27.別れ
午前十時。電車にて目当ての市の総合病院へ。今までは見舞いのたびになにか喜んでもらえるようなみやげを持ってきていたのだけれど、今日はナシだ。だってその、俺はあのコに……。
病棟の三階にある個室へ。三度ノックし、引き戸を開けた瞬間、絵本であろう、それを読んでいたくるみちゃんがこちらを向いた。「おにいちゃんっ!」と明るい声を発して、まさに読書を放り出す。床に落ちてしまったし、それって本の扱い方としてはどうかと思うのだけれど、訪問を嬉しく思ってもらえることは、大げさな話でもなんでもなく、素直に嬉しい。
ベッドの脇でパイプ椅子に座っていた老夫婦が揃ってスペースを開けてくれた。彼らに対して小さく頭を垂れてみせ、俺はくるみちゃんのすぐ近くに立った。
「おにいちゃん、抱っこ!」
いつものようにそうせがまれ、彼女のことを、くるみちゃんのことを抱き上げた。相変わらず軽い。首筋からミルクのような甘い香りが漂ってくるのは、きっと子どもだからだ。
「腕はまだ痛むか?」
「たまに痛いけど、大丈夫!」
いまだ幻肢痛に悩まされているらしい。下唇を噛む。奴らがしでかしたことには腹が立ってしょうがない。この女のコから左腕を奪った連中を、俺は生涯、ゆるすことはないだろう。
「おにいちゃんからもらったリラックマ、大活躍してるんだよ?」
「大活躍?」
前に贈った巨大なリラックマは、ベッドに寝かされている。
「寂しくなったら、リラックマを抱き締めるの。そしたらおにいちゃんの匂いがするような気がして、とっても心が温かくなるんだよ? ぽかぽかするんだよ?」
「そうなのか」
「今度はコリラックマとキイロイトリが欲しーっ」
「こ、こら、くるみ」
そう言って、たしなめたのは老婆だ。くるみちゃんの父方の祖母だ。俺はそのおばあちゃんに向けて、右手を広げて見せた。いいんだ。いいんだ。なにを注文されたってかまわない。俺はこのコが明るい顔を見せてくれるなら、なんだって買ってやるし、なんだってしてやるつもりだ。だけど……。
「くるみちゃん」
「なあに?」
「あの、な? 突然でわりーんだけど……」
「うん。なあに?」
「今日はその……お別れを言いに来たんだ」
「お別れ?」
「うん。お別れだ」
「……どうして?」
低い声。
小さな子どもが発するからこそ、妙な迫力がある。
「それは、だな」
「おにいちゃん、どうして? どうしてそんな悲しいことを言うの?」
「だから、それは――」
「おにいちゃん、言ったよね? くるみが大きくなったら、くるみのことをお嫁さんにしてくれるって、言ったよね?」
「言ったな。言った。言ったけど……」
「くるみのこと、嫌いになったの? だったら、言って? 悪いところがあるなら、カイゼンするから」
カイゼン。
また難しい言葉が出てきたもんだ。
「カイゼンしなきゃいけないところなんてねーよ。今のまんまでずっといれば、絶対にイイ男が見つかるはずだ」
「左腕がないからダメなの? でも、おにいちゃん、言ったよ? くるみの左腕になってくれるって言ったよ?」
その言葉に嘘はないし、実際、そうしてやるつもりだった。まだまだ幼い純粋無垢な女のコが好いてくれることについても、心地のよさみたいなものを感じていた。俺はとにかく、くるみちゃんのことが、好きで、好きで……。だからこそ――。
「ねぇ、おにいちゃん、嘘だよね? お別れだなんて、嘘だよね?」
「嘘じゃねーんだわ」
「理由を教えて? その理由を教えて? ちゃんと教えて?」
「くるみちゃんのことがメチャクチャ大好きだから、俺はくるみちゃんから離れなくちゃならねーんだ」
「意味がわからないよ……」
「……ごめんな」
「コリラックマもキイロイトリもくれないの?」
「それは送る。ってか、贈る。必ず届けさせるから」
「おにいちゃんが持ってきてくれないの?」
「ああ。……もう会えねー」
「……下ろして」
「ん?」
「……ベッドに戻して」
「ああ。わかった」
くるみちゃんのことを、できるだけ丁寧にベッドに座らせてやった。
「おにいちゃんは嘘つきだったんだね……」
なんと言われようがしかたない。結果的にではあるけれど、俺はたしかに嘘をついた。
「おにいちゃんの、ばかあっ!」
くるみちゃんがそう叫んだ。リラックマのことを乱暴に突き落とし、涙があふれるのだろう、指で右の目をこする。左の目も一緒にこする。肘の先がない左腕で。
俺は俯き、また唇を噛んだ。
くるみちゃん、ごめん。ほんとうにごめん。だけど、してやれることはもうこれしかないんだ。本当に大切なヒトだから、遠ざけなくちゃいけないんだ。
『OF』のサムさんとやらは宣言してくれた。「一度途絶えた関係に影響を及ぼすつもりはない」って。百パーセント真に受けるわけにはいかないけれど、その約束を信じるしかない。信じることしかできない。だから俺は、今ある人間関係を清算する必要があるわけで。万一のことを考慮して、自分と繋がりがあるヒトとはサヨナラしないといけないわけで。大事なニンゲンを人質にとられたり、あるいは傷つけられるようなことはまっぴら御免だ。もう二度と他人に迷惑をかけるわけにはいかない。
くるみちゃんが怖い目で見上げてくる。涙をぽろぽろと零しながら。
「もう行って! 二度と顔なんて見せないでっ!」
そうだよな。嘘つきはゆるせねーよな。
「おにいちゃんなんて、だいっきらい!」
うん。それでいい。俺のことなんか、ソッコーで忘れて欲しい。
「もう出てって。出ていって!」
わかった。そうするよ。
俺は壁際に立っている老夫婦に深々とお辞儀をし、そして退室した。
「おにいちゃんの、ばかああああっ!」
廊下をゆく最中、もう一度、そんな叫ぶような声が聞こえた。