14.返事
「リック様! やっと会えましたわ! 私、あなたにお話があるのです」
ファニーはリックだけを見ていてジリアンの存在は視界に入っていない。リックは一瞬顔を顰めると小さく舌打ちをした。その様子にジリアンは目を丸くする。温厚なリックがそんな顔をしたところを見たことがなかったからだ。
「ファニー嬢、ご無沙汰しております。御用がありましたら使いを出して頂ければこちらから伺います」
「もう、買い物の度に使いを出しても違う人が来てリックさんは顔を出さないじゃない。ねえ、父もあなたに会いたがっているわ。今日はこの後時間があるかしら? 私と一緒に家に来て欲しいの!」
ファニーはそう言うとリックの腕に自分の腕を絡め甘えるように下から覗き込む。リックはさりげなくその手を解くと営業用の笑みを浮かべ首をかしげる。
「どういったご用件でしょう?」
「ふふふ。あなたにとって、とてもいいお話だと思うわ」
「分かりました。では、支度をしますので外でお待ちいただけますか?」
「うちの馬車が外に止まっているから中にいるわね」
ファニーは破顔するとスキップでも踏みそうな足取りで事務所を出ていった。最後までジリアンは意識の外のようだった。そのほうが有難い。リックはジリアンの側により手を取った。大きな手が自分の手を包みその温もりに心臓が早鐘を打つ。
「邪魔が入ってしまいましたね。アンさん。私は本気です。急なことで驚かせてしまい申し訳ない。どうか私とのことを真剣に考えて欲しい。いい返事を待っています」
リックは名残惜しそうに手を離すと部屋を出ていった。ジリアンはダイナからワインを受け取り帰路についた。その日は屋敷までどうやって帰ったのかその後どう過ごしたのか記憶がない。夜になり自室のベッド上で窓を見上げる、上弦の月がくっきりと見える。
リックの言葉が何度も頭の中を巡る。「好きだ」と言われた。好きな人に同じ思いを抱いてもらえた。嬉しかった。それなのに「私も」と伝えることが出来ない。
昼間のファニーの様子なら話の内容は縁談に違いない。リックは平民で商人だ。身分を考えれば男爵令嬢であるファニーとなら問題がない。彼女と一緒になれば貴族の繋がりも得られ彼にもメリットがある。だがジリアンには何も与えることが出来ない。財産もなければ侯爵令嬢の立場のせいでこの家を出ていくことが難しくなってしまった。
エヴァから養女になっていることを知らされていなければ、リックに打ち明けてこの家を出る決心が出来たかもしれない。
もしも、最初からバナンがカーソン侯爵家を継いで父が平民として生活をしていたらジリアンは何の柵もなくリックと幸せになることが出来たのだろうか。でもこの想像は無意味だ。この屋敷のメイドでいたから彼と出会えたのだから。
ジリアンは貴族籍に入っている。自分の意志で将来を決めることが許されない立場だ。もしリックに事情を打ち明けてジリアンを連れ出したとしても、エヴァは捜索させるだろう。下手をすればリックを誘拐犯扱いするかもしれない。
どう考えてもリックを不幸にしてしまう未来しか想像できない。それにもし逃げてもそのあとに、彼がジリアンを望んだことを後悔するかもしれない。悪い想像ばかり考えてしまいジリアンは彼の気持ちに応える勇気を持てなかった。
「……っ……」
寝返りを打てば眦を涙が滑り落ちていく。再び窓に視線を移せば月が滲んで見えた。
(せっかく好きって言ってもらったのに…………)
ジリアンはリックの思いに応えないことに決めた。ただそれをどう伝えようか迷っている間にお使いの日が来てしまった。いつもはあんなに待ち遠しいのに早く感じてしまった。
「こんにちは」
「アンさん。こんにちは」
いつもはダイナが出迎えてくれるのだが今日はリックが扉のすぐ側にいた。自分が来る時間を見計らって待っていてくれたのだろうか。この後の自分の言葉が彼を傷つけると思う胸が締め付けられる。
「リックさん……」
彼はジリアンの表情を見て困った様に苦笑いを浮かべた。きっと聡い人だから察しているのだろう。それでもいつものように声をかけてくれた。
「お疲れ様です。奥にどうぞ」
「はい。ありがとうございます」
奥の事務所にもダイナはいなかった。もしかしてリックから何か言われて不在にしてくれているのかもしれない。
ソファーに座るとリックがジリアンの前にお茶を置く。そして対面に座った。彼はジリアンを真っ直ぐ見たまま口を開く。
「アンさん。返事を聞いてもいいですか?」
「はい。あの、申し訳ありません。…………リックさんとお付き合いすることは出来ません」
「それは私が嫌いだからですか?」
「いいえ!」
思わず大きな声で否定してしまった。
「では、好きですか? 少しは好意をもってくれていましたか?」
「っ……」
はいと言いそうになる。駄目だ。ジリアンはリックの顔を見ていられなくて視線を床に落とす。
「アンさん。私を見て下さい」
恐る恐る顔を上げるとリックは笑みを浮かべていた。穏やかで優しい顔。
「リックさん……」
「アンさん。申し訳ないが私は諦めが悪い。あなたが私を嫌いでないならまだチャンスはあると思っている。あなたに好きになってもらえるように努力するので覚悟してください」
「っ……リックさん……」
ジリアンはどうしていいか分からない。嬉しいのか苦しいのか、ただ無性に泣きたいような気持になる。必死に奥歯を噛んで感情を押し殺す。自分のことなど忘れてもっと素敵な人を見つけて、そう言えばいいのに声を出すことが出来なかった。
それ以降もリックはお使いに行って顔を合わせてもいつも通り楽しい話をしてくれる。ジリアンの心に負担をかけないように気まずくならないようにしてくれていた。彼は優しい。でもこのままでは彼に「好きだ」と言ってしまいそうだ。こんな曖昧な態度はよくない。でも嘘でも嫌いだと言いたくない。どうやってこの思いを断ち切ればいいのか分からない。
「アンは坊ちゃんのことが好きだろう?」
「っ!!」
ダイナの言葉に口の中の紅茶を吹き出しそうになる。リックは今日は買い付けでお店にいないのでダイナとお茶をしている。
「どうやら事情がありそうだね。私に教えてはくれないかい?」
「ごめんなさい」
「そうかい、まあ気が向いたら話しておくれ」
「はい。あの、リックさんから何か聞いていますか?」
「ははは。いやあ、坊ちゃんが落ち込んでいたから大体のことは察しがつくよ。私は見守るとしようか。ああ、そうだ。ファニー嬢との縁談は断っているから心配なく」
ダイナは豪快に笑うと茶目っ気いっぱいにウインクをする。リックの気持ちに応えられないのにファニーとのことはずっと気になっていたので教えてもらえてホッとした。
(私はずるい……)
それからお店にお使いに行くたびにリックはジリアンにはっきりと好意を示してくれる。やんわりと断り続けてはいるが、完全に拒否しないは自分は卑怯な女だ。彼と話せなくなるのが惜しいと思っている。もしも全ての事情をリックに話したらどうなるのだろうか。もし一緒に逃げて彼だけが責任を問われることになったら。貴族は平民に対して過剰な罰を与えることがある。ジリアンには彼との未来を手に入れることは茨の道に進んでいくようにしか思えなかった。




