24.――クサナギ
くるみちゃんが一般病棟に移ってから、何度も見舞いに訪れている。今日も伊織に車をつけさせて病室に足を運んだ。通路を歩いている俺が胸に抱いているのは、特大のリラックマのぬいぐるみだ。
「俺が助けてやったんだぜ?」
なんて偉そうなことをのたまってはいない。でも、くるみちゃんは俺の顔を覚えていたみたいで、俺がしてやったことについても理解したみたいで。強いコだなって思う。本当に強いコだ。
個室だ。俺が顔を覗かせると、「おにいちゃんっ!」と、くるみちゃんは声を弾ませた。さっそくリラックマを抱かせてやる。
「わあ、すごーい。おっきい。これ、どうしたの?」
「プレゼントだよ」
「くれるの?」
「ああ」
「ありがとうっ! たいせつにするねっ!」
まぶしいばかりの笑顔を見るたび、来てよかったなと思う。訪ねたかいがあったなって思う。
くるみちゃんは「おにいちゃん、抱っこ!」と、せがんでくる。お望み通り抱き上げてやる。首に唇をすりつけられるとくすぐったい。「大好きっ、おにいちゃんっ!」と言われると、心の内までくすぐったくなる。どうしようもなく湧き上がってくる感情だ、そんなこと、どうしたって。
パパもママも死んでしまったから、くるみちゃんの面倒は父方の祖父母が見ることになったらしい。二人はこちらが訪ねるたび、申し訳なさそうにする。そんな顔、しなくたっていいのに。俺が来たくて来てるんだから。
「もうどこも痛くねーか?」
「今は痛くないよ? でもね? ときどき痛いの」
「左腕か?」
「うん。そう」
くるみちゃんの左の前腕は爆発で吹き飛ばされ、失われた。それでも痛いっていうのは、まだそこに腕があると脳が認識しているからだろう。幻肢痛というやつだ。いたたまれなくなる。なぜ、どうして、こんな幼子が、そんなものに苛まれなければいけないのか。唇を噛みたくもなる。手を下した奴らを恨みたくもなる。殺してやりたくもなる。
「ねぇ、おにいちゃん」
「ん?」
「くるみ、考えたの。将来、おにいちゃんのお嫁さんにしてもらおうって」
「お嫁さんか」
「ダメ?」
「いいよ。くるみちゃんがなってくれるってんなら、メッチャ嬉しい」
「ホント?」
「ああ」
「でもね? くるみは片方しか腕がないから、きっとお料理も上手にできないの……」
「んなもん、気にしねーよ」
「ホント?」
「ああ。手伝うから、なんでも一緒にやろーぜ。俺がくるみちゃんの左腕になってやんよ」
「嬉しいっ! ありがとうっ!」
「どういたしまして」
駐車場に戻って助手席に乗り込むと、「くるみちゃんのお見舞いに足しげく通う。感心しないね」と伊織に言われた。「うるせーよ」と返すと、「黙れ」と返された。以前と比べて、俺達の付き合いは、よりさばさばとしたものになったように感じている。
「だいたいよ、もう迎えにくんなよな」
「私が神崎と連絡を取り合っていないか、あんたにはそれをチェックする義務がある。違う?」
「違わねーよ」
「好きなだけ調べたてみたらいいよ。私は潔白だから」
「今は通じないだけ。俺はそういうことだと思ってるけどな」
「男と女の関係なんて、すぐにぶっ壊れるもんだよ」
「だけど案外、すぐにまた、くっつきやがるんだ」
「あら、そ」
伊織が車を出した。
やがてインターを上がって、高速に乗った。
「ホント、疑われるようなことなんて、なにもしてないんだけどね」
「それでも、神崎につながる線は、おまえしかねーんだ」
「それ、あくまでもボスの言い分でしょ?」
「だけど、手段としては正しいだろ」
「どうして?」
「最も直接的で、最も手っ取り早いからだ」
「ボスの言いなりってわけ? さんざんスタンドプレーを繰り返してきたくせに」
「俺達は組織のニンゲンなんだ。それは肝に銘じてる。そこんところが理解できないってんなら、おまえのほうから辞めちまえ」
「そもそも、思うんだけど」
「あん?」
「ボスは今、神崎を捕らえたいがためだけに、私を雇っているのかな」
「そうだな。目の届くところに置いといて、泳がせてるだけなのかもな」
「だとしたら、私は舐められてるってわけだ」
「口ではなんとでもほざけんだよ」
「そこまで言うなら、アンタを四六時中、私のそばに置いてやったっていい」
「置いてやったっていいっていう上から目線がムカつくな。だから、もう黙れよ。ウゼーやり取りなんざ、うんざりだ」
俺のスマホが鳴ったのはその時だった。通話の通知だ。誰からかと思ってディスプレイに目をやると、相手は後藤さんだった。俺にかけてくるなんて珍しいなと思いながら、電話に出た。
「もしもし?」
『やあ、朔夜くん。こんにちは』
「ええ、こんちわッス。なんの用スか?」
『きみが対応すべき事案が発生した』
「なんスか、いきなり」
『与党現幹事長、クサナギ・ダイスケ議員の娘がさらわれた』
ホント、なんの話だ?
俺は眉間に皺を寄せて難しい顔をする。
「それがなんだっつーんスか?」
『クサナギって言ってもわからないのかい?』
「わからないッスね」
『だったら、娘さんの名前はリサちゃんだって言ったらわかるかい?』
リサ?
りさ?
まさか、理沙っ!?
「ちょ、ちょっと待ってください。どういうことッスか? ってか、アイツ、与党幹事長の娘だったんスか?」
『朔夜くん、きみねぇ、そのくらいは把握しておいてよ」
「さらわれたって、どういうことッスか?」
『またもや『OF』だよ。『オープン・ファイア』だ』
「身代金でも要求されてるんスか?」
『幹事長当人によると、クサナギ家に直接連絡があったそうでね。指定された場所があって、そこにきみを寄越せとだけ言ってきたらしい』
「俺を?」
『きみは少なからず彼女と縁があるんだろう?』
「それは……」
『どういう関係だとは問わない。だけど、それなりに親密であろうことは察している。察するより他にない』
目の前がくらくらした。どうして理沙がさらわれなくちゃなんねーんだ? でもって、俺が呼び出されてるってのは、どういうことなんだ?
『『OF』の連中は、『治安会』の存在も、構成員のことも知っている』
「俺を知ってるってことは、そういうことになるッスよね」
『恐らくだけど、ウチの中に内通者がいる。洗い出しを急いでいるところだ』
「影響範囲はどれくらいッスか?」
『住所、加えて面まで割れていると判断するしかない』
「そんな危なっかしい状況なんスか?」
『うん。気がついたらそうなっていた』
「のんきなセリフに聞こえるッスけど……。それで?」
『うん。僕が言いたいのは、『OF』が特に興味を持っているのは、恐らくきみや伊織さんをはじめとする、いわゆる『実行部隊』についてじゃないのかなってことだ』
「そうなんスか?」
『そう考えるのがフツウだよ。フロントマンがいなくなると、バンドだってテイを成さなくなる』
思わず鼻を鳴らしてしまった。
そのとおりだなと感じたからだ。
「俺の暮らしは、とっくの昔から『OF』の監視下にあったってことッスね」
『もはや言わずもがな、百パーセント、そうだろう。だから、住むところは変えてもらわないとね、という話は後回しにするとして』
「もうなにも言われなくてもわかるッスよ」
『それでも釘くらいは刺しておこう。連中は言わば、朔夜くんの弱点を突いてきたんだよ。理沙ちゃんがさらわれる。それはきみにとって捨て置けない事実だろう?』
俺の口元には苦笑が浮かび、思わず「ははっ」とすら笑ってしまった。
「反論のしようがないッス」
『いらついているようだね』
「そりゃもう」
『以前、強姦未遂事件だったかな? それをきっかけに君と理沙ちゃんに接点が生じたことは知ってるけど、その後もどうして懇意にしていたんだい?』
「そいつはまあ、いろいろありまして」
『まあ、経緯や現状を掴んだところで、意味なんてないね。まったく、やれやれだよ、朔夜くん。ある意味、サイアクでサイテーだ』
「やることはやるッスよ」
『そんなの当たり前だ』
強い口調でそう言うと、後藤さんは現場の住所を教えてきた。ナビに入力。住宅街にある大きな屋敷だ。わかりやすい場所だ。なぜ、そんなところで人質事件なんて起こすのか。
『きみの落ち度だ。やむを得ない。先方のご希望通り、一人で向かいなさい。人質の命が最優先だ』
「だから、わかってるッス。うるさいッスよ」
『おや。僕は君の上司なんだけどね』
「うるさいもんはうるさいんス」
『期待しているよ』
通話を切った。
「朔夜、なに? のっぴきならない状況だってことは、十二分に伝わってきたけど」
「うるせー。どっかの駅で下ろせ」
「ナビ通りに進めばいいんじゃないの?」
「そうもいかねーんだよ」
「ついていくのも、やぶさかじゃない」
「黙れよ。おまえは永遠に神崎と不倫でもしてろ」
伊織がこっちを見て、目をぱちくりさせた。自分は嫌というほど、頭に血が上っている。取り乱してもいる。それが理解できたからこそ、小さく俯き、頭をがしがしと掻きながら、俺は舌を打った。己の態度にしかめ面をしたくなった。神崎なんて男も、不倫なんて言葉も、いま、持ち出すことはお門違い極まりない。みっともないことを言ってしまったものだと思う。
「とにかく、どっかで降ろしてくれ。俺が一人でやんなくちゃなんねー仕事なんだ」
「だから、それってなに?」
「いいから、言うこと聞いてくれっつの」
「全部終わったら話してくれる?」
「ああ」
「生きて帰れたらな」という言葉は飲み込んだ。