9.濡れてる
夕食を済ませて、お風呂に入って、ベッドにもぐり込んだところで、私はスマホを手にした。ドキドキする。ドキドキしている。ドキドキしまくっている。なんだか勿体無くて、そう簡単に電話はかけられない。けれど、延々とまごついていても仕方がないと考え、番号を入力、通話ボタンをポチッとな。
むぅ。
予想通りではあるものの、やっぱり出てくれない。しつこくしつこくコールしても、反応はない。そこで一通、メールをしたため、送信した。
<夜になったら電話に出てくれるっていったじゃない>
見事にスルーされた。
<いいよ。出てくれるまで、コールし続けるから>
それはさすがにうっとうしいと思ったのか、通話に応じてくれた。『しつけーよ、おまえ』と、ともすればヒドい返答を寄越したのは、ホンジョウ・サクヤだ。あの夜、少ししゃべっただけだけれど、聞き間違いようのない声だった。
「こんばんはでございます」
『未来永劫、電話はしてくるなって言っただろうが』
「我慢できなかったんだよぅ。っていうか、ちゃんと電番、教えてくれたんだね。嘘かもしれないって思ってた。結構誠実じゃん」
『ほんとうのことをしゃべっちまったあたり、メチャクチャ後悔してるよ』
「なにしてたの?」
『うるせーよ』
「なにしてたのっ!」
『酒飲んでたんだよ。あー、ホント、うっぜーな』
そのうざったいような言い方ですら、心にするっと入り込んでくる。なんというかこう、胸をくすぐられるような思いがするのだ。
「宅飲み?」
『そうだよ』
「ウイスキーでしょ?」
『どうしてそう思うんだ?』
「あんたにメチャクチャ似合うから」
『そうかよ。つーか、目上のニンゲンをあんた呼ばわりすんな』
私はごめんごめんと謝ってから、「ねぇねぇ」と呼びかけた。『なんだよ』と返ってきた。「私、いまちょっと濡れてる」と告白した。「馬鹿か、おまえは」とぴしゃりと言われた。
「でもさ、あんたの声、スッゴくいいから」
『突き放したことを言ってるつもりだぜ?』
「だよね。私ってば、ちょっとマゾなのかもしれない」
『切るぞ』
「まあまあ、そう急がないでよ。もっとお話ししよ? 付き合って?」
『あのな、JK』
「JKじゃない! 理沙っ!!」
『ホント、めんどくさすぎんぞ、おまえ』
呆れ果てたような口調だった。
「言いたいことを言います」
『とっととほざけ』
「明日、サクヤんちに遊びにいってもいい?」
『ああん?』
「ねぇねぇ。行ってもいいよね?」
ふざけんな。
そう返ってきた。
「えー、なんでぇ?」
『JKほど嫌いな人種はいねー。ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあうるせーからな』
「じゃあ、ぎゃあぎゃあ言わない。だから、家、教えて?」
『電番の次は住所だってのか?』
「会うって言ってくれるまで、連絡しまくるから」
『迷惑だ』
「だったら、迷惑を被らないように振る舞えばいいじゃん」
深々としたため息が、電話越しでもわかった。
『テメーは俺に、いったいなにを見てやがんだよ』
「んー、あえて言うなら、恋の予感?」
『おまえと俺とは一回りも違う。そんな男に理想を求めてんじゃねーよ』
「年は関係ないじゃん。会いたい会いたい会いたいのぉ」
『邪魔くせー』
「だから、まあそうおっしゃらずに。ちなみに、抱いてなんて言わないよ? 私、とりあえずサクヤの顔が見たいだけだから。ところで、ホンジョウ・サクヤって、どういう漢字なの?」
『ホンジョウはエロ本の本に庄内平野の庄だ。サクヤってのは、八朔の朔に真夜中の夜だよ』
「あはははは。エロ本の本に、八朔の朔とかっ」
『馬鹿にすんな』
「ごめんごめん。名前って大切だもんね。笑っちゃいけないよね」
『顔、見てやるだけだぜ?』
「おぉ、ここで折れてくれるわけ?」
『面倒事は、とっとと片づけたいんだよ』
朔夜は住所を教えてくれた。それを頭の中に叩き込む。記憶力はいいほうだ。「やっりぃ」と私は声を上げたのだった。
「女子高生の魅力をたっぷり堪能させてあげるから」
『抱く抱かないの話はしないんじゃなかったのか?』
「やっぱり気が変わりましたぁ」
『JKには用事がねーって言ってんだろ』
「それでも、ヤりたくなっちゃうかもしれないよ?」
『おまえ、処女か?』
「そうだよ。キスもしたことない。それがどうかした?」
『前にも言った覚えがあんよ。そういうのは大事な男にくれてやれってな』
「今の私にとって、朔夜以上に大事な男っていないの。まあ、待っててよ。後悔はさせないから」
『できることなら来んなよ』
「いいえ。お邪魔します」
『死ね』
「嫌だ。生きる!」
そこで通話は途切れた。向こうからプツッと切られてしまった。だけど、大収穫だ。メールが届いた。電話も通じた。加えて、明日は会うことができる。朔夜との関係が一歩ずつ進んでいるような気がして、私は飛び跳ねたいくらい嬉しくて、実際、ベッドの上に立ち上がった。
朔夜の家って、どんなところだろう。彼の性格からして、とても散らかっていると予想される。だったら、積極的に掃除してやろうと考える。こんなふうに思うのは初めてだ。まだ十代ながらも、母性本能のようなものを感じてしまう。
朔夜、朔夜、朔夜ぁと心のうちで名を呼ぶ。胸のきゅんきゅんが止まらない。あるいは、私は彼のことを誤解しているのかもしれない。ひょっとしたら、ほんとうに冷たいだけの男なのかもしれない。それでもいいのだ。ほんとうにほんとうに、彼ほど好きな男性はいないのだから。
十二歳までサンタクロースを信じていた。だから、イブの夜はとても楽しみだった。その時の感情に似ている。とにかく待ち遠しい。
スマホってやっぱり便利だ。これが無かったら、彼と二度と通じることもなかった。現代のテクノロジーに感謝感謝。
私の人生に、大きな転機が訪れるような気がしていた。