2.アメスピとパーラメント
表通りに、俺は戻った。ハザードをつけて端に停車している黄色いスイフトスポーツの助手席に乗り込む。煙草の匂い。パーラメント。運転席に座っているのは浅黒い肌をした黒髪の女。漆黒のパンツスーツ姿。名は泉伊織という。グングニルとでも呼ぶべき恐ろしくデカいパイオツに抜群のくびれ、加えて最上級のプリケツを誇る女だが、俺はこの女に欲情したことがない。怖ろしい話だ。俺のアレはおしゃかになってしまったのだろうか。ともあれとにかく単なる仕事上の仲間だというだけだ。
伊織が「おかえり、朔夜」と口を利いた。声にまで挑発的な色気がある。言わば、究極かつ極上のセクシーボイス。
車を出しつつ、伊織は言う。
「それで? なにか収穫は?」
「なくはねーな。むしろ、あったよ」
「具体的には?」
「JKを助ける羽目になった」
「JKって?」
「JKはJKだ」
「ああ。女子高生のことか。なに? レイプでもされそうになってた?」
こっちに流し目を寄越して、にぃと笑んだ伊織である。ルージュなんて気の利いたものを使っているとは思えないのだが、厚ぼったい唇の色気と言ったらない。ちょっと殺人的だ。
俺は「おっかねーよ。なんでそこまで勘がいいんだよ」と顔をゆがめた。実際、その感のよさについて空恐ろしくなった。「だって、私は女だからね」と返ってきた。言ってくれる。まるでなんの回答にもなっていない。だから「答えになってねーな」とやり返してやった。
「ちなみに、そのJKの名前は?」
「それって重要か?」
「一応、訊いてみてる」
「えーっとな……」
「がんばれ。思い出せ」
「ああ、そうだ。確か、クサナギ・リサっつったかな」
「ふぅん。クサナギ、クサナギか……」
「なんだよ。なんかあんのか?」
「まあね」
偶然助けたクソJKのことなんざどうでもいいので、「なんでもいいからとっとと送ってくれよ。今日はもう店じまいだろ?」と訴えた俺。
「店じまいかと言われると、じつはそうでもなかったり」
「ああん?」
繁華街を進む中、そのうち伊織が「ボスからの召喚命令」と口を開いた。
「なんの用事だってんだ?」
「さあ。寄れとしか言われてない」
「明日じゃダメなのかよ」
「ダメみたい。それくらい悟れ、後輩」
ちっと舌打ちが漏れた。面倒な話だと思う。今すぐ家に帰ってシャワーを浴びて酒をかっくらってベッドの上で落ち着きたいからだ。けど、上司の指示とあれば従わないわけにはいかない。ただの兵隊に過ぎない俺達からすればやむを得ないことだ。このへん、サラリーマンと大差ない。
俺と伊織が所属している組織の名は「治安調査会議」という。略して「治安会」。その仕事は警察と似たような内容ではあるものの、なんでも屋的な側面が多分にある。縄張りはここ、神戸沖にある人工島、いざなみ県、いざなみ市。ありとあらゆる決定権、それに経済の中心等が東京に一極化していることは旧来から問題点とされていた。それを解消すべく、政治の中心が当該に移転された。運用が始まったのは五年前、二千四十五年のこと。まだまだ真新しい土地であるわけだが、ようやくサマになってきたと言っていい。
街を抜け、やがて交通量の少ない道路に出たところで、俺は煙草に火をつけた。アメスピだ。パッケージは緑色。タールは九ミリ。中学生の時から吸っている。そのへんのダチより付き合いはずっと長い。
「アメスピって臭いよね」
「うるせー。パーラメントなんていうお高くとまったもんよりかなりマシだ。ずっとイケてんよ」
「それはそうと、たばこ税、また上がるんだってさ」
「マジかよ」
「マジマジ」
「ったく。財源に困ったらすぐに値上げしやがんだから、喫煙者からすればたまったもんじゃねーよな」
「そうだよね。偉そうにしてるばっかりで、ホント、政治家ってのは仕事しないんだから」
それなりに起伏に富んだ海沿いの道路をしばらく走り、やがて平たい国道に出て、それから少し進んだ先にある十字路で右折。二キロほどの直線の先に白い円柱状の建物が見えてくる。通称、ホワイトドラム。床面積が広いのっぺりとした平たい建物にはまるで愛想がない。データセンターみたいだ。それくらい、ヒトの出入りを拒絶しているような印象を受ける。
車は地下駐車場に滑り込んだ。降車する。伊織がさっさと足を進める中、俺は小さな管理人室に詰めている太っちょのオバサンに「ごくろうさん」と声をかけた。それから二人してエレベーターに乗り、四階に上がった。
エレベーターホールから出て、なだらかに右方へと湾曲している硬質な廊下を歩く。目当ての部屋の前に伊織が立つと、自動式のスライドドアがスッと開いた。中では白い蛍光灯のもと、老人がゴルフクラブを持ってスイングしていた。奥にあるマホガニー製の机には相変わらず書類が山積している。いまどき、電子媒体ではなくペーパーメディアで情報を読み込もうとするニンゲンは珍しい。
老人の名は、後藤泰造という。「治安会」のトップだ。正式な役職名は代表。が、代表と呼ばれることは嫌がる。基本的にはのんびり屋。ともすれば昼行燈にも見えかねない。だけど、どんな細かな事項であろうと後藤さんは把握している。情報の倉庫番とでも表現すべき人物なのだ。顔は広いらしい。あちこちに顔が利く立場でもあるらしい。見た目に関して言うと、かなりのっぽ。百九十を越える。おつむの白髪は寂しいけれど、彫りの深い顔立ちからして、有名人に例えると、晩年のクリント・イーストウッドといったところ。ゆえにキャバクラなんかでは、結構、モテるらしい。本人がそううたっているだけで、裏が取れているわけではないのだけれど。
後藤さんは木製の本棚にクラブを立て掛けると、こちらを向いた。「やあ、伊織さん、朔夜くんも」と言って、にっこりと目を細める。
伊織が応接セットの茶色いソファについた。俺はその隣に腰を下ろす。ややあってから、後藤さんが「どっこいしょ」とテーブルを挟んだ向こうに座った。やはり、にこりと笑う。人畜無害そうな笑顔。が、その実、腹のうちにおさまっているのは、悪はゆるすまじという強烈な信念だ。「犯罪に対してはいつもチャレンジングであろうよ」と、いつだったか、聞かされた覚えがある。まあ、悪者にはその意気で接するべきだし、そうあって当然だとも思う。
伊織が長い脚を組み直した。
「それでボス、なんの用事?」
「いやあね、伊織さんに朔夜くん。きみたちは滅多にここに顔を出してくれないものだから、寂しいなあと思ってね」
「それだけ?」
「それだけさ」
「本当に?」
「うん。悪いかい?」
呆れ果ててしまい、その結果として俺の口からはため息まじりに「悪いスよ」と漏れた。後藤は嬉々とし「おやおや。朔夜くんは今日も率直に物を言ってくれるね。まさに平常運転だ」とはしゃぐように言った。俺はなおいっそう呆れる。「もう二十二時を回ってるッスよ。眠たいんスよ」と正直に告げた。
「朔夜くん、早寝なんだね、きみは」
「そうなんス。だから、とっとと帰してやってくださいッス」
「冷たいなあ。ねぇ、伊織さん。きみもそうは思わないかい?」
「ただ顔を見たいだけっていうのであれば、私だって迷惑。しかもかなり」
「つれないなあ」
「一つだけ、質問しても、いいっスか?」
「歓迎するよ、朔夜くん、いいよ、なんでも答えよう」
このタイミングで俺は頭を掻き、たばこを吸うわけにもいかないので、それでも顔を強烈にゆがめることはした。ほんとうは質問なんてしたくないのだ。とにかく帰りたい。その一言に尽きる。
「前から常々思ってたんスけど、単なる本庁勤めの刑事でしかなかった俺を引き抜いたのは、どうしてなんスか?」
「君のことを、僕は以前から知っていた」
「だから、それってどうしてなんスか?」
「本庁きってのトラブルメーカーだって話だったからだよ。そう聞かされたら、僕みたいなニンゲンからすると、興味を抱かざるを得ないだろう?」
「よくわからない理屈っつーか、理由ッスね」
「要するに、より面白おかしい結果をもたらしてくれるファクターとして、君のことをどうしても組織に迎え入れたかったということさ。なにをやるにあたっても大切なのは遊び心だということだよ」
遊び心で人事を動かされちゃたまらない。そうも思うのだが、なにをなすのもなせるのも力があってのことだ。目の前にいるじいさまにはその力がある。世の中どうなってんだか。おっそろしい話だ。
「当然の切り返しっスけど、内閣直属の非公開執行組織に遊び心って必要なんスか?」
「僕はそう思っている。必須だとすら考えている」
「結局のところ、俺は褒めてもらってるんスかね?」
「そのつもりだよ」
「けど、俺ってあんまり上等なニンゲンじゃないッスよ」
「僕はそんなきみをかわいいと思っている」
「気色悪いス」
「まあ、そう言わないでよ」
伊織が立ち上がった。「帰るよ、朔夜」と言う。すると、「まあまあ、そう焦りなさんな」と後藤さんが待ったをかけた。
「なに、ボス。まだなにかあるの?」
「伊織さん、それに朔夜君もだ。一緒に写メを撮ろう」
いきなり馬鹿みたいな提案だ。なにが目的なのかわからない。いいや、きっと目的なんてないのだろう。そういうわけのわからないところがあるジジイ。掴みどころがまるでないとも言う。それが後藤泰造という男だ。
後藤さんが言う。部屋の真ん中に進み出ながら、「さあ、ほら、おいで」って。俺は眉間に皺を寄せながら伊織を見る。伊織は小さく肩をすくめて見せた。乗り気ではないのだろうが、仕方がないと踏んだらしい。
俺と伊織は我らがボスの顔を挟む格好で頬を寄せた。当の後藤さんときたら嬉しげに「行くよー。はい、チーズ」とパシャリ。スマホのディスプレイを確認して、「うんうん、よく撮れてる、よく撮れた」とご満悦の様子。「早速、壁紙にさせてもらうよ」と嬉々とする。吐き気がするほど無邪気すぎるジイサマだ。ニ、三回、涅槃を見たほうがいいんじゃねーかって思う。
いよいよ伊織が速やかに退室しようとする。そこをまた、後藤さんが呼び止めた。
「ボス、今度はなに?」
「いやね、伊織さん。いい加減、あの小さな黄色い車は処分したらと思ってね」
「足回りは強化してるし、まめにメンテにも出してる。その甲斐あって、とってもきびきび一所懸命走ってくれる」
「だけど、最高速度なんてたかが知れてるだろう?」
「私はあのコのフォルムが気に入ってるの」
「あのコって言うあたり、ほんとうに好きなんだね」
「そういうこと」
部屋から出ていく伊織。俺もそれに続く。廊下を進みつつ、「後藤さんの意見にも一理あると思うぜ?」と、やんわりスイフトスポーツのことをディスってやると、「うるさい」という一言だけの回答が返ってきた。
「しつこく言うつもりはねーよ」
「だったら、黙ってな」
「へいへい」
まったく、伊織さんってば、おっかないのだ。