3.お隣さん
最寄りの駅までスイフトスポーツで送ってもらい、残りは歩いて自宅のマンションまで戻った。
リビングで服を脱いで、早速シャワーを浴びに浴室へ。
立ったままシャンプーを使う。以前は伸びっぱなしのぼさぼさ頭だったのだけれど、あるとき、伊織に無理やり美容室に連れていかれ、不本意ながらもそこで整髪されることとになった。重めのマッシュにニュアンスパーマというらしい。以来、同じ髪型で通している。ゴツい俺には似合わないチャラいヘアスタイルだと個人的には思っている。でも、特にスタイリングしなくてもそれなりにこざっぱりとして見えるので、だからまあいいかと割り切ることに決めた。
脱衣所にてバスタオルで身体を拭いている最中にインターホンが鳴った。こんな時間にどなた様のご来訪だろうと思いつつ、腰にタオルを巻きつけ、玄関の戸を開けた。
すると、「きゃっ」という短い悲鳴。
お隣の橋本さんだった。少し年上であろうくらいの女性だ。下の名前は紫苑さん。じつにまことに怖ろしいまでに美しい名前だ。柔らかなウェーブがかかった黒髪に、ことのほか細い体つき。はっきり言って、物凄く好みのタイプだ。なんというか、こんな表現は失礼に違いないのだろうが、少し枯れた感に途方もない魅力を感じてしまうのだ。正直、見るたびに勃つ……っつったらサイテーだろうな。
黄色いエプロン姿の橋本さんは、両手で顔を覆ったままでいる。
「あの、その、本庄さん、その……」
「すみませんッス。すぐに服、着てくるッスから」
「ぜひとも、そうなさってください」
「了解ッス」
寝室に置いてある収納ケースから取り出したボクサーパンツとハーフパンツをはき、上はTシャツを着た。それから玄関に戻ってドアを開けると、橋本さんは、ほっとしたような表情を浮かべた。
「すみません。こんな夜遅くに」
「いいッスよ。それで、なんのご用スか?」
「あの、その……」
口籠る橋本さんを押し退けて顔を覗かせた外野、それは彼女の息子の元英だ。小学三年生のガキんちょのくせして遅寝もいいところだ。こちらが「早く寝ちまえ」という前に、「よぉ、朔夜、今日も元気か?」とかクソ生意気な口を利いてきた。すかさず、橋本さんが「元英、こ、こらっ」と窘めた。「あなたはほんとうにいつもいつも偉そうなことを言って」と自らの子に注意し、こちらに向かって申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、すみません。いつもウチのコが失礼をしてすみません」
「かまわないッスよ。そんなことより、ホント、なんの用事スか?」
「あっ、はい、その、じつは肉じゃがを作りすぎちゃって……」
「肉じゃが?」
「はい。肉じゃがです……」
「母ちゃん、隠してどうすんだよ。嘘つくなよ。ちゃんと正直に言えよ。朔夜のために多めに作ったんだって」
「だ、だから、こら、元英っ」
「なあなあ、来いよ、朔夜。母ちゃんの肉じゃが、メチャクチャ美味いんだぜ? 知ってるだろ?」
よく知っている。肉じゃがに限らず、橋本さんが料理上手であることもとてもよく知っている。これまで何度差し入れをもらったことか。そのたび舌鼓を打ったものだ。
橋本さんはやっぱり申し訳なさそうな顔をしながら、こちらを見上げてきた。
「あの、よろしければ、その……」
「えっと、いや、でも、悪いスから」
「そんなこと、ないです……」
そのとき、俺の腹の虫がジャストタイミングでぐぅと音を立てた。その途端、元英が「ぎゃははっ」と笑った。
「なんだよ、朔夜。おまえ、腹へってんじゃんかよ」
「うるせーよ、馬鹿。大人同士の付き合いには礼儀ってもんが必要なんだよ」
「えー、いいじゃーん。来いよ、来いよ。おまえにメシ食ってもらえると、母ちゃん、メッチャ喜ぶんだぜ?」
「だ、だから、元英っ」
確かに空腹は感じている。でも、帰りの途中、コンビニで弁当を買ってきた。そうでなくたって、ここ最近、橋本さんにはなにかと世話になりっぱなしであるように思う。そのことを悪いと感じるくらいの常識は俺自身、持ち合わせているつもりだ。だけど、しとやか極まりない橋本さんに、「いかがですか……?」とか「食べていただけませんか……?」とか、いじらしく言われてしまうと、断るなんて真似は不可能だ。コンビニ弁当くらい余裕で廃棄できる。
「ごちそうになりますッス」
「いいんですか?」
「はいッス」
橋本さんは「よかったです」と言って、満面の笑みをこしらえて見せた。「ほら、とっとと来いよ、朔夜」と手を引っ張るのは元英だ。かくして二人の部屋にお邪魔することになった。
ダイニングテーブルに通され、背もたれがついた木の椅子に腰を下ろすと、正面に座った元英が身を乗り出してきた。「スゲーっ、やっぱ超スゲーっ」などと言いながら、俺の右の二の腕にべたべたべたべたと触れてくる。
「朔夜の腕、やっぱスゲーよ。ハンパねーよ。なんだよ、この太さ。丸太かよ。カッコよすぎるっての」
「最近は頼りねー男のほうがモテるみたいだぜぇ」
「そんなの馬鹿女のセリフだよ。細マッチョとか、ホント馬鹿みてー。ゴツくなけりゃ男じゃねーだろっての」
「相も変わらず達者な口だ」
「普段はメシ、なに食ってんだよ。例えば、今日の昼飯とか」
「蕎麦食って、プロテイン飲んだな」
「そっか。やっぱプロテインとか飲むのか」
「普段はあんま飲まねーけどな。つーか、ガキにゃオススメできねーぞぉ」
あまりに「飲みたい飲みたい飲んでみたい」と言うものだから、「じゃあ今度ごちそうしてやるよ」と約束した。ガキなんざ一口飲んだだけで飽きるだろう。プロテインってのは、そういうものだ。
「ってかさ」
「あん?」
「朔夜ってなんの仕事やってんだよ。ずっと訊きそびれちまってた」
「警察官みてーなもんだ。ちょっと違ってるけどな」
「でも、公務員だってことか?」
「ああ」
「給料は?」
「悪くねーよ」
「スゲーじゃん」
「スゴくはねーな」
元英がキッチンのほうを向いて、「母ちゃーん」と声を発した。「朔夜は公務員なんだってさー。給料も悪くないんだってさーっ」と言い、「朔夜と結婚すれば安定だぜー」とか抜かした。するとキッチンにいる橋本さんが、「こ、こら、元英っ」と例によって窘めた。
「あんまり本庄さんを困らせないのっ」
「困ってんのかよ、朔夜」
「別に困っちゃいねーよ」
「だってさー、母ちゃん」
「もう、ホントに、元英ってば、もうっ」
地団太を踏まんばかりの橋本さんの口振りである。清楚で可憐。かわいいというか、愛おしい。やっぱり果てしなく好みなんだよなあと思う。一度でいいからヤってみたい。乱れるところを見てみたい。だがしかし、それはゲスの考えというもの。セックスというストレートな単語と彼女を結びつけるなんてあってはならないことなのだ。
橋本さんが食卓に肉じゃがとサラダと白飯、それに、ちくわとかまぼこを並べてくれた。彼女は元英の隣の席につくと、「ちくわとかまぼこは、取り合わせとしてはイマイチかもしれませんけれど」と言い、眉尻を下げて微笑んだ。全然、イマイチな取り合わせではないと俺は思う。
「これ、いいちくわとかまぼこッスよね?」
「わかりますか?」
「まあ、見た目でなんとなく」
「実家から送られてきたんです」
「ご実家はどちらなんスか?」
「長崎です」
「へぇ。その割には、まるっきり訛りがないッスね」
「こっちでの暮らしも、もう長いですから」
ふと、橋本さんが苦笑じみた表情を浮かべた。なにについて考えを巡らせているのだろうと思考した末、ひょっとしたら前の旦那のこと、あるいはそいつと暮らした日々を思い出しているのかもしれないという結論に至った。だから素直に、「なんか、すみませんッス」と謝罪した。
「えっ?」
「いえ。嫌なことを思い出させちゃったかな、って」
「そんなことありません。考えすぎですよ」
「そうスか?」
「はい」
「では、えっと、いただきますッス」
「お口に合えばいいんですけれど」
橋本さんはそう謙遜したけれど、じゃがいもはほくほくしていて美味い。変なくどさがない。出汁もイイ感じだ。香り高い。ちくわもかまぼこも実にイケている。サラダのフレンチドレッシングはノンオイルっぽい。健康志向なのだろうか。きっとそうなのだろう。
そもそも、どうして橋本さんと、それなりに仲良くさせてもらうことになったんだっけと思い返す。俺はもうこのマンションに二年間住んでいる。一年ほど前に彼女と元英が越してきた。最初はエントランスや通路で出くわすたび、会釈をする程度の間柄だった。要するにただのお隣さん同士でしかなかったということだ。
ああ、そうだったなと思い出した。
ユニクロで服を買って電車に乗り、最寄りの駅に着いた途端、雨に降られ、近所のコンビニで傘を買おうか、それとも走って濡れて帰ろうかと迷っていた最中に、後ろから橋本さんに声を掛けられたのだ。
「一緒に入っていきませんか?」
にこやかな表情で、優しい口調だった。折り畳みの小さな傘だったので、身を寄せ合うようにして歩いた。変態的な話かもしれないけれど、彼女がまとっていたほどよく甘いコロンの香りは今でもよく覚えている。久々に女の匂いを嗅いだようにも思えたものだ。そのときはすでに、毎日、伊織と一緒にいたのだけれど、アイツは別だ。キツい性格で喧嘩もえらく達者な奴さんを女として扱うのは無理がある。
夕食をまるっとたいらげ、「ごちそうさまでしたッス」と手を合わせた。「ありがとうございましたッス」と頭も下げておいた。すると、橋本さんは「おそまつさまでした」と言って、やはりにっこり笑うのだ。
「これだけ綺麗に食べていただけると、とても気持ちがいいですし、嬉しいです」
「今更ですけど、橋本さんって、なにを作らせても上手ッスよね」
「中学生の頃からかしら。料理が趣味になったんです。私、ぶきっちょなので、最初はしょっちゅう失敗しましたけれど」
「旦那さんだった男は幸せ者ですね」
そう言ったところで、あちゃあ、と思った。ここに来てついに失言を放ってしまった。伊織から「脳味噌まで筋肉でできちゃってるんじゃないの?」と馬鹿にされることがしばしばあるのだが、実際、そうなのかもしれないと思わざるを得なかった。
橋本さんは苦笑いのような笑みを浮かべた。大きく舌を打ったのは元英である。「死んじまえばいいんだ、あんなヤツ……」と忌々しげに言った。「俺と母ちゃんを捨てて、他の女と一緒になったんだから……」と続けた。途端、彼女は目を見開いたのだった。
「元英、貴方、どうしてそのことを知って――」
「二人が話してるの、盗み聞きしたんだよ。あいつ、毎晩、帰りが遅かったし、毎晩、母ちゃん、泣いてたし……。絶対になにかあるんだろうなって思ってたんだ」
ったく、とんだマセガキだ。でもまあ、二人の子供だからこそ、気になったんだろうな。親父とおふくろの仲が、気になっちまったんだろうな。
「今でもときどき、考えるんです。私のなにが至らなかったのかな、って……」
「至らなかったところなんて、なかったんじゃないスかね」
「だったら、どうして私は愛してもらえなかったのでしょうか……」
「だから母ちゃん、それはあいつが――」
「黙ってろよ、元英」
「なんでだよ」
「いいから、黙ってろ」
「……ちぇっ」
「俺なんかは、橋本さんの前の旦那って、今頃、きっと後悔してるんじゃないかなって思うんスけどね」
「そうでしょうか……」
「ええ。橋本さんより、いい女房なんていないと思うッス」
「お優しいんですね、本庄さんは」
「本音っつーか、本心を言ったまでッスよ」
苦笑いをぶつけ合った。
「なあ、朔夜。そこまで言ってくれるんだったらさ、やっぱ母ちゃんのこと、もらってやってくれよ」
「も、元英、こらっ」
「えー、いいじゃんよー。朔夜とならキャッチボールもできるし。あいつなんて運動神経ゼロだから、まともにボールも投げられなかったんだぜ?」
「気持ちはわかっけど、自分の親父をあいつ呼ばわりするのは感心しねーな」
「アイツはアイツでしかねーじゃんよ」
「つっても、実はおまえに会いたがってるのかもしれねーぜ?」
元英は口籠り、俯いた。「……俺は会わねーぞ」と呟く。絞り出すようにして「……会ってやったりするもんか」とも言った。
俺は右手を伸ばして、元英の頭を乱暴にくしゃくしゃと撫でてやった。ガキに優しくしてやるなんて、まったくらしくないなと思いながら。
失礼するとき、二人は見送ってくれた。
「またいらしてくださいね」
「そうだよ。また来いよな」
などと言われてしまった。まあ、ありがたい話ではある。そうでなくとも、再び二人から誘われるようなことがあれば、断り切れないだろう。
寝室に入りベッドの端に腰掛け、サイドテーブルに置いてあるジョニ黒に手を伸ばした。飲むのはやめておいた。実に美味かった肉じゃががおさまっている腹の中に、アルコールを流し込むのは勿体無いと思ったからだ。