30.これからの話
朝。新居のリビングで引っくり返って眠っていたところを、伊織からのコールで起こされた。呼び出しの連絡だった。指定された場所は、とある港。俺は今日も律義に黒いスーツをまとって表に出た。
訪れてみると、そう大きくはない桟橋の先端に伊織が立っていた。俺と同じく漆黒のスーツ姿。海のほうを眺めていて、こちらには背を向けている。一服つけているようだ。伊織の隣に並び、俺も煙草をくわえ、その切っ先に火を灯した。もちろん、アメスピのオーガニックミントライト。やっぱりこれでなくちゃいけない。
「後片づけは済んだ?」
「ああ。まるっと全部、終わらせてきた」
「少なからず、後ろ髪、引かれたでしょ?」
「少なからずじゃねーよ。大いに、だ」
俺の口元には苦笑いが浮かんだ。
そりゃそうだ。
苦々しい思いばかりしたのだから。
「でも、実際問題、アンタは三人の女を囲おうとしたんだよ?」
「囲うだなんて下品な言い方すんな」
「誰が一番、好きだった?」
「順番なんてつけられるかよ」
「モテる男はつらいね」
「黙れってんだ」
ホント、黙れってんだ。
みんなみんな、愛おしかったんだから。
「ともあれ、これで重石はなくなったわけだ」
「そういうこった」
「すっきりした?」
「したよ。てか、ひょっとしたら、おまえにアドバイスっつーか、背中を突き飛ばしてもらえなけりゃ、切るに切れなかったかもしれねーな」
「へぇ。しおらしいことを言うじゃない」
「そんな俺もいるんだよ」
その点、感謝はしている。
俺はやっぱ、自分にやれる仕事を続けたいから。
「今の立場を捨てるっていう手もあったと思うけど?」
「馬鹿言え。今さら抜けられるわけがねーだろうが」
「覚悟はあるんだね」
「ああ。これからも阿呆どもを片っ端からぶっ潰してやんよ」
「わかったでしょ?」
「なにがだ?」
「もはや、アンタが愛していい女は、私しかいないんだよ」
伊織が左手を伸ばしてきて、俺の後頭部をがしがしと掻いた。
その乱暴さが、なぜだろう、俺は嫌いじゃない。
「なあ、おまえ」
「なに?」
「そう言うならよ、俺がヤらせろっつったら、ヤらせてくれんのか?」
「あんたに力尽くで来られて敵う女がいるわけないでしょ」
「かもしんねーけど、おまえの場合、俺が襲ったら、ソッコーでこめかみに鉄砲押し当ててくっだろ?」
「まあ、私は安い女じゃないからね。安っぽく見られがちだけど」
「神崎に抱かれてる時は、よかったのか?」
「そりゃあね。悪くなかった。愛してたし」
「過去形にしちまっていいのかよ」
「もしさ、もしだよ? 彼が私の前に現れて、私が彼になびくような真似をした場合、その時はあんたが私を殺してよ」
「それでかまわねーのか?」
伊織は遠い目をするようにして、口元には穏やかな笑みを浮かべている。
自嘲的にも映る表情だった。
「不倫してた時は、女房から引っぺがしてやるくらいのつもりでいた。でも結局、私は選ばれなかった」
「奴さんをゆるせねーってか」
「そうじゃない。ただ、自分はみっともなかったな、って」
「俺はべつに、おまえのことを否定しようとは思ってねーよ」
「ん? どうして?」
「男と女の話だからだよ。そこにゃあ、なにがあっても、おかしかねーだろ」
「そう?」
「そうだよ」
パーラメントをぷっと吹いて捨てた伊織。
ルージュのついたパーラメントは水面に浮いたのち、柔らかな波にさらわれた。
「そんなふうに言ってくれるアンタのことが、私は好きだな」
「気色の悪いこと言ってんじゃねーよ」
伊織が両手を突き上げ伸びをしたので、俺も真似してみた。
「私はもう、あんたのことを愛しちゃってるのかもしれない」
「かわいい後輩だからか?」
「そうじゃなくて、それこそ、男と女の話」
「けっ」
「あんたさ」
「なんだよ」
「もうどれくらい、女を抱いてないの?」
「マジな話か?」
「マジな話」
「三年か四年か、そんくらいだ」
「私が男に抱かれてない期間は、もっとだね」
「お互い、寂しい人生だな」
俺が苦笑すると、伊織は心底おかしそうに笑った。
俺の背中をバシバシと叩いてきた。
「よし、決めた」
「なにをだよ」
「ヤろう」
「あん?」
「ホテルに行こう」
「ああん?」
「クールなバディってのが世の定説であるように思うけれど、セックスしまくる相棒同士がいてもバチは当たらないでしょ」
「本気で言ってんのか?」
伊織が前に首をもたげた。
苦笑いを浮かべている。
左の瞳から、一粒だけ、涙がこぼれ落ちたようにも見えた。
「汚してよ」
「汚す?」
「そう。アンタが私を汚してよ」
「神崎の匂いを忘れてーのか?」
「そういうこと」
「おまえのこと、女として見たことねーんだけど?」
「これからは女として見な」
「今から始めても、終わるの、明日の朝になるぜ」
「わお。スゴいね」
「ぶっ壊すつもりでヤってやっからな」
「任せなよ。全部、受け止めて、受け容れてあげるから」