ヴァルキリーとスマホ
課題が終わるとサクラが背伸びをしてから、出かける準備を始めた。
この後、三時間ほどアルバイトが入っているのだ。
サクラから、着替え中は他所を向いていて欲しいと頼まれているため、ニースは窓の外を眺めながら待つことが多い。
時刻は午後四時半を回って少し。
オレンジ色の斜陽が照らす町並みは、ありふれていて、どこか儚さを感じさせる。暖色系の色と混ざり合い、暗色に近づいて行く空の下、所々で街灯や電灯が点き始めた。
人々はそれぞれの用事へ向かって進み、話し、立ち止まり、時間と命を消費して予想できないエネルギーの流れを作りだしている。
自動車や電動二輪のライトも、光の流れとなって、ニースの視覚情報に飛び込んでくる。
風が吹く。
春も終わりが近づいている。少し暖かく柔らかい風は、後ひと月ほどすればしっとりとしたものへと変わっているだろう。
あぁ、何と儚い光景で、切ない営みなのだろうか。
数百年の時を人の世に接して生きてきたニースは、一瞬で優しい風景が失われる光景を目の当たりにしてきた。
だから、この光景が一瞬で終わる想像をありありと浮べることができて、ガラにもなく、普段なら考えもしないセンチメンタルな感想に頭を振った。
下らない。
本当に、下らない。暇を持て余し過ぎているからだ、とため息を漏らしたくなった。
ついひと月半ほど前までは、充実した日々を送っていたし、ふといつの日か迎える最終戦争について考えた時も、他のヴァルキリーと一緒に生き残れればよし、そうでなければ巨人の一人、二人を道連れに玉砕してやろうと思う程度だった。
全く、腑抜けたものだ。
その原因を作った人間の着替えが終わり、声を掛けられたニースは振り返る。
黒のパーカーにジーンズ姿のサクラは、いつものようにのんびりとした雰囲気で立っていた。
その姿からは、巨人を始めとする最終戦争の脅威を一人で退けたなどと、誰も予想すらできないだろう。
「行こうか」
サクラは穏やかな声で言うと、先に部屋を出ようとする。その後ろ姿からは、不思議な空気が滲んでいる。
ありふれた言葉でそれを現すのなら、殺気。
何一つ殺意も怒気も抱いていないはずの青年が纏う気配に、ニースは黄昏の街の情景を重ねた。
「あぁ」
サクラが部屋を出る前に追いつき、ニースは十センチ程の距離を置いて、共に階段を降り始めた。
彼から滲む殺気は、ニースが知るどの攻撃的な気配よりも鋭く、そして悲し気で、儚さがあった。
一階へ降りたサクラに、フェンリルことあんこが、とことこと寄ってきた。半月ほど前の遠い場所を見ているような目ではない。
安藤母や妹弟に対するような態度ではないが、あんこはサクラに対して過剰な怯えを見せはしない。
先日、ニースが殺気を極限まで抑え込んだおかげでもあった。
「行ってくるよ、あんこ」
しゃがみこんで頭を軽く撫でてやると、サクラは応接間にいた家族へ向けて挨拶をしてから、玄関へ向かう。
その様子を横目で見ながら、ニースはサクラを見つめるあんこを無視して、サクラの後へ着いて行く。
だが、あんこの横を通り過ぎようとしたところで、その視線が自分にも向けられたことを、ニースは感じ取った。
ひと月半ほど前なら、フェンリルに見つめられていると警戒したはずだが、今のニースが思うのは、精々が見られているな、くらいだ。
邪念も敵意も害意もない、小さくなったフェンリルは、ペタンとお座りをして、ドアを開いて出ようとするニースとサクラを見ていた。
ふとても、一神話の主神を殺す予定だった存在とは思えない、のほほんとした光景に、ニースはやはり慣れてしまっていた。
「いってらっしゃい」
鈴を転がしたような、それでいて柔らかい少女の声が、ニースの鼓膜を震わせる。
それもいつものことで、そして聞こえるのは、ニースとサクラだけで、
「行ってきます」
「行ってくる」
ニースとサクラがあんこへそう返すのも、いつも通りで。
世界の黄昏で大暴れする最強の存在がすっかり安藤家に馴染んでいる光景に、ニースももう慣れてしまってはいたが、先ほどのセンチメンタルな気持ちがぶり返してきて、
「まぁ、考えるだけ無駄だな……世界の終焉は、もう来ない」
平和な夕暮れ世界の中をサクラと並んで歩きながら、ニースは一人ごちた。
サクラが向かうのは、自転車で十分ほど走った先にある、全国チェーンのファミレスだ。
指定されている場所へ自転車を止め、ドアを開くと、店内BGMと客の会話、キッチンから聞こえてくる作業音が混ざり合って出迎えてくれる。
サクラは通りがかった同僚に挨拶し、事務所へ顔を出す。
椅子に座り、連絡ノートに目を通している先客が、サクラに気が付いて顔を上げた。
「おはようございます」
サクラが先だって声をかけると、制服に身を包んだ少女が小さく頭を下げた。
「おはようございます。安藤さん」
あどけなさを残した可愛らしい顔が、微かな華やかさに彩られる。
揺れる、少し明るい色に染めた髪は短く、切り揃えられている。理由は単に、動きやすいから、の一言だったことはニースの記憶にも新しい。
「誰も着替えていないので、ロッカー使用して大丈夫です」
「ありがと」
サクラはそう言うと、カーテンで仕切られたロッカーに囲まれたスペースへ入って行った。
ニースは中に入ることはなく、カーテン前に設置された、勤怠管理も兼ねた業務用ノートPCが置かれた机の前で、腕を組んで待っている。
暇だな。
手持無沙汰になったニースの視線が、少女の胸元へと向けられる。制服の胸に取り付けられた名札には、銀と書かれている。
銀美琴。
それがこの少女の名前である。
これまで何度か、サクラがシフトに入っていた際に見かけた。
年は十代半ばごろで、高校一年生。好きな事に使うお金を貯めるために仕事を探していて、制服も可愛く、学校帰りに寄れるこの店を選んだのだという。
美琴はニースの存在に気付いてはおらず、連絡ノートを見終わると、店員の名前が書かれた確認チェック表の該当する欄にレ点を入れる。
それから、時計を確認すると、美琴は机の上に置いていたスマホを手に取り、触り始めた。
ここ十年近くで、人間たちは機械仕掛けの板に夢中になってしまった。
百年と少し前は有線だった通話システムは、今や電波の届く場所であるなら地球の裏側にも届く、超遠距離無線通話システムへと進化してしまった。
さらにそれは、同様に進化してしまったインターネットと合わさったことで、人類の繋がりはかつてないほどのものになってしまった。
パーソナルコンピュータも、持ち運びできるノートから、携帯電話と組み合わさったスマートフォンになった。
つまり……地球の多数の場所で、ほとんどラグなく、同時に通話相手の顔を画面に映しておしゃべりや電子文章のやり取りが可能になった、という事だ。
人類の技術進化が、この一世紀が一番凄まじく馬鹿げている程にエゲつないと、ドヴェルグ出身のノルンが戦慄していたと、同僚から聞いたことがあった。
そして、それは正解だった。
おかげで、主神様や先輩ヴァルキリーが戦の種や不穏の火種を用意しても、何かしらに気が付いた誰かがソーシャルネットワーキングシステム、通称SNSで一言、どこどこで何々があった、と入力なり動画配信サービスで言ってしまえば、凄まじい速度で消されてしまう。
実際、この数年で、同僚の何名かがその影響を受け、回収できる魂が少なすぎて頭を抱えていたことが多々あった。
サクラは、スマホを使っていない。少し前まで日本で主流だった、ガラパゴス携帯を使用している。安藤家の他の者はスマホ、もしくは携帯と併用して利用しているのだが、サクラは携帯電話一つしか持っていない。
理由は聞いていないが、特に興味もなく、さらにかつての仕事で煮え湯を何度か呑まされたことのある機械装置を彼が持っていないことに、ニースは妙な安堵と優越感を抱いていた。
ただでさえ危険かつ未知数の力を持つ彼が、スマホを手にすれば、絶対に大変な事が起きる。
確信めいた予感がニースにはあった。
そして優越感は、そんなサクラがスマホの使い方がわからずに、妹から弄られていたという、本当に小さなプライドから来ていた。
やはり私は小さい……と落ち込んでいたのもついこの前まで。
今では、スマホに対しても、それを持たないサクラにも、そこまで負の感情を抱くことはなくなった。
そして今、常人ゆえにニースを認識できず、スマホを弄る美琴の姿を見て、掌の上で世界が繋がるなど神の御業でしかなかったのにな……とニースは考えるのだった。
と、美琴の意識がスマホから逸れ、ニースの方へと向けられた。
まさか見えているのか、とニースは思ったが、すぐにその考えを撤回した。
美琴が意識しているのはニースではなく、カーテンの向こうにいるサクラだ。
確かにスマホへ意識は向けられているのだが、時折、着替え中のサクラにも向いている時があるのだ。
そう言えば、とニースは、これまでにも美琴が時々、サクラの事を見ていたことがあった事を思い出した。
最初は、サクラの殺気に当てられ、気にしているのかもしれないと思っていたが、現在の彼はほぼ抑え切れている。
「よしっ」
着替えを終えたサクラが出てくると、美琴は視線をそっと彼から逸らし、気にしていませんよと言わんばかりにスマホへ集中し始めた。
「安藤さん、どうぞ」
「ありがと」
連絡ノートを受け取ったサクラが反対側の椅子に座り、ぱらぱらと確認し出す。
すると、美琴は先ほどよりも抑え気味になりながら、サクラへ意識を再び向け出した。
「サクラ」
ニースが声をかけると、サクラは声を出す代わりに、視線をニースへ向けてくる。
「そこの銀という娘だが、先ほどからお前の事を見ているぞ」
サクラは首を傾げ、それから美琴へ視線を移した。
「ねぇ銀さん」
「何ですか?」
「俺の顔、何かついてる?」
一切の邪念無く、純粋に疑問を抱いたらしいサクラの質問に、美琴は少し面食らったように、微かに体を震わせた。
「えと、その、安藤さん、ちょっと雰囲気が変わったなぁ、思いまして」
つっかえながらも、美琴は答えた。
それは確かにあるだろう、とニースは心の中で同意した。
この前まで、素人でも不安を覚えるような殺気を、無意識に漏らしていたのだから、きれいサッパリに消えれば、戸惑う者も中にはいるだろう。
だが、それだけではないだろう、ともニースは睨んでいた。
対して、当のサクラは腑に落ちたらしく、無邪気に受け取っていた。
「そうかな?」
「ええ、何と言うか、ちょっと空気が軽くなった、と言うか」
「あはは、そうなんだ?」
何も疑うことなく、自分の殺気が抑えられた成果が出たと喜んでいることが、ニースには手に取るようにわかった。
確かにそれは喜ばしいことだろうが、お前はもっと別のことに気が付かないといけないだろう。
ニースは無感動に考えながら、口に出すことはしなかった。しても仕方ないことだし、義理もないからだ。
「きっと安藤さんが、いい人だとわかったからだと思います」
「ん?」
「安藤さんに対する、心の壁が、少し崩れたからかな、と」
「俺、そんなに怖かった?」
「少しだけ。今は、もう怖くないです」
それを聞いて安心するサクラを、美琴はじぃっと見ていた。
熱を秘めた眼差しには、ニースも見覚えがある。
それは、数百年の間に、何度も見た、ありふれた感情から来るものだったからだ。
これは、自分が教えなくても、いずれ嫌でもわかりそうだな。
そう考えたら色々と馬鹿らしくなり、ニースは明後日の方角へ向いて、ため息を吐くのだった。
ちなみに、私の作品で携帯や携帯電話と書いてあったら、特に断りがなければガラケーです。
ところで、生歌配信を聞きながら執筆する小説は楽しすぎないか? 贅沢すぎないか? そう思いませんか?(謎テンション圧