清純な乙女と吸血鬼と貴公子
夢のなかで私リリーは「清純な乙女」だった。何をもって「清純」とするのか、それはひとまず置いておく。本人が「清純な乙女」と言うのだから、誰がなんと言おうと清純な乙女なのだ。
買い物篭を下げて、鬱蒼と茂る木立の脇を市場へ向かう。繰り返し見るこの夢ではよく通る道で、この先の展開もまた知っている。
知っているのに、そこで林を覗いてしまうのは筋書き通りなのか、「今日もいるかな」と気になって我慢できないせいなのか。
まっすぐ前だけを見て進めば、トラブルは避けられるとわかっているのに、私は今日もまた林に目をやった。
男女が抱き合っている。目がゆくのはだらりと垂れた美女の腕。頭をのけぞらせ白い喉を男にさらす。彼女を掻き抱き情熱的に首筋に唇を押し当てる男。
何度目かになると「こんなとこで? 」とはもう思わない。
そして足を止めてジロジロと見る私に気がついた男が、白く細い首に口を当てたまま、視線を合わせる。
どういうわけか、そこで気がつくのだ。この紳士は吸血鬼で、彼女は血を吸われているのだと。
吸血紳士の食事が終わる前に、逃げなれば。私は走り出した。
動物は満腹の時には狩りはしないと聞く。ならば見逃してくれるのではないか、と淡い期待を持ちつつ、走って走って走ると円形の古い建物が見えてきた。
周辺には人がいて、中では何か催しがあるらしい。紛れてしまえば逃げ切れる。私は飛び込んだ。
それは不思議な建物だった。たくさんの人が踊ったり語ったりする大きなホールは吹き抜けで壁にそって上まで幅広の螺旋階段がある。踊り場は部屋のように使われていて、ソファーが置いてあったり、絵を描いている人がいたり、恋人同士が口づけを交わしていたり。
しばらくここにいて、皆が帰る時に合わせて出れば見つからない。我ながらいい考えだと悦に入る。
そこで視線を感じた。辿らなければいいのに、もちろん辿る私。先にいたのは吸血紳士。どこにも血痕はない。金髪に赤い眼で神経質な美青年に見える。まずい、私は螺旋階段をあがり始める。
私の歩く速度より吸血紳士の速さは2割増し。追いつかれるのは時間の問題。こっそりと振り返れば、彼が楽しんでいるのが分かった。やだ、趣味悪い。
そして当然の結果として最上階へつく。もう逃げ場がない。私は手すりを掴んで吹き抜けになった眼下を眺める。十五階くらい? こんな高さはなかなかない塔だ。
捕まるくらいなら、いっそいっそ……!私は思い切って手すりを乗り越えた。
そして、不安定な飛行でゆっくりと落ちていく。羽根もないのに。さて、この後はいつもどうだったのか。何度も繰り返し、その都度微妙に変わるので全ては覚えていない。だって夢だもの。
「まさか、ヒトが飛べるとは思わなかったが。さすがにお前の夢だけあって荒唐無稽だ」
声がして風を手繰るようにする長い腕が見える。引き寄せられすっぽりと収まったのは、公国一の貴公子である坊ちゃまエドモンドの腕だった。今日は昼の正装で、これまた私の好みを反映している。
「坊ちゃま!!」
「いかにも、お前の坊ちゃまだ」
丁寧に床に降ろしてくれたまさにその時、吸血紳士が登場。
「私の獲物を返せ」
坊ちゃまがこの上なく見下した態度を取る。
「大事な妃を獲物と呼ぶな。下郎」
ゲロウって何かしら。おじ様に聞くことがまた増えたけれど、起きたら忘れていそう。なにしろこれは夢なので。
「邪魔立てするな、するなら――」
凄んで見せる吸血紳士。すると坊ちゃまが一言も返さず、どこからか出したステッキで、いきなり容赦なく紳士の額を打った。
「ヒドイ! 坊ちゃま」
「獣はその場で躾けなければ、後から言っても理解しない」
獣!こんなにキレイな男の人なのに。
躾!殴ることが!?
坊ちゃまは案外武闘派らしい。
「お前の夢に二度と現れぬよう、恐怖を植え付けておかなくては」
坊ちゃまは綺麗なお顔で薄く笑うだけなのに、吸血紳士は怯えたように「ヒイィィィ」と獣じみた声をあげる。血は出てないから大丈夫と言ってあげたい。
「コレの夢には二度と出るな。遊びたければ、他の女にしろ。二度は言わぬ」
「去れ」という一言で、建物の内部から全員が消えた。
「え、坊ちゃま。吸血紳士だけ消したら良かったんじゃ。これじゃまるで」
「まるで?」
言えない。坊ちゃまが魔王みたいとは、言えない。リリーはゴクリと飲み込んだ。
「しかし何を表しているのだ、この塔は。手が込んでいるのに、無駄が多く寸法が狂っている。現実には建築できない。完成前に崩壊する」
上を眺めたエドモンドが感想を述べる。
「坊ちゃま、悪口を言うためにワザワザ来たの?」
子供の頃から何度も追いかけてきた吸血紳士を一瞬にして消してしまった坊ちゃま。
「お前がずっと悩まされていたのが、あれ程の小者とは。腹立たしい」
なんだかすみませんと、リリーが謝りたくなるのは、どういう理由か。
「どこまで私に面倒をみさせるつもりなのだ」
と言う苦情には「頼んでない」は相応しくないように思われる。
「どこまでも?」
自信なさげに答えるリリーに、エドモンドは平然と頷いた。
「仕方がない。私の妃なのだから、私が世話をするしかあるまい」
世話…? 世話。そう言えばさっき「大事な妃」と聞こえたような気が……リリーが盗み見ると「なんだ」と目敏く見つけて問う。
「いえ、なにもです」
今回も簡単すぎてつまらない、やはりもうひとつ片付けたいと不平を口にする坊ちゃまを「同じ系統の夢は一晩にひとつです」となだめて、塔を後にした。
「ということがあったのよ。あ、おじ様も夜見た夢のお話は嫌い?」
ついて回ってエドモンドの活躍を語るリリーに「いえ、奥様はお話が上手ですから、いつも聞き入ってしまいます」と、ロバートが返す。
ロバートとしては「奥様って」とうふうふと幸せそうに笑うリリーの頭を撫でたい。が、背中を向けている主のご機嫌が気になり控えるのは、優秀な家令であればこそ。
「また今夜、お出かけになりますので?」
聞いたロバートに、リリーが目をきょろりとさせた。
「もう、行かない」
おや、と怪訝な顔をしたロバートに、声を潜めてリリーが告白する。
「なんだか、夢の中の悪い人が可哀想になるくらい坊ちゃまが最強っぷりを発揮するの。申し訳なくて」
さらに声が小さくなる。
「いつも追われていたけど、向こうも本気で捕まえる気はなかったような気がするの。でも、ほら坊ちゃまは手加減がないでしょ?」
坊ちゃまの方が真の悪者みたいなの。深刻そうな顔つきで、口の動きだけで伝えるリリーにロバートは吹き出しかけた。
「さようでございますか。では、こっそり私に、残るはどのような夢かお話し頂けませんか。さわりだけでも」
リリーの好きな梨のタルトを切り分けながら誘うと、チラチラと主エドモンドを意識しながらも、小さな声で話し出す。
「私が女家庭教師をしているんだけど、そのお宅に強盗が入るの。教え子四人をなんとか連れ出して――これ以上はだめ」
タルトは少し大きくして欲しい。普通の大きさなら二切れ食べてもいい? また声に出さずに聞くリリーに、ロバートもまた無言で頷く。
「ロバート、あまり甘やかすな」
エドモンドの冷ややかな声が響く。リリーが文字通り飛び上がった。
「コレを甘やかすのは私だけでいい」そう言いたいのだろうかと思えば、主の不機嫌も微笑ましい。などという考えが外に出ないよう、ロバートは乱れてもいない衿元を正した。
最終的にはうまく聞き出されて、今夜にでもリリーが呆れるほどの無双ぶりを主がみせるのは、疑いの余地がない。
本当に夢の中まで追っていけるのか、などという常識は通用しない。なにしろ、お二人とも「セレスト家」なのだから。
「私の膝の上に座るなら菓子は二切れ、向かいに座るなら一切れだ。どうする?」
エドモンドの甘い誘惑が始まった。
貴公子派の皆様、お待たせいたしました。
そして「初めまして」の皆様、どうぞよろしくお願いいたします。
「花売り娘は底辺から頂点を目指します! 貴公子に溺愛され〜」で、小さなリリーと貴公子エドモンドの物語もお楽しみ頂ければと思います。
またお目にかかれますように。