポップコーンになる――。
――了――
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ああ、間違って「あたためる」ボタンを押しませんように。