29.最後の最後で抱き締めた
自宅のリビングで仰向けに引っくり返っていた。ポールハンガーは上等でもないので置いていく。ベッドもマットレスがへたってきていたから置いていく。家電も買い替えの時期だと踏んで置いていく。ノートPCは大事なところを叩き潰した上で廃品回収に出した。衣類の配送だけクロネコさんに頼んだ。ものは大切に長く使おう。元よりそういった気質は持ち合わせていない。必要なものは、また見繕えばいい。
なんだかんだで、この部屋で二年も過ごした。それなりに気に入っていた。広さよりも狭さがちょうどいい具合だった。
ぶっちゃけ、刑事になった時から伴侶を持つつもりはなかったのだ。自分の身が危険に晒される可能性がある以上、自らの家族に手が及ぶことも考えなかったわけではないから。俺に本気で怨みを抱くニンゲンがいたとすれば、そいつは必ず、俺の周りのニンゲンも狙ってくる。そう考えていたから。
親父とおふくろにはとっくに謝ってある。俺のせいでどこぞの誰かから狙われ、最悪、殺されるようなことになっても、そのときは諦めて、受け容れてくれって。親父は「おまえが好きなようにやりゃええんや」と言ってくれた。おふくろは「大げさやなあ、アンタは。がんばってきぃや」とだけ言って送り出してくれた。そうだったな。関西弁で言ってくれたんだったなと思い出す。そういえば、俺が方言で話すことをやめたのはいつからだっけ。いつから標準語を使うようになったんだっけ。そんな契機なんて覚えちゃいない。
失うものがなにもないっていうのは、案外、悲しいことかもしれない。だけど反面、ありがたいことなのかもしれない。そんなふうに思う。俺は自由だ。とにかく自由だ。自分の生きる道は自分で決められる。誰にも前後にも左右にも上下にも振り回されない。今いるところに、立場に、居場所に、留まることができる。そうあることは、俺が望んでいることだ。
弱いニンゲンを救いたい。
そんな強い思いが、俺を刑事にさせたきっかけだった。だけど、そんな綺麗事を抜かすつもりは、もうない。俺は俺自身が気に食わない奴を叩き潰すだけだ。そこに異議を唱える野郎がいたら、俺はそいつのことを容赦なくぶちのめすだろう。その上で、ソイツに問うことだろう。だったら、テメーの考え方を述べてみろ、って。テメーの信念をほざいてみろ、って。
俺は曲げないし、曲がらない。それだけはたしかだ。そんな美学に文句があるなら、とっとと突っかかってこいってんだ。論破はできねーかもしんねーよ? だけど、うるせーよって殴りつけてやることはできる。口だけ達者な輩は、この世界にうじゃうじゃいるように思う。口は物を言うためにある。だけど、どれだけ雄弁であろうと、拳の前では無力だ。あるいはそれは暴力と定義されるのかもしれない。だけど、いい。そうであっていい。殴って蹴ってぶっ壊す。そうあり続けることが自らの存在意義だすら考えている。いつだって肝心なのは頑ななまでに強固な行動力だ。
天井のオレンジ色の電灯を眺め、微笑んだ。信じるものがある限り、俺はたとえ生き恥を晒すようなことになっても、この先もやっていける。もし、本当に、仮にの話だ。俺がブレるようなことがあれば、そのときは誰かに簡単に殺してもらいたい。「おまえは間違った」と、ばっさり斬って捨ててもらいたい。「ここで死ね」と容赦なく断罪してもらいたい。俺はそれで後悔しない。そうでないほうが後悔するだろう。
よっこらせと身を起こした。立ち上がり、両手を突き上げ、うんと伸びをする。心のうちで部屋に礼を言う。今までありがとう、って。お世話になりました、って。
玄関を出て、エレベーターに乗り、速やかに階下へと進む。ホント、さようならだ。いろいろと、さようならだ。
――と、エントランスに出たところで、一番、会いたくなかった人物と出くわしてしまった。
橋本さんだ。
心の内側で「橋本さん」と呼んだことについて、苦笑いがこぼれた。結局、下の名前で呼ぶことはなかった。俺はそう呼びたかったのかな? それとも、呼び方なんて、どうでもよかったのかな?
橋本さんはにっこりと笑った。
「本庄さん、こんばんは」
「こんばんは。遅くまでの勤務、お疲れ様ッス」
「そんな。本庄さんに比べたら」
「俺は毎日、そんな大したことをしてるわけじゃないスから」
「これからお出かけですか?」
「ええ。そんなとこッス」
「お仕事ですか?」
「どうして、そう思うんスか?」
「だって、スーツを着ていらっしゃるから」
「ああ。そうか。なるほどッス」
女ってのはどうして勘がいいのか。
――違う。俺の想像力が乏しいのだ。
「今日も、その、あの綺麗なかたとご一緒に……?」
「今日は一人ッスよ」
「そうなんですか?」
「そうッスよ。なんか、安心したような顔ッスね」
「い、いえ。そんな」
俺の意地悪に対しても、彼女は愛らしいリアクションを寄越してくれる。
ほんとうに愛おしい。
「明日は何時頃、お帰りになりますか?」
「ちょっとまだわからないッス」
「そうですか……。あの、またと言ってはなんですけれど、食事を一緒にどうかなって……」
「恐縮ッス」
「いいんです。二人分を作るのも三人分を作るのも、変わりませんから」
「橋本さんはいつも優しいッスね」
「いえ、そんな……。というか、その……じつは本庄さんだから、毎日、作って待っているというかなんというか……。ああ、ごめんなさい。わ、私ったら、なにを言っているのかしら」
「ホント、いつもいつも、感謝してるッス」
「そう言っていただけると、本当に嬉しいです」
橋本さんは、またにっこりと笑った。
「それじゃあ、俺、もう行くッスね」
「はい。いってらっしゃい、お気をつけて」
エントランスから出ようとしたときのことだった。
「あの、本庄さんっ」
そう呼び止められた。
そうしないと決めていたのに、俺は振り返ってしまった。
「なんスか?」
「あの……」
「なんでも言ってやってくださいッス」
「じゃあ、その……」
「どうぞッス」
「あの、あなたはもう、ここには帰っていらっしゃらないんじゃありませんか……?」
まったく、勘がいい。
女って奴は総じてそういうものらしい。
「なんでそう考えるんスか?」
「あの、その、なんとなく……」
「いつか、帰ってこれたらなって思ってるッス」
「えっ、いつか?」
「ええ。いつかッス」
「やっぱり、どこかへ……?」
「転勤みたいなもんスよ」
「そんな……」
「元英の奴に、よろしく言っておいてくださいッス」
「だから、そんな、いきなり……」
俺は引き返す。
そして、がばっと橋本さんのことを抱きすくめた、強く、強く。
「本庄、さん……?」
「俺の最後のわがままです。少しのあいだでいいから、じっとしててください」
橋本さんはハンドバッグを落とし、しがみつくようにして抱きついてきた。
「最後って、どういうことなんですか?」
「最後は最後なんです。橋本さん」
「はい……?」
「大好きでした。あなたのこと、ほんとうに大好きでした」
「もう、もう過去形なんですか?」
「もっとなにかしてあげたかったんですけど、ごめんなさい。俺にはなにもできなかった」
「そんな……。あなたはたくさん、いろいろなものをくださいました。私がすべてを捧げてもいいと思うほどに……」
「だけど、ごめんなさい。もう二度と会うことはありません」
「そうなんですか……?」
「ええ」
「本当に、ひどい、ひどいです、本庄さん。私の胸に爪痕だけ残して……」
「傷はそのうち癒えます」
「癒えません」
「それでも、俺はあなたとバイバイしなくちゃ」
抱き締め合うのをやめると、橋本さんは、潤んだ瞳を向けてきた。対して、俺は笑ってみせた。
「サヨナラです」
そう告げると、橋本さんは両手で顔を覆ってしまった。俺はその手を解いて、彼女の頬に、そっとキスをした。ほんとうに、最後の最後のわがままだ。
そして、身を翻す。
もう二度と、振り返らなかった。