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最近の安藤家

 安藤作楽(さくら)という青年は、ごく普通の大学生だった。

 安藤夫妻から愛情を注がれて育った、どこにでもいる、お人好しな青年。

 好きなことがあって、いい友達がいて、片思いの相手がいて、告白もせずに疎遠になって、条件に合った適度な大学へ通い、


 しかし、ある日、彼は普通の青年ではなくなってしまった。

 通り魔から幼い少女を庇い、刃物をその身に受けたのだ。


 明らかな致命傷。

 とめどなく流れる血。

 赤い水たまりに浸った腕が、思うように動かない。


 あぁ、死にたくないな。

 乾いていくような不思議な感覚の中で、己が失われていく恐怖を覚えながら、そう思いながら。

 それでも、自分を見下ろす幼子の泣きそうな顔を前に、安藤作楽という人間は笑顔を作った。

 大丈夫だよ、安心してね。

 そう伝えるように。


 数分後、到着した救急車に乗せられ、搬送された病院で手術が始まった。

 しかし、臓器にまで達していた傷と、流れ過ぎた血のダメージは絶望的だった。医師たちの懸命の治療も空しく、やがてその命の灯火と鼓動が消えようとしていた。


 その場にいた誰もが、もうこの青年は助からない、そう思った時。


 止まる寸前だった、心臓の動きと呼吸が徐々に正常なものへと回復していった。

 奇跡が起きた、生きようとする力が起こしたのだと、医師たちは青年の家族へと後に言葉をかけた。

 かくして、幼い少女を救ったお人好しの男は、九死に一生を得て、大切な人たちと再会することができた。


 ただ、一つだけ変わってしまったことがあるとすれば。

 臨死体験をした影響なのか、彼を知る者や細やかな変化にも気づける者は、青年の纏う雰囲気の中に、以前はなかった気配を覚えていた。


 例えるならそれは、鋭い刃のような、研ぎ澄まされた不思議な気配。


 それをよく知る者はそれをこう呼んだ。

 殺気、と。




「――――つまり、お前の纏うそれは殺気だ」


 朝食の後、自室に戻ったサクラに、ニースは彼の抱いていた疑問に答えていた。


 サクラの疑問。

 それは、病院で目が覚めてしから少ししてから、家族や友人、一部の知り合いの態度がおかしかった、というものだった。

 今でも時々、弟や妹が気まず雰囲気になっているので、どうしたものかと悩んでいたらしく、ヴァルキリーであるニースなら何かわかるかもしれないと、相談を持ちかけてきたのだ。


 話しを聞いたニースは、もちろんその答えを知っていた。

 だから、殺気、と即答した。


 殺気、と聞いて訝しんだサクラに、ニースは当時の様子を説明し、生死をさまよっている間に異世界転移した魂の経験がそれの原因だと付け加えた。


「お前がどんな経験をしたのかは知らないが、何か精神的に大きな負荷のかかるような事や、命のやり取りをした覚えはないか?」

「えぇと……うん、あるね」


 少し歯切れ悪く答えたサクラの表情は浮かないものだった。

 あれは、何か思うところがあった相手と戦ったか、後味の悪い戦いを経験してきたな、とニースは予想した。そしてそれはあながち外れてはいないだろうとも思った。


「なら、それだな。それ以外にも、大なり小なり命のやり取りをしたり、死と隣り合わせの状況下で過ごしたりしたのであれば、殺気の一つや二つ覚えるだろうし、それを抑える術も身に着くものだ」

「そうなのか?」

「あぁ。お前の殺気は凄まじいものだ。それをこの平和な国の人間が、少し不安に思える程度に抑えられているということは、自然とお前はその殺気を抑える術を身に着けている。だが、完璧ではないな」

「どうすればいい? このままだと不便で仕方ないんだけど」

「少しそのまま待て」


 ニースはベッドに腰掛けたサクラの前に立ち、その額に右人差し指を軽く押し当てた。


「これでどうだ?」

「え? 何が?」

「何か変わった自覚はないか?」

「……うーん、よくわからないな」


 首を傾げるサクラから指を離し、ニースは満足した表情を隠さず、腕を組んで胸を張った。


「殺気をほぼゼロまで抑え込んだ。これで、家族や親しい者たちとも以前のように交流することができる」

「え、本当なのか?」

「あぁ、何なら、後で試してみるといい」


 両手を目の前にかざしたり、身を捻って体中を確認するサクラを前に、ニースは非常に気分が良くなった。

 出会った時からサクラには驚かされっぱなしで、先日は神界を中心に大暴れして無職にしてくれたことへの多少の怒りや理不尽さも覚えていたのだが、それらの不満もほぼ綺麗さっぱり消えるくらいには、清々していた。

 ラグナロクを未然に終わらせた男を驚かせてやった、と一矢報いたことに、ニースは最近で一番の上機嫌だった。


「ありがとうな」

「ん?」

「俺、アイツらから、あんな顔向けられるの、悲しかったからさ」


 だから、笑って礼を言ってくるサクラに、熱くなっていたプライドが少しだけ冷やされてしまった。

 小さいな、私、とどうしてかそんな考えが浮かんでしまった。

 それと同時に、この男の笑顔と感謝に、全身が粟立つような感覚を覚え、さらに胸が少し苦しくなった。

 新しい罪悪感の覚え方だ……と内心、一人ごちながら、ニースは気にするなと、サクラの視線から逃れるように顔を逸らした。

 今、彼のその笑顔を見たら、何か危ないな、とも思った。


「私は守護霊だからな。どうしても仕方がないと思った時は助けてやる」

「あぁ、ありがとう、本当に」


 邪念の全く感じられないサクラに、ニースはついに体ごと明後日の方角へ向いてしまう。

 今は、これ以上その姿を見ていられなくなったから。

 何だこれは、と戸惑いながら、ニースは湧き上がるムズムズした感覚に眉を潜めた。


 不快なのに、心地よさを覚え、それから逃れようとして、ふと思い出した事案を口にした。


「……それより、お前、フェンリルについてだがな、アレでいいのか?」

「アレ?」

「散歩だ。魔法で小さくなっているとはいえ、最強最大の狼で、大神の子だぞ? それを飼い犬のように……」


 朝、サクラはフェンリルを普通の飼い犬と同じように散歩へ連れ出す。

 首輪を嫌がるフェンリルのために、わざわざハーネス式のものを購入し、毎朝決まったコースを回るのだ。

 子犬そのものの姿になったフェンリルは、サクラに抵抗らしい抵抗を見せず、大人しくされるがままになっている。嫌がる素振りを見せたのは、首輪の時くらいで、予防接種の時も非常におとなしく、同伴したサクラの妹が驚いていた。


 中身は神をも食い殺す最強の存在だが、見た目は愛らしい狼要素を持った子犬となったフェンリルは、とことこと愛らしい姿で歩く。

 今ではすっかりご近所の人気者だ。

 もちろん、安藤家でもアイドル扱いで、特に母と妹が可愛がっている。そして、そんな二人にもフェンリルはされるがままになっている。


 二人に何かあればサクラからどんな報復を受けるのかわからないと恐怖しているのか、はたまた色々と諦めているのかは、ニースにはわからない。

 ただ、将来的に敬愛する主神様を殺す運命(予定)だった存在が、普通の子犬と変わらない生活をしているため、ニースとしては複雑な気持ちだった。


 それでも、やはり一神話の最強存在の一角。

 近所の飼い犬、飼い猫を含めた動物は、完全にフェンリルを格上の相手と察して、すっかり畏れられ、慕われていた。

 それを見たサクラは呑気に、「早速仲良くなれてよかったなぁ」と言っていた。

 間違ってはいないが、アレはそのような平穏な関係ではないぞ、とニースは思ったが、口には出さなかった。

 知らなくていいことが、世の中にはある。フェンリルのためにも、サクラのためにも、自分の精神衛生のためにも、ニースはこの事実を胸の内に秘めておくことにした。


 そして、そのフェンリルだが、今、安藤家にいない。

 サクラの妹が弟と一緒に散歩へ連れ出している最中なのであった。


「あぁ、どうしても連れていきたいって前から言ってたしなぁ」

「お前……妹と弟は普通の人間……それも戦いの“た”の字も知らない子どもなんだぞ? 仮にフェンリルが怒って、噛み付いたら大怪我では済まない」

「大丈夫だよ。あんこは絶対にそんな事しないから」


 サクラは本心から思っているらしく、のんびりとした雰囲気で断言した。

 ちなみに、あんこ、とはフェンリルの安藤家における名前である。

 命名者は安藤母。理由は、何となく餡子っぽいから。

 平仮名にした方が可愛いよね、とさらに安藤妹が提言したことで、役所に『あんこ』と登録された。

 灰色の体毛なのだから、銀だとかシルバーという名前なのでは? と思ったのはニースだけで、サクラや安藤父、兄、弟もそれでいいんじゃないかと乗り気だった。

 ニースは、フェンリルに同情してしまった。


 当のフェンリルは、もうどうにでもなれ、と言わんばかりに無関心だった。ただ、最近は呼ばれればちゃんと反応するようになっている当たり、もしかしたら気に入りつつあるのかもしれない。

 そして、フェンリルことあんこはサクラが見ていなくても、安藤家に危害を加えることは一切なかった。むしろ、安藤母、妹と弟には懐いている節がある。

 その辺りを見て、サクラは安全だと判断しているようだ。

 ニースからしてみれば、甘い、の一言で切り捨てるような理由だが。


「あんこは、寂しがり屋だからな」

「……寂しがり屋?」

「大丈夫だ、今、あんこは寂しくないから、大丈夫だ」


 そう言うと、サクラは立ち上がり、窓際の机に向かって、課題に取り掛かり始めた。

 ニースは、机に向かうサクラの横顔を見ながら、彼の言っていることが、何となくわかり、理解してしまった。


 フェンリルは、母親から引き離され、ずっと封印されていたのだ。

 そして、封印が解かれたフェンリルは、ラグナロクで主神オーディンを呑み込み、その息子に倒される……そんな、恐ろしくも悲しい存在なのだ。


 それが、自分のせいで動いたサクラにより、ラグナロクは未然に防がれ、フェンリルの定めも変えてしまった。

 それが、良かったかどうかは、まだわからない。


「お、帰ってきたな」


 サクラのつぶやきを聞いて、窓の外を覗けば、サクラの妹弟と共に、フェンリルが戻ってきたところだった。

 上機嫌にも、尻尾を振って妹と弟にじゃれついている姿からは、邪まな気配は一切感じられなかった。


「な、大丈夫だろ?」


 ニースが視線を部屋へ戻すと、サクラが柔らかい笑みを浮かべていた。

 少し釈然としないが、確かに、悪くはないかもしれない、とニースも思えた。


「そうだな」


 フェンリルの、あんこの楽しそうな姿を見て、私も甘い考えを持ったな、とニースは内心、苦笑を浮かべたのだった。


あんこという名前は、書いているときに自然と出てきて、それがしっくりとしたので、あんこという名前になりました。あんこ可愛いよあんこ。

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