20.馬鹿なあいつ
両膝を折ってしゃがみ込み、私は長い前髪を掻き上げた。一目散に駆けていった朔夜の姿は、もう見えない。パーラメントに火をつける。紫煙を燻らす。舌打ちしたくなるほど、ひどくまずい。この一本だけ葉っぱが全部変わってしまったのではないのかと思うくらいだけれど、そんなわけはないだろう。
クボクラは「愚かなヒトですね。馬鹿とも言える」と述べ、「『治安会』の方々は、みなさんやり手でドライだとうかがっていましたが」と続けた。
「基本的にはそうだよ。でも、そうじゃないニンゲンもいる。その代表があいつってとこかな」
「お見受けするところ、あなたは彼の上司なのでは?」
私は頬を緩め、ふっと笑った。
上司? 上司かな?
……いや、違うな。
「上司じゃない。ただ先輩ってだけ」
「ですが、同僚であるわけです。ならば、体を張ってでも止めるべき立場ではないのですか?」
「そこまで仲がいいってわけでもないんだよ」
「じつに愚かしい話だ。要救助者はいるかもしれない。だが、さらに被害が出てしまっては目も当てられない」
そりゃそうだ。
クボクラの言うことはいちいち正しい。
――でも。
「クボクラさん、あいつはね、弱いニンゲンを守りたいから刑事になったらしいんだ。世のためヒトのために、やれることをやろうと考えたんだよ」
「ほぅ。元は刑事なんですか。軍上がりの方ばかりだと思っていましたが」
「イレギュラーなんだよ。阿呆すぎるくらい阿呆で、とことんニンゲンくさい。そんな奴がいないと組織は完成しないっていうのが、ウチのボスのご意向でね」
「よくわからない理屈ですね」
「ホント、私にもよくわからない」
まだ長い煙草を指で弾くようにしてピッと地面に捨てた。火種が残ったままなので、ぷすぷすと燻ぶっている。
「とはいえ、だ。どうしてかな。どうしてあいつは、なんの関わり合いもないニンゲンのために、なりふりかまわず危険に身を投じることができるんだろう」
「根本的なところで、性善説でも信じていらっしゃるのでは?」
「そうかもね。うん。きっとそうなんだと思う」
私の口元には苦笑が浮かぶ。
「どうあれ大切かつ貴重な人材なんでしょう?」クボクラの表情はまさに能面で。「であれば、やはりあなたも飛び込んで、無理やりにでも連れ帰るべきだと考えますが?」
私はクックと喉を鳴らした。
「だから、そんな真似はしない。だって、私は賢いから」
「軍ではどのようなお仕事を?」
「携わったのはPKOにPKF。主だった任務としてはそんなところ。ぬるく聞こえるかもだけど、それでも危ない目に見舞われなかったわけじゃない。夜中、野営地に迫撃砲を何発も撃ち込まれたこともあったし、中東では捕らわれた仲間が拷問の挙句に惨殺されたなんてこともあった。そして、危険度の高い任務ほど、高給が支払われた。だけど、私からすると、給料なんてどうでもよくってね」
「というと?」
「命の危機に晒されることを楽しんでいたの。そうあることで、生きているって実感したかったの」
「それは貴女の先ほどの発言と矛盾している。貴女は賢いのでは?」
「そうだよ。その点が、ある意味、ちょっと情けない。いつから私はお利口さんになっちゃったんだろうね」
「そうあるべきことに、どこかのタイミングで気づかれたからでしょう?」
「私には失うものなんてなにもない。欲しいものも、もうなにもない」
「もうなにもないということは、以前はあったんですか?」
「公安さんは言葉尻をとらえるのが上手だね。軍にいた時の背広組と一緒だ」
「相手を言いくるめる。それも一つの仕事ですから」
クボクラは笑い、私も笑った。
「やっぱり、エリートなわけ?」
「そう言われるようなレールにのっているつもりです」
「アンタはなにがしたいの?」
「それは問題ではない。理想の話です」
「だったら、なにが理想なの?」
「この世には悪など必要がない」
「教科書通りのお答えだこと」
「いけませんか?」
「いけないなんてことはない」
クボクラがスーパーのほうを見やった。とても冷めた目をしている。エリート、かくあるべきだ。いざとなった時、彼には自らの手を汚す覚悟があるのだろうか。否。あるわけがない。たとえば部下の不始末を庇うような真似はしないだろう。使えないと判断したら問答無用で切り捨てるはずだ。そんな彼のことを哀れだとすら思う。信頼するに値する仲間がいないと、仕事をやっていても、まったく楽しかったり面白かったりすることはないのだから。
あらためてそのことに気づかされ、あらためてそんなことを考えさせられるなんて、らしくないなと思って苦笑を浮かべつつ、私はまた前髪を掻き上げた。ホント、らしくない。まったくもって、らしくない。どうした、伊織さん。あんたはいま、なにをどうしたい?
「あのさ、クボクラさん。あんたに一つだけ言っとくよ」
「なんでしょうか」
「あいつのことを馬鹿だの愚かだの言うアンタのことが、私は大嫌い」
「おや。貴女自身も、彼を蔑むような発言をなさったように思いますが?」
「自分で言う分にはいい。けど、他人に言われるとメチャクチャ腹が立つ」
「私にはわからない感覚ですね」
「だからこそ、アンタにはなにを言う権利もないんだよ。これ以上、舐めた口を利くんじゃないよ。次になにかふざけたこと抜かしたら、ぶつからね」
「わかりました。心得ておきましょう」